第5回 普通に、平穏に、暮らしたい 自主避難者の願い

 


 ましこ・りか(前・福島県三春町)


 

 西東京市に住み始めたのは2012年3月からです。
 最初に避難したのは、東京の西部の市でした。震災の2ヵ月後、2011年5月です。西東京市は2カ所目になります。一緒に避難してきたお母さんたちは、6カ所も7カ所も移っている場合もあるので、私なんか恵まれている方だと思います。

 避難してきたといっても、みなさんの事情はさまざまです。どんな理由、どんな法律に従って避難したか、どういうルートで避難したかによって、いつまでそこに居られるか、いつ移らなければならないかが違ってきます。

 私は最初、ネットで住居を探して、個人の方から部屋を借りました。長くは居られませんので小学生の娘がちょうど学年の変わり目、春休みのタイミングに、西東京市の雇用促進住宅に移ってきました。それから3年になります。歳月の流れは早いですね。こんなに長く住むとは思いませんでした。

 

 強制避難と自主避難

 福島県の中通り、三春町に住んでいました。私は自主的に避難したグループの1人です。安全だと言われているのに勝手に避難した、と言われたりすることもあります。避難者といっても、一律ではありません。放射能汚染がひどい地域から強制避難になった人と、誰かを守るために自主的に避難してきた人とは事情が違います。私たちはいくつかの選択肢から、つまり県外に出るか出ないかを自分の判断で決めて避難してきました。その意味では私たち自主避難者は、着の身着のままで強制避難になっていまも戻れない方々より恵まれているのかもしれません。

 強制避難の方々は帰りたいという思いが強いのではないでしょうか。私たちは帰りたくない、いまの住居を追い出されたくない、という思いが強い。そこが大きな違いです。だから「早く帰れるといいですね」と声をかけられると、なんとも応えようがない。ある意味、傷付いたりします。ですから私は、すべての被災者を代表出来るわけではありません。あくまで私個人の話になります。

 三春町の自宅の地震による被害は、2階は壮絶な状況でしたが、家が崩れたりブロック塀が倒れたりした周りの状況に比べると、それほどたいした被害はありません。問題は高濃度の放射線汚染物質の被害です。

 自宅は福島原発から約55キロの距離でした。娘がちょうどその年の4月に小学校に入学する予定でした。学校から来たお知らせでは、校庭の放射線量は、2.2マイクロシーベルト(μSv)でした。そのころ、年間20ミリシーベルト(mSv)以下なら安全だという「暫定基準値」* が出ました。年間20mSv、毎時3.8μSvです。小学校の校庭は基準値以下なので安全に問題ではありません、とありました。いろんな問題のデータに注意するようになったのはそれからです。

* 福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方(文部科学省、平成23年4月19日)
>> http://www.hisaichi-gakkoushien.nier.go.jp/?action=multidatabase_action_main_filedownload&download_flag=1&upload_id=75&metadata_id=303
* 「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方」等に関するQ&A(文部科学省原子力災害対策支援本部)
>> http://www.mext.go.jp/a_menu/saigaijohou/syousai/1307458.htm
http://www.skylarktimes.com/?page_id=1656
* 「暫定的考え方」などを批判し、内閣官房参与を辞任した小佐古敏荘・東京大学大学院教授(放射線安全・遮蔽・計測研究)の記者会見資料(「内閣官房参与の辞任にあたって」)全文(2011年04月29日、NHK科学文化部ブログ)
>> http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/80519.html

 日本では、公衆被ばくの限度が年間1mSvと法律で決められています。それなのに、3.11を境に限度が引き上げられ、幼い子どもも妊婦さえも、大人とおなじ基準で物事が推し量られていきました。20mSvを私たちの暮らしが安全かどうかの基準にしている。まだ小さい娘の健康が心配でした。

 

 汚染と除染の実際

 家族は兼業農家で、夫は普通のサラリーマンです。同居している夫の両親は畑を作ったり黒毛和牛を飼育したりしていました。私は生まれも育ちも東京です。夫とは仕事で知り合って、12年前に三春に嫁いできました。

 三春では、義母の農作業を見よう見まねで野菜を作り、農家を楽しんでいました。東京では普通にマンション暮らしだったのに、鍬を使ったり土をいじったり。やがて有機JASの認定を取って、有機栽培野菜をネット販売で各地に届けたりしていたのです。それが震災で、原発事故で一変しました。

 義理の両親も夫も現在、三春にいます。放射線量は国の基準(年間20mSv)より低いので避難しなくていい、安全だとされている地域です。

 避難のことになると…。話はなかなかかみ合いません。というより、相談のテーブルに話を乗せることが出来なかった。それが悲しい。

 自主避難することに、義理の両親はよい顔をしませんでした。夫は、当初は反対はしなかったけれど、賛成もしませんでした。でも、引っ越しは協力してくれました。

 福島から引っ越してきた若い母親は、父親と離ればなれになる理由を子どもにどう話すか、みな悩んでいます。正確に言えなかったという人が多い。うまく伝えられないまま、いまに至る人もいます。

