序章 新川暗渠道春景色 その1

 


蝋山 哲夫西東京紫草友の会会長


 

 ~暗渠との出会い~

 西東京市中町から谷戸町まで、新川の暗渠の上をわたしはしょっちゅう歩く。下の図は市内にお住まいのブックデザイナー大貫伸樹さん作成の「新川空掘跡」である。「空掘跡」と記されているが、実際は新川を覆うコンクリート製の蓋には所々グレーチング(格子状の溝蓋)が挟まれており、その隙間から暗い水の存在が窺える。だが、水の流れる音は聞こえない。暗渠の上を通るたびに、時折、ガタンガッタンとびっくりするような騒音を出す箇所もある。

 

(©大貫伸樹)

 

 地図上の二重丸印の「写生スポット」は昨年1年間12回にわたって大貫さんが連載寄稿したエッセイのスタート地点で、如意輪寺の土塀を右側にほんの10m先に被写体となった一郭がある。現在もその場所には精気を欠いたツツジが植わっているが、4月末になっても花を咲かせていない。

 如意輪寺の塀際を過ぎてから50mほど先の地点で、突然、暗渠道は左右に別れてしまう。
「そろそろブロック塀にぶつかるはずだ。そこを右に曲がらなきゃ、谷戸公民館から随分離れてしまう」と、心の中でツイットしながら、暗渠のコンクリート製の蓋の上に2m弱まで垂れ下がった野放図なビワの木をかいくぐり、右に90度曲がり、10m先でまた90度左に曲がる、といったように直角や直線を含む人工的に整備された暗渠だとわかるのである。自然界の造形物には直線は存在しないからである。

 暗渠を横切る細い車道を渡ると周辺の景観が一変し、人の生活の匂いがしてくる。幅2mにも満たない暗渠の「両岸」すれすれに住宅が建ち並び、うす暗い隘路になっている。左側には住宅が、右側には墓地が現われ、墓地の後方には住宅が迫っている。住宅と暗渠の隙間は雑草で覆われている。概して「陰気な道」だ。散策の楽しさは乏しい。

 しかし、あることに気づいた。暗渠の北側にある住宅は開放的だが、南側の住宅はどちらかと言えば暗渠に背を向けて建っているように見える。暗渠の南側の住宅は陽当たりのいい南側に庭をつくるので、歩行者からよく見えるオープン型。一方、北側の住宅は防寒・防風のために壁面を見せているのでクローズ型。そのためだろうか、東西を貫く暗渠道は、歩行者にとっては「片側美観」を眺めることになる。つまり、谷戸に向かって北側(右側)が明るく、南側(左側)は暗い傾向にある。だから、暗渠の両側がバランスのとれた景観を見せるのはごく稀である。グニャグニャと蛇行する暗渠に沿って、やむをえず住宅をぎっしり建てたのだろう。やがて暗渠道は迷路となり、隘路となった。それ以来、水面の見えなくなった新川は流域住民の意識から遠ざかり、ただの邪魔者と化したのだろうか。

 どうして、川面に蓋をしたのか。もはや「沿岸流域」の住民はそんなことを意識もせずに、暗渠道をたくみに利用する生活を選んだのかも知れない。同時に、かつて清らかな流れがあったこともすっかり忘れ、夏ともなれば暗渠が蚊の発生源と見做され、忌み嫌われるのだろうか。

 江戸時代の新川は暗渠ではない。流域の人々は谷戸の湧水の恵みを有難く思っただろう。農地の作物を養い、人々の生活を潤しただろうと想像する。暗渠を歩くたびに、わたしは江戸時代の新川(と呼ばれていたか)の畦を歩む農民の心を思う。どのような営みをしていたのだろうか。江戸幕府直轄地の生活は豊かだったのだろうか、貧しかったのだろうか。小舟が通れる川幅だったのか。下流域には、谷戸の蔬菜類や農産加工品を集結し販売する市場があり、商品経済がなりたったのだろうか。水は流れ、人もモノも情報も運ばれたはずだ。水量が豊富ならば、もっと川幅があったはずだが、現在の暗渠は何も答えてくれない。ともあれ、現在の暗渠からは流れる水の音は聞き取れない。もはや江戸の水音を聞きたいという妄想すら蓋をされてしまった、というのが現実である。

 

