【書評】青木美希著『地図から消される街-3.11後の「言ってはいけない真実」』

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2018年4月5日

◎過去にあった話は今もある。残念ながら、至る所に
 北嶋孝(ひばりタイムス編集長)

 自分たちに不都合な「事実」が現れると、理屈を駆使して「なかった」ことにする。事実の「記録」はときに削除し、ときに「見当たらなかった」となる。最近、よく見聞する不祥事を思い浮かべるけれども、東日本大震災、とりわけ東京電力の福島第一原子力発電所の事故と被害は当時もいまも、そんな事例が至る所に露出している。本書を読んで、あらためてそういう思いを深くした。

 著者は震災と原発事故の直後から7年余り、被災した現地と避難した住民の取材を続けてきた。「手抜き除染」報道で2013年度新聞協会賞を受賞した朝日新聞社特別報道部取材班の一員だった。チームの記者は転勤し、原発報道から離れる。著者も部署異動するが、それでも「周囲に理解を求め」取材を続けてきた。その一端が本書にまとめられている。

 序章、第1章、第2章は現地の報告だ。避難しても残っても、震災と原発事故は深い傷痕を残した。

 原発事故後、母子で首都圏に避難。仕事を掛け持ちしながら教育費を稼ぎ、2人の子どもを中学、高校、大学に進学させたものの支援が打ち切られ、生活に追われて命を絶った女性。非難を浴びても勤めざるを得ない東電の地元採用者。しかし復興事業と避難指示解除、帰還促進の方針はずんずん進む。

 2017年4月。ちょうど1年前、福島県浪江町で避難指示解除された地域の仮設店舗を、安倍首相が訪れ「復興の象徴」として大きく報道された。しかし実態は政府の思惑や報道とは違っている。著者はこう指摘する「解除された人は、1万5191人。帰還した人は解除の10ヵ月後でも311人と2%にすぎない。その3分の1が町職員だ」。放射線測定器で地域の数軒を測らせてもらったら「住宅敷地内でも除染基準の4倍以上の1マイクロシーベルト毎時以上のところがあった。ある家では2階で0.8マイクロシーベルト毎時。家の中は除染対象外のため、数値が高いと懸念する住民女性もいた」。

 現場を歩くと、切実な声を聞く。「現状を伝えてほしい」「政府はすべて収束したとしている。とんでもない」「解除されても70歳以下はだれも戻ってこない」…。戻れない、戻らない人もハッピーなわけではない。住宅は、離ればなれの家族は、親の介護は…。困難を抱えていても、避難指示区域外からだと「自主避難者」と呼ばれ、支援が必要なのに打ち切りになる。福島県や神奈川県などは避難者数から除外しているという。

 除染現場でも生々しい実態に突き当たる。汚染された落ち葉などを川に捨てろと言われて戸惑う作業員を、上司が大声で怒鳴る。屋根に付着した汚染物質は拭き取ることになっているのに高圧洗浄で流してしまう。汚染物は地面へ地下へ河川へ。作業員らの賃金も中抜きされ、訴えると解雇が待っている…。監視役となるべき環境庁の現場事務所は人手不足でままならない。

 第3章は「原子力村」OBの重鎮が語る「帰還政策は国防のため」。「原発稼働は潜在的な『核抑止力』を維持するためか」「日本は原発製造能力をもっているか」「製造までかかる時間はどれぐらい」「米国が日本の原発から生じたプルトニウムと高濃縮ウランの引き渡しを求める理由は」。こんな問いかけに「現役は語れない」状況が徐々に「告白」される。

 これだけでも気が重くなるのに、次の「官僚たちの告白」の第4章には、やりきれない気分になった。2013年秋、南相馬市の収穫米から、基準(キロ当たり100ベクレル)を超える汚染が検出された。農林水産省は「原発のがれき撤去での放射性物質飛散の可能性がある」として東電に対策を要請した。東電はがれき撤去の当日、4時間で計4兆ベクレルの汚染があったと見積もった。ところが…。

 原子力規制委員会の検討会で数値はみるみる減らされ、最終的には当初の36分の1、1100億ベクレルとなった。「リスクを高く見積もると福島の解決に大きな障害になる」と、後に委員長になる更田豊史委員長代理が発言したという。

 それだけではない。汚染の原因究明と再発防止に動く農水省担当者に思わぬ事態が待ち受けていた。原子力規制庁の態度があるときから急変したのだ。エネルギー庁に出向いても「廃炉優先」で汚染問題に向き合ってもらえない。ところが米汚染がニュース報道されたら「内閣府原子力被災者生活支援チーム」が動いた。規制庁を含む6省庁の幹部が招集され、遣り取りが続いた。結局「これだけ検討してきたけれども、結論は得られなかった」とまとめられた。責任の所在も不明なまま、「あったこと」はどこかに置き去りにされ、汚染の事実は洗い流されたも同然だった。

 第5章では、避難者の子どもがいじめに遭う事件が追跡されている。「いじめとは言えない」「断定する根拠は得られなかった」と言う学校側と教育委員会。自主避難者の住宅支援を打ち切るさい、生活実態を汲み取るより、結論ありきの対応を続ける行政側の姿勢も浮き彫りになる。そんな困難ケースが第6章で丹念につづられる。

 情緒的な言葉はない。事実を踏まえ、簡潔な記述で事態を追っていく。同業の端くれとしてつい想像してしまうのだが、一つ一つの事実を確認するまでどれだけエネルギーを費やしたのか。手抜き除染の現場取材の際に車で拉致されかかり、話を聞いているカラオケボックスで襲われそうになったりした。厳冬の山中で終日張り込んだ同僚記者は凍傷で足先を傷めた。さらりと触れるそんなエピソードにため息が出る。

 報道は上滑りしていないか。メディアは観察と記録を怠っていないか。言外に静かな怒りと嘆きを感じるのは筆者だけでないだろう。

 政局は「忖度」や「改竄」や「隠蔽」で揺れている。おそらくいま取り上げられている現象は氷山の一角なのだと、本書の読者は考えるだろう。過去にあった話は今もある。残念ながら、至る所に。そう思うと、やはりため息が止まらない。

 

【関連リンク】
・福島原発事故「消えた避難者3万人」はどこへ行ってしまったのか-3・11後の「言ってはいけない真実」(講談社現代ビジネス

 

【書籍情報】
書名:地図から消される街-3.11後の「言ってはいけない真実」
著者:青木美希
出版社: 講談社
ISBN: 978-4062209960
新書: 284ページ

 

 

北嶋孝
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【書評】青木美希著『地図から消される街-3.11後の「言ってはいけない真実」』」への1件のフィードバック

  1. 1

    ジャーナリストの面目躍如。「挙証責任」を問われると二の句が告げない。しかし、実態・真実を想像するのは難くない。昨今の状況を見ると、そんな感を改めて強くする。「不都合な真実」は、権力(執行部)によって揉み消されるのが常。それをマスコミをはじめ主権者たる国民は厳しく監視・チャックすることが何よりも肝要。東電の立場では、きっと「被害者」の想いではなかろうか? 事故は人災ではなく自然災害。原発は政府から強要されたもの。しかも、地元住民の了解もあった。何故に、厳しく責任が問われるのか?。そんな想いが透けて見え、垣間見られる。我が街にも不都合な真実が山のように。しかし、それを声はか細く届かない。それが国民・住民の偽らざるレベルでは?

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