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玉川上水

書物でめぐる武蔵野 第10回 玉川上水の「玉川兄弟」はいなかった?

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2021年7月22日

杉山尚次(編集者)

 「書物でめぐる」というわりには、新しい本を取り上げていないな、と思っていたところ、東京新聞の書評で『武蔵野マイウェイ』(冬青社)を見つけた(とはいっても4月のことだけど)。著者は『モダン都市東京 日本の一九二〇年代』など、ユニークな都市文化論で知られる海野弘。この連載8回で取り上げた陣内秀信が時を経て、郊外論を加え『東京の空間人類学』の続編を書いたように、海野弘も〝郊外〟なのかしらんと思いながら、読んでみた。(写真は「境浄水場」の隣を流れる玉川上水。隣にあるからといって、現在の玉川上水の水がここで浄化されているわけではない)

 

武蔵野の南北

 

武蔵野マイウェイ

『武蔵野マイウェイ』(Amazon

 もっとも書評を読んでいるから、肩肘張った郊外論ではないことはわかっていた。でも想像以上に〝散歩本〟だった。これは悪い意味ではない。「なるほど武蔵野だよな」と感じさせるさまざまな土地を気ままかつ精力的に歩きまわり、神社や寺、図書館、古書店、林、川、喫茶店…いろいろな場所との〝対話〟を楽しんでいる。著者は、武蔵野の魅力は歩いて感じるべし、と考えているに違いない。

 

 国木田独歩の『武蔵野』にインスパイアされて武蔵野を歩くようになったと書かれている。どこが散歩のスタートの地かというと府中である。武蔵国の中心からという意味もあるのではと思った。散歩の中心は、府中周辺や甲州街道、武蔵野(国分寺)崖線に沿ったあたり、つまり大岡昇平の『武蔵野夫人』で有名になった〈ハケ(崖)の道〉周辺から多摩川、玉川上水、さらには中央線沿線の街となっている。私のような「北多摩」の住人からすると、「南」に偏っている感じもなくはないが、武蔵野のイメージとしてはこちらのほうが一般的だろう。もっとも「保谷の四軒寺」や「石神井公園のまわり」という項目もあり、配慮はしているぞという感じもある。

 

『私の日本地図⑩・青梅』

『私の日本地図⑩・青梅』(Amazon

 この本でも引用されている〝旅する巨人〟といわれる民俗学者・宮本常一『私の日本地図⑩・青梅』(原本1971年同友館、書影は2008年未来社版)によると

 

《江戸幕府がひらかれるまでは、武蔵野の道は東西に通ずるものよりも南北に通ずるものの方が重要であった。したがって古い宿場もその道にそうて見られた。府中から北へいって最初にあった宿場が恋ヶ窪であったという。そこから北へまっすぐにいって久米川の宿にいり、さらに入間川へとつづく。》p32

 

 とある。武蔵野のイメージにとって「南北問題」は案外重要かもしれない。

 

狛江は高麗

 

 ともあれ、『武蔵野マイウェイ』に戻ると、興味深い記述を見つけた。
 「狛江めぐり」という項目。まず、府中の大国魂神社から調布、狛江、世田谷、六郷を通り品川の海に出るほぼ多摩川に沿った「品川道」の説明がある。「この品川道は筏道ともいうが、物資を筏に乗せて多摩川を下り、品川の海まで運んで、帰りは歩いて帰って」きたのだそうだ。似た話が武蔵国の北部にある。かつて川越は、新河岸川(清瀬や朝霞あたり)・隅田川経由で東京湾と水運でつながっていた。つまり狛江も川越も、水運で東京湾とつながっていた、という話である。

 

 もうひとつ、北多摩あたりとの興味深いアナロジーがある。

 

 《狛江という地名が興味をそそる。はっきりしていないが、コマは高麗(こま)からきていて、古代朝鮮の高句麗の人々がここに移住してきたのでコマエ(コマのいる所)となったのではないか、といわれている。》p30

 

 前回もふれた武蔵国における、古代朝鮮からの渡来人の伝承がここにもある、ということだ。ただ、海野氏は「亀塚古墳」が関係あるかもしれないことをほのめかす程度で、この件について深入りしていない。そこで狛江市のホームページをのぞいてみた。

 

 狛江の古墳の多くは、5世紀半ばから6世紀半ばに集中して造られている。亀塚古墳の出土品のうち、「金銅製金具に見られる人物や動物の像が、高句麗の古墳石室内の壁画に類似している」ことから、古墳築造の文化の伝播に、渡来人がかかわっていた可能性が記されている。武蔵国の「高麗郡」が埼玉県の日高市あたりに設置されたのは8世紀だから、狛江の高句麗からの渡来人はそれよりも早いことになる。

 

 同ホームページは「狛江への伝播の流れは定かではありません。古墳築造の文化は、畿内から北武蔵を経由して南武蔵へ伝播し、多摩川をさかのぼるようにして広まったものと考えられます」と書き、同市の多摩川とのつながりの深さを強調しているようにみえる。北から南へ、それから西? すると下線部の「南武蔵」は多摩川河口あたりを指すのだろうか。

 

玉川兄弟はいなかった?

 

 さて、海野氏の武蔵散歩は続き、玉川上水に沿って歩くことになる。現在の玉川上水の水は、「玉川上水駅」近くの「東京都水道局小平監視所」まで流れてきて、そこから東村山浄水場に送られる。現在の玉川上水の下流は下水処理場からの水である。つまり上流と下流では違う水が流れていることが述べられている(p104)。

 これについては、さもありなん、と思った(東京都水道局のホームページにもその旨述べられている)が、筆者にとっては驚きの記述があった。

 

 《調べてみると…そもそも玉川兄弟などというものはいなかったのである。庄右衛門、清右衛門という二人の町人が工事計画を請け負ったと伝えられている。そして成功したので、玉川の姓をもらったという。つまり玉川兄弟がやったのではなく、あとで玉川と呼ばれたわけだ。/この二人が本当の兄弟であったかどうかもわからないし、さらには、実在したかどうかもはっきりしない。伝えられているのは、玉川家の子孫が、先祖の玉川兄弟が玉川上水をつくったといっているだけのことだ。幕府の記録には残っていないという。》p100 下線は引用者、出典の記載なし

 

通説

 

 これはかなり大胆な断定ではないだろうか。筆者はこれまで、玉川上水は玉川兄弟がつくったと思っていた。その工事は苦難の連続で、それを乗り越えての完成だったという物語も記憶していた。

 

 多摩川からの取水口がある羽村市は、「兄弟」の銅像までつくってその「偉業」をたたえている。羽村市の公式サイト「羽村市郷土博物館」にはこうある。

 

 《玉川上水は、庄右衛門と清右衛門という兄弟の立てた計画を幕府が認め、6000両の資金を与えて工事を行わせました。途中でお金が足りなくなり、2人は自分たちの家を売って工事の費用に充てて上水を完成させたと、後に2人の子孫が残した記録に出ています。(中略)玉川上水の完成により、町人だった庄右衛門と清右衛門は「玉川」という姓をもらい、上水の管理の仕事を任されました。玉川家による上水の管理は、江戸時代の中ごろまで続きました。》

 

 東京都水道局のサイトも「玉川兄弟説」を採っている。

『玉川上水 武蔵野 ふしぎ散歩』

『玉川上水 武蔵野 ふしぎ散歩』(Amazon

 また、玉川上水を細かく歩く『玉川上水 武蔵野 ふしぎ散歩』(福田恵一・飯田満、2011年、農文協)の冒頭にも「玉川兄弟が、江戸の町の飲み水を確保するために玉川上水を開削します」とある。ただ、「玉川上水をつくった当時の記録は、ほとんど残っていません。玉川兄弟の事績は、玉川上水が完成した一六五四(承応三)年から一〇〇年以上たった一七九一(寛政三)年に、幕府の普請方、石野広道(通)によって書かれた『上水記』などに記録されているだけ」と断り書きがついている。(p42)

 

 余談だが、この本には、玉川上水があたかも崖を上るように、いくつもの段丘面を越えて武蔵野台地の最上面に導かれ、江戸城まで流れる仕組みが説明されている。「さぞかし大変だったんだろうな」と思いつつ、江戸期の土木技術に感心する。この困難さが〝伝説〟を形成させたのかもしれない。

 

よからぬ振る舞い、ありしかば

 

 ただ、「通説」については、よく読むと保留がついている例もあることがわかった。この連載の8回で紹介した『日本史の謎は「地形」で解ける』(竹村公太郎)では、「(玉川上水は)玉川兄弟の力で完成したという話はともかく」(p213)という書き方をしている。『川の地図辞典』(菅原健二)も「庄右衛門と清右衛門」が工事を請け負ったとあるが、二人を兄弟とはしていない。つまり、「兄弟」については伝説である可能性が考えられる。

 

 では、この二人は海野氏のいうように実在しないのだろうか?
 武蔵国の地誌としてしばしば引用される『新編武蔵風土記稿』には、「玉川上水起点(羽村取水堰)」についての記載があるようだ。東京の地誌に詳しいサイト「猫の足あと」から孫引きさせていただく。

 《多磨川/村(羽村)の中央を西より南へ流る、當村江戸上水の引分口なれば水門を置、二派にわかてり、(中略)その比の功(多磨川[玉川]上水をつくった功)をおこせしものは、清右衛門・庄右衛門とて、江戸居住のものなり、/成功の後かれらを御普請役に命ぜられ(普請役になったのは工事の後ということ)、しかも多磨川を以て氏に賜ふ(玉川氏の由来)、/後兩人共によからぬふるまひありしかば、罪かうむつて家絶と云、/また川越の間帛の灌漑に此水を引し(野火止用水のこと)も、伊豆守信綱のときなりと。》下線、( )は引用者の注、句点のところに/を入れた。

 

 「家」というところが、二人を兄弟とする(伝説の)根拠になったのかもしれない。普請役になったのは工事以後のことだし、二人はのちに悪いことをして家は断絶、せっかくもらった姓も台無しになった、というところがその出自を曖昧にしたのだろうか。

 

 ここまで見てきて、この二人は「いなかった」と断言できる材料は見当たらないように思える。幕府の普請方が書いた『上水記』というのは未見だが、それは専門の方にお願いしたい。面白いのは「いた/いなかった」ということではなく、玉川上水には、「玉川兄弟」という少々胡散臭い人物をめぐる物語が必要だった、ということではないだろうか。これを今回の結語としたい。

 

 

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書物でめぐる武蔵野 第10回 玉川上水の「玉川兄弟」はいなかった?」への3件のフィードバック

  1. 杉山尚次
    1

    ご感想を編集部にお送りいただきましたMさま、ありがとうございます。励みになります。バックナンバーはこちらからご覧になれます。https://www.skylarktimes.com/?page_id=25980

    編集部からお礼のメールを差し上げたのですが、メールが届かなかったようでした。

    今後ともご愛読のほど、よろしくお願いいたします。
    杉山拝

  2. 2

    この兄弟の話は良く聞きます。
    実在した/しないはさて置き、誰かが作る・管理し・今日に至ってます。
    その先人の苦労を時々思い出しながら今日を送っています。
    西東京市在
    鈴木

  3. 杉山尚次
    3

    コメントをありがとうございます。レスが遅れてすみません。おっしゃる通りで、いる/いないより、玉川上水には当時ものすごく高度な土木技術が使われていたことのほうが、重要かと思います。

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