 ~暗渠は隘路 都市化=宅地化の産物~

 新川暗渠は近隣住民にとっては便利な生活道だ。泉町から谷戸町にいたる「知る人ぞ知る」最短のバイパスでもある。暗渠を歩くこと20回を越えた頃から流域の風景が記憶に刻まれてきた。中町の碧山小学校横から保谷庁舎にいたる暗渠道はカックンカックンと左右に曲がり、方向転換を余儀なくされる。これに対して、如意輪寺あたりからクニャクニャと蛇行する。右上の地図のようになだらかなカーブではなく、せわしなく曲がっているため視界は絶え間なく変わる。このような蛇行は自然の水流を思わせ、その流れに沿って人々が住むようになったことを教えてくれる。

 しかし、気になることがある。この暗渠が隘路を形成するにつれて、「両岸」の住宅の建て方と見え方が異なってくる。やがて、その理由がわかった。地図をもう一度ご覧いただきたい。暗渠は如意輪寺から谷戸新道までほぼ東西に流れている。否、この暗渠の水源は谷戸小学校の敷地(あるは東大農場)にあるといわれるので、実際は「西から東に」流れている。暗渠の終末地がどこであるかは後日の研究課題としたい。

 少しだけ述べると、暗渠はおおむね東方向へ続くわけだが、保谷天神山のかえで通りでカックンと左へ曲がり、その後、舗道の下に隠れて北上し、練馬区の「大泉井頭公園(おおいずみいがしらこうえん)」の白子川と合流し、白子川は新河岸川に合流し、隅田川を経てようやく東京湾に流れ込むようである。このような新川暗渠の成り立ちは為政者のつくった古地図と古文書を渉猟したり、流域集落の郷土史を調べたり、古老から聞き取りをするしかないだろう。

 暗渠を歩くとき、片側の景観の特徴にヒントを得て、その一帯に勝手に名前をつける。たとえば「花ニラ通り」とか「カタバミ街道」とか花にちなんだネーミングが好きだ。できれば「紫草街道」なんていう名称が望むところだが、そうもいかない。野生・自生の紫草はもともと山間の傾斜地や丘陵地の水はけのいい場所に育ってきたので、川べりや湿地は適さない。江戸時代より前から湧水に恵まれた地帯は「谷戸」と呼ばれた。「谷戸」という地名は全国に散在するが、西東京の谷戸町も水源豊富な「水系地帯」だった。といっても、貴重な水源だったと思われる新川は武蔵野台地の農村地帯のまん中をぽつんと流れていた小川のごときものだったと想像する。両岸には人家などなく、まさしく鄙びた、のどかな光景が広がっていたのではないだろうか。

 国分寺市には「殿ヶ谷戸」という地名があり、栽培種の紫草を育てている野草公園がある。殿ヶ谷戸の水系がどうなっているかは勉強不足でわからない。水はけのいい土壌を好む紫草が川岸や湿地帯に自生していたとは思えないが、わたしはいま、この谷戸地区にいつの日か「紫草の自生」を夢見ている。いずれにしても、暗渠の形成は戦後日本の都市化の現象のひとつであり、その開発思想に、「人と自然の共生」とか「自然の生態系と人の環境共生」というコンセプトの不在を嘆いてもはじまらない。とはいえ、暗渠道を歩くたびに、隠れた自然の新たな発見や流域に住む人=西東京市民の自然回復志向の兆しを感じる。その代表例が何気ない草花への愛着であり、庭造りである。敢えていえば、それは水と太陽と緑と人の共生への願望であろう。「草木国土悉皆成仏」という教えに導かれて、きょうも暗渠道の草叢の生態環境を見つめている。

 

ここはどこ? 少女たちが花を摘んでいた(筆者撮影)

 上の写真は「カタバミ片側街道」で、陽当たりのいい右側の群生しているのは繁殖力抜群のカタバミである。正式名称は「イモカタバミ」という。野暮ったい名前だが、その見事な群生に出逢ったときは思わずハッとする。実は、この群落が『幻の紫草紀行』のイントロダクションであり、イモどころか素晴らしい「新川暗渠道春景色」の旅がはじまった。それは万緑の百花繚乱、身近な雑草の圧倒的なパワーとの出会いでもあった。

 

 ~なぜ、「幻の紫草」なのか~

 ここでなぜ、『幻の紫草紀行』という題名を思い立ったのかの単純な理由を記したい。
 2017年2月14日、20数名の仲間とともに「西東京紫草友の会」を立ち上げた。このことは「ひばりタイムス」にも取り上げていただいた。会の活動拠点を谷戸公民館に置くことになり、昨年10月以来、中町から谷戸にいたる近道の新川暗渠を歩くのがほぼ日課となった。5名で「水遣り・観察班」を組み、曜日ごとの当番を決め、紫草の発芽トレーのお世話をしている。その成長記録は次回以降に記したい。

 わたしはまだ「本物の紫草の花」を見たことがない。厳密にいえば、「本物」の意味は「自生している紫草」をさす。ところが、わたしたちが育てはじめた紫草は古来からの自生種・野生種ではなく、その栽培種の子孫の子孫である。栽培種だからといって「本物の由緒正しき紫草」ではないというわけではなく、遺伝子的にも100%純粋和種の紫草の子孫であることが証明されている。だから自生の紫草はあくまでも個人史的な意味での「幻」なのである。

 環境省が認定した絶滅危惧種IB(維管束植物)の紫草はあくまでも日本の山野に自生している野草である紫草そのもののはずである。事実、三重県伊賀、京都府福知山、岩手県岩泉、その他長野県などのごく限られた地域の山間部にしか紫草は自生していない。

 絶滅に瀕している原因の解明は一概にはいえないが、乱獲、山野林の放置、都市化、宅地化、さらに気候変動などさまざまな遠因が考えられる。明治時代以降の西欧の化学染料の圧倒的な浸透によって、日本古来の紫根染自体の需要が薄れていったことも直接的な原因である。結論をいえば、紫草は万葉の時代からすでに貴重な「経済植物」であり、「囲い込み作物」だった。紫色を染めだす紫根は朝廷への納税品だった伝統は、武家政権が成立してからも引き継がれ、江戸時代後期になって八代将軍吉宗の政策によって換金可能な奨励作物となった。

 古来「禁色きんじき」だった紫色も、歌舞伎によって流行した「江戸紫」が庶民に開放され、20世紀にはいってからは東京都の旗の色に用いられ、直近では2020年東京オリンピック・パラリンピックのポスターのロゴマークや文字に紫色がつかわれている。だからというわけではないが、小池百合子東京都知事のファッションにも21世紀の「江戸紫」がいっそう冴えている。

 ところで、下記の和歌をご存じの方もいらっしゃるでしょう。

 

 むらさきの ひともとゆえに武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見ゆ(『古今集』巻17の867)

 

 …「ひともとの」は「一本の」という意味ですよおー。
 この和歌が、わたしの紫草愛好のややオーバーな啓示となった。この和歌、鑑賞してもちょっと虚しい気分に陥りませんか。「むらさき」と「武蔵野」という言葉がでてくる。しかしであるッ! 平成現代のニッポン、とりわけ西東京市に住む者にとって、なんら実感がないではないか。そもそもが、旧保谷・田無地域に「武蔵野意識」なんてものがあるのだろうか。西東京市内の公立学校の校歌に「むらさき(紫草)」の歌詞があるにせよ、だぁーれも本物の紫草を地元で見たことがないではないか。こういうのを言葉だおれという。

 そこで、視点を180度変え、「ムラサキ」という語を含む名称の花たちを求めて、新川暗渠道の花盛りの草叢に分け入り、花を愛でる虫の眼で散策しようと思いついた次第である。連載第2回では「ムラサキなんとか」の花をはじめ、暗渠緑道の豊かに彩る花たちの色彩に着目したい。みなさん、私達は本物の紫草を栽培中ですが、開花はまだ先です。6月かなあ、7月かなあ。それではごきげんよう。

 

【筆者略歴】
蝋山 哲夫ろうやま・てつお

 1947(昭和22)年群馬県高崎市生まれ、池袋育ち。早稲田大学第一商学部卒業後、ディスプレイデザイン・商業空間設計施工会社を経て、株式会社電通入社。つくば科学万博、世界デザイン博、UNEP世界環境フォトコンテスト、愛知万博などの企業パビリオンをプロデュース。その他、企業・自治体のコーポレート・コミュニケーション、企業・団体の国内外イベントで企画・設計・映像・展示・運営業務に携わる。現在、西東京紫草友の会会長、地域文化プロデューサー、イベント業務管理士。西東京市中町在住。「古文書&紫草ライフ」が目下のテーマだが早期引退を模索中。

 

 

 

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