 私の場合は、ネットでチェルノブイリ原発事故のあと、被災した子どもが甲状腺異常になったことなどを伝えて理解を求めました。でも、夫は厭がった。子どもに恐怖心を植え付けて避難を選ばせた、ということになるからでしょう。

 今年、福島県で甲状腺異常の子どもが107人いるとニュースで伝えられました。子どもはそういう現実を知り、「避難してきてよかった」と思っているようです。でも夫はその同じ記事を読んでも、まったく反対の意味に受け取るでしょう。相談したいことを、相談できない。それがいちばん苦しい。私たちを苦しめています。

 近所の方とも相談できませんでした。三春町は、高濃度汚染の葛尾村と富岡町から役場が移ってきました。避難地域ではなくて、受け入れ地域なのです。だから、三春から避難するなんて理解できないでしょうね。実際、住民はほとんど避難していません。残る人と移る人では、お互いに話はできなくなるでしょう。放射能の問題は、封印されています。

 三春でも2011年の秋ごろから、学校と子どもが立ち寄る公園などでいち早く除染が始まりました。そのあと、田畑の除染に移りました。一般の家庭はまだ順番が回っていないと聞きます。除染しても、周りの山林は汚染しているままなので、風が吹いたりしたら元の木阿弥だと夫は言っていました。

 

 証明書が必要

 最初に三春から避難しようとしたとき、罹災証明を用意できなくて、公営住宅などは入居できませんでした。それで個人の住宅を深夜までネットで探しました。そのあと証明書がとれたので、いまの住宅に移れました。

 震災直後は役場も混乱していました。4月までは証明書がなくても公営住宅などに入れた。5月に避難の届けを出しに行った時、役場から住民票を移して普通の引っ越しをしてくださいと言われました。私はいま、西東京に住民票があります。しかし翌6月になると、被災者登録をしていたら、住民票を移さなくていいことになりました。だから、いろんな法律によって個人の事情は違います。県や国の制度がまだ整備されていなかったので、制度もたびたび変わりました。制度の狭間で、問題を抱えた人が少なくないのです。

 雇用促進住宅は災害に関して受け入れの経験値があるようです。被災三県(福島、宮城、岩手)で罹災証明があれば、問題なく入居できました。

 罹災証明書は、西東京へ越すために申請してもらいました。被災証明だと、多くの支援が受けられるようです。

 震災の避難者* は東京都が約7500人、埼玉県5600人、神奈川4100人ぐらいです。これはあくまで、私は被災者です、と届け出た人の数です。実家に帰っていて、届け出ていない方もいます。

* 全国の避難者等の数(復興庁、平成27年2月27日)
>> http://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat2/sub-cat2-1/20150227_hinansha.pdf
*「都内避難者数」(東京都)によると、西東京市の避難者数は今年年2月12日現在、181人。
>> http://www.soumu.metro.tokyo.jp/17hisaichi/hp/ninzuu.pdf

 

 届け出ると、東京都から被災者向けの便りが月に2回送られてきます。復興庁からも来ます。甲状腺検査のお知らせも届きます。福島県からは、安全ですよ、という情報も送られてくる。被災届けを出していないと、こういう被災関連の情報は一切届きません。

 あと、登録していると、地元の社会福祉協議会から情報や支援が得られる場合があります。西東京市は社協が機能していて、精力的に具体的な情報を知らせてくれるのでとても助かります。

 

 悩みは深い

 子どもがいる家庭は学校の問題があるので市役所や区役所で被災者だと申告すれば登録できる。福島からだと言っても、窓口で被災登録をするかどうかを聞いてくれないと分からない人もいる。登録しても、縦割りなので、いろんなところに同じ書類を出さないといけない。大変な労力です。いちいち被災者だとそれぞれの窓口で言って歩かないといけないのはある意味、屈辱でもあります。

 多摩六都科学館が被災者に開放デーを設けてくれたので、地域の被災者が集まって参加できました。大きな組織なので実現するまでは大変な苦労があったはずです。とても感謝しています。西東京のある方が科学館の方を紹介してくれたのがきっかけでした。支援してくれたこともうれしかったのですが、縁があっていろんな方が震災や被災者のことを忘れないでいてくれる、つながってくれることに励まされます。私たちの存在を忘れないでいてくれることがうれしいのです。

 避難して2ヵ月ぐらい経ってから「つながろう!放射能から避難したママネット」を始めました。当事者だけ、お母さんたちの集まりです。今年2月には一緒にスキーに行きました。悩みも相談できました。具体的な問題が出てきたら、そろって役所や議員さんにお願いに行ったりしました。2012年6月に、原発事故による子ども・被災者支援法が出来た際には、復興庁に要望書を出したりもしました。

 でもお母さんたちは生活するのに忙しい。支援者の人もいれて活動する組織があったらいいなと考えて、NPO法人「ココロとからだを育てるハッピープロジェクト」をみなで立ち上げました。主たる事業は避難者の健康相談会です。小児科医や子育て支援者のご協力により、毎月開催しています。1時間に1組の予約制です。参加する避難ママたちは1時間の相談では足りません。お医者さんだけでなく、精神福祉士さんや保健師さんたちもいるので、1日ががりでお話をしています。

 3年も経つと、相談内容はだんだん深刻になります。避難したお母さんたちは子どもと差し向かいで、毎日の暮らしで精一杯です。夫は福島で独りの場合が多いでしょう。残っている夫のメンタル的な状況が問題になっているケースが目立つのです。離婚と避難とどちらを取るか、と詰め寄られる場合もあります。離婚してシングルマザーなったケースも出ています。浮気は珍しくないし、自殺の事例もあります。戻るも地獄、残るも地獄。何が正しい選択か分からない状況です。避難できてよかった、では済まない問題も生じているのです。家族離散がどれほど重大で深刻なのかがあらためて浮かんできます。

 でも考えてしまいます。こんな状況にして、生活をおびやかした根本には、「年間20mSvは安心だ」という、国が定めた「暫定基準値」があるんです。そこまで立ち返らないと、問題解決の糸口は見つからないような気がします。

 

 安心して住むために

 災害対策法では、被災者への住宅無償提供は3年間です。それ以後は、別の法律をつくることで対処してくださっています。だから毎年、住宅が確保できるかどうかが大問題になります。署名を集めたりして要望を出して、昨年も今年もやっとの思いで延長になりました。要望活動しなければ延長できないし、要望したから延長が必ずできるわけでもない。子どもを抱えるお母さんたちは、幼稚園3年、小学校6年などと先行きを考えながら生活設計を立てているのに、住宅は1年ごと。これでは暮らしがままなりません。大人は状況次第で帰ることもあり得るかもしれません。しかし、子どもはどうでしょう。避難先でやっと友達も出来て、自分なりの生活を築きかけたのに、それを失って戻ることになる。高い家賃を払って住み続けるのかどうか。生活は成り立つのかどうか。とても厳しい選択が迫られてきます。

 強制避難の方も問題がないわけではありません。例えば、除染が進んで、強制避難が解除されると、3ヵ月で賠償金の支払いが打ち切られます。住宅手当もなくなります。解除になったということは、国がその地域は安全だと認めることです。避難はもう必要ない、となるわけです。除染後の放射線量がその人にとって納得できないと言って戻らなければ、その人は自主避難になってしまいます。こちらで子どもの周りに出来たコミュニティーを考えると、迷うのは無理ないと思います。こういう事態が次々に起きています。やはり住宅がいちばんの問題です。ホントにどうしていいか…。

 私も悩みます。どうしたらいいのか。三春の私の居た地域は、いま安心して戻れるほど空間線量は低くありません。子どもが中学生になるまではここにいたいと思いますが、住宅手当が打ち切られたらと思うと気持ちが乱れます。でも、考えるんです。どこが安全かどうかという数値の問題ではなくて、そこに住んで安心できるかということが重要なのだと思います。話している内に、話題がだんだん政治的になるというか、そうなってきます。でも本当に、普通に、平穏に、暮らしたいですね。
(構成・北嶋孝)(文中の* 印は、編集部の注です) 

 

ましこりかさん【略歴】
ましこ・りか
 3.11当時福島県三春町に住む。娘が小学校入学直前に被災。2ヵ月後の2011年5月に東京へ。西東京市には2012年3月から居住。「つながろう!放射能から避難したママネット」代表、NPO法人ココロとからだを育てるハッピープロジェクト代表理事。主に自主避難者の相談活動、特に医師らと協力して健康相談会を行っている。

 

【関連リンク】
・東日本大震災:福島第1原発事故 みなし仮設、延長可能性「黒塗り」開示 福島県、避難者側に(毎日新聞 2015年3月15日)
>> http://mainichi.jp/m/?ymkJ80

・避難者漂流:原発事故4年 みなし仮設延長、黒塗り開示 いつまで住めるのか 毎年、更新の知らせ待つ(毎日新聞 2015年3月15日)
 
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第5回 普通に、平穏に、暮らしたい 自主避難者の願い」への1件のフィードバック

  1. 1

    嘘とごまかしