中野れんが坂裏通り

「わたしの一冊」第2回 井上靖著 詩集『北国』

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2020年11月12日

冷たい4畳半でふれた青春の一冊 by 川地 素睿

 

 上京して初めての冬、冷たい4畳半のアパートで過ごした。大学受験で気持ちをすり減らしていた2月、アパートのある中野区の宮園書房で定価60円、80ページに満たない詩集『北国』を購入した。井伏鱒二が訳詩した「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」の文句に魅かれていたわたしには鮮烈で寂寥感に満ちた詩集だった。(写真は、徘徊していた中野駅前の裏通り)

 

一冊の詩集に心を揺さぶられた

 

 「人生」「猟銃」「北国」「シリア砂漠の少年」など38編が並んでいた。今は黄ばんで懐かしいにおいのする文庫本の最初の詩が「人生」。不安に揺れていた自分が、最後の一行に鉛筆で薄く線を引いていた。

 

冒頭の詩「人生」

 

M博士の「地球の生成」といふ書物の頁を開きな
がら、私は子供に解りよく説明してやる。
(中略)
人間生活の歴史は僅か五千年、日本民族の歴史は
三千年に足らず、人生は五十年といふ。父は生ま
れて四十年、そしておまへは十三年にみたぬと。
――私は突如語るべき言葉を喪失して口を噤んだ。
人生への愛情がかつてない純粋無比の清冽さで襲
つてきたからだ。―「人生」(1948年)

 

言葉が欲しくなるたびに

 

 ノートに書きとめていた詩編があった。

五歳の子供の片言の相手をしながら、突然つき上
げてくる抵抗し難い血の愛情を感じた。自分はお
そらく、この子供への烈しい愛情を死ぬまで背負
ひつづけることだらう。かう考えながら、いつか
深い寂寥の谷の中に佇んでゐる自分を発見した。
その日一日、背はたえず白い風に洗はれてゐた。
 (中略)
無数の波頭が自分をめがけて押し寄せるのを見入
るまで、その日一日、私は何ものかに烈しく復讐さ
れつづけた。―「愛情」(1948年)

そして、人生の白い河床をのぞき見た中年の孤独なる
精神と肉体の双方に、同時にしみ入るやうな重量感を
捺印スタンプするものは、やはりあの磨き光れる
一個の猟銃をおいてはないかと思ふのだ。―「猟銃」(1948年)

天体の純粋透明な悲哀感が、次第に沈澱降下しながら、
町全体を押しつつむ。―「北国」(1948年)

 

 敗戦の翌年、井上は「友」の中で痛切な告発を試みている。

どうしてこんな解りきつたことが
いままで思ひつかなかつたらう。
敗戦の祖国へ
君にはほかにどんな帰り方もなかつたのだ。
――海峡の底を歩いて帰る以外。―「友」(1646年)

 

黄ばんでしまった詩集「北国」

 

 井上の小説は『蒼き狼』一冊しか読んだことがなかったが、それから言葉が欲しくなるたびに開いた。いまではすこし気恥ずかしいが、青春の一冊という以外にないわたしの詩集だ。

 

【書籍情報】
書名:詩集『北国』 (新潮文庫)
著者:井上靖
出版社: 新潮社(井上靖全詩集 文庫版、1960年)、東京創元社(初版1958年、完全復刻版1996年

 

川地素睿
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「わたしの一冊」第2回 井上靖著 詩集『北国』」への1件のフィードバック

  1. 1

    私の記憶では、ひばりが丘南口にも宮園書房がありました。たしかブックカバーに中野にも店があることが刷られていたように思います。現在のパチンコ屋さんの隣の隣あたり。棚が高く、みすず書房の本なんかが揃っていた記憶があるのですが、本当に書店名が「宮園」だったか、いまのところ確かめられません。あ、本の内容についてでなくてすみません。でも、古い文庫って、何かを語っていますよね。

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