東京新聞

東久留米市前沢に戦争孤児施設があった 旧陸軍通信所跡地に1950年まで

投稿者: カテゴリー: 暮らし オン 2021年11月25日

 戦争によって肉親を失い、行き場をなくした孤児たちが、上野駅周辺に野宿していたことはドラマや映画で描かれてきた。しかし、そんな子どもたちを保護した施設についてはあまり知られていない。東京都の久留米町(現在東久留米市)に戦後の一時期、そうした施設があったことがおそらく初めて公にされ、今年10月10日付けの東京新聞「こちら特報部」に掲載された。この問題を追求し、同紙の取材にも同行した元明星大学教員の藤井常文さんに、その施設について寄稿してもらった。(編集部)(写真は、戦争孤児施設を伝える東京新聞)

 

 戦争孤児施設・久留米勤労輔導学園

 10月10日の東京新聞は「目指したのは孤児の理想郷」と題する記事で、戦争孤児施設・久留米勤労輔導学園を紹介しました。東久留米市の教育史で忘れられていた学園に光が当てられたのです。記者とともに私も前沢の旧陸軍通信所跡地(以下、前沢住宅)を訪れました。学園で暮らした当事者・山崎 明氏(86)と、前沢住宅で暮らした創設者の次男・律生氏(84)には、1947(昭和22)年11月14日に米軍が撮影した航空写真を基に、当時の学園の建物の位置などを事前に図示していただきました。訪れた日は、学園のことを記憶され、いまも前沢住宅に住んでおられる林 孝氏(79)が案内してくださいました。

 

航空写真

学園の位置などを書き込んだ米軍の航空写真(中込律生さん提供)

 

 上野界隈を放浪していた年長児(国民学校高等科卒業年次から18歳ころまでの児童)を前沢住宅に保護した1946(昭和21)年1月26日が、久留米勤労輔導学園(以下、学園)の始まりです。創設者の中込友美氏は文筆家という方がふさわしい人物で、江渡荻嶺(えとてきれい)を師と仰ぎ、戦前から戦後にかけて詩を同人誌に発表し、挫折と彷徨の生涯を送りました。

 東京都民生局の資料では、学園の経営主体は恩賜財団・同胞援護会東京都支部となっていますが、運営実態は定かではありません。数棟の建物と畑は、後に乳児院および養護施設・恵明学園を創設する草場 弘氏から借り受けたものでした。

 およそ40名弱の学齢児(国民学校の初等科・高等科に在学可能な年齢の児童)と年長児が6、7名の職員とともに2階建ての2棟(第一寮、第二寮と呼んでいた)で暮らしておりました。井戸も風呂も隣接する民間住宅の住民と共同でした。山崎氏の話では、職員には国民学校の元教師とその教え子で農業をしていた人、キリスト教牧師、大学の先生だった人、後にNHKのアナウンサーになった人などがおりました。中込友美氏の家族も住宅に住み込み、園長の妻・しづ子さんが母親代わりでした。しづ子さんは戦前、社会事業家・丸山千代氏の運営する西窓学園で保母としての勤務経験がありました。

 

 自立を目指した学園での生活

 園長が掲げた理念は職業教育による自立です。当時、戦争孤児施設はどこも、金も食糧もモノもないなか、衣食住を用意するだけで精いっぱいでした。そんななかで掲げた職業教育の理念は、はるか先を構想したものでした。住宅の隣に畑を確保し、農作業が行われ、サツマイモの苗や小麦を植え付けました。養鶏、電気工作、農産加工などの作業が行われました。パン屋に働きに出る子どももおりました。

 空腹を抱え、ひもじい思いをしている年長児を養護することは、実に大変なことだったと思います。生活に不満を抱き、出入り自由の住宅を飛び出して花小金井の駅から無賃乗車し、上野に向かう子どももおりました。

 学齢児は村内の国民学校(後に久留米小学校)と、翌年に開校された久留米中学校に通学しました。当時、戦争孤児の多くは、空襲で学校が焼失したり、長欠していたりして、学籍を失い、復学することは容易ではありませんでした。“浮浪児”のレッテルを張られ、役所や学校が拒むことも珍しくありませんでした。

 

学園の子どもたち

学園の子どもたちや関係者。前列中央が中込友美施設長(中込律生氏提供)

 

 学齢児がこぞって通学できたのには、当時の村役場と校長の理解はもちろん、村民の理解があったからだと思います。律生氏の話では、当時の校長は神藤文次郎という人で、学園の良き理解者だったと言います。東久留米市の現市長の父親と級友だった、との話も律生氏から聞きました。

 学園の子どもたちは、学業と作業の合間に、防火用の池で水遊びをしたり、鉄塔によじ登ったり、通信所の隊員が残していった卓球台でピンポンをしたりして遊んだようです。当時、小平町にあった恵泉女学園専門学校の女学生が毎週火曜日の夜に学園を訪れ、讃美歌を教えてくれたこと、クリスマス会に村長が来たこと、『のらくろ』の作家・田河水泡が来て黒板にチョークで絵を描いてくれたこと、村山貯水池に遠足に出かけたこと、ヘレンケラーの来日講演会に出かけたこと、横浜市まで日本貿易博覧会の見学に出かけたことなどの逸話を山崎氏から聞きました。

 

 歴史に刻むべき「4年4か月」

 1950(昭和25)年5月、学園は閉鎖を余儀なくされるのです。園長にとってはこころざし半ばでの苦渋の決断でした。閉鎖の背景にはいくつもの事情が絡んでおりました。

 看板の職業教育についてGHQから指導がありました。村民の一部から誹謗・中傷があり、誤解もされました。園長はその事実を社会事業専門誌に寄稿した報告書で触れていますが、詳細は明らかにしていません。山崎氏や律生氏の話から、登校前の畑仕事や肥し運びなどが強制労働と批判され、GHQの耳に入ったのではないかと思われます。

 律生氏によりますと、GHQから解散を言い渡されたと父親が語っていたとのことですが、そうではなく、指導の一環であったと思われます。当時、運営に難渋していた全国の児童保護施設は、公立施設も含め、各地に配置された軍政部の福祉部門から、子どもを逃がすなと言われるなど、露骨な指導を受けておりました。

 恒常的な食糧不足も大きな問題でした。食糧を確保するだけの資金がないのです。宗教団体など大口の支援が皆無で、ララ物資(米国の慈善団体などからなるLARA ララ [アジア救済連盟]による物資)だけが頼りでした。園長が学校に出向いて全校児童と教師に食糧援助を呼びかけることもありました。園長の妻・しづ子さんがリヤカーを引いて近隣の農家に野菜をもらい歩くこともありました。これらのことを律生氏が鮮明に記憶にとどめています。

 そのしづ子さんが結核に罹患し、小平町の昭和病院に長期入院する事態に陥りました。食糧不足と過労が原因です。学園の子どもたちの母親役がいなくなったのです。さらに園長自身も一時倒れました。学園は絶体絶命の状況に追い込まれたのです。

 閉鎖に当たり、子どもたちは練馬の養護施設・錦華学院に移ったり、長野県や山梨県の農家に引き取られたりしました。山崎氏が向かった先は園長が紹介してくれた農家でした。わずか4年4か月の歴史でしたが、職業教育の理念と実践は大いに評価されて良いと思います。東京都民生局はその重要性を認識し、この数年後に、中卒後の年長児を対象に職業指導を目的とする養護施設を男女別に創設するのです。

 合わせて200名にも満たない戦争孤児でしたが、前沢住宅の久留米勤労輔導学園で暮らし、働き、村の子どもたちと学校に通い、机を並べて勉強したのです。そのことを久留米村の歴史にしっかりとどめておくことが大切だと思うのです。
(藤井常文)

 

【筆者略歴】
 藤井常文(ふじい・つねふみ)
 東京都に福祉職として入都後、35年間児童福祉施設、児童相談所などに勤務。その後9年間、明星大学に勤務。現在、児童相談所で新人児童福祉司の育成に当たっている。

 

【関連情報】
・戦災孤児、はかなき理想郷 詩人が私設の「久留米勤労補導学園」(中日新聞

 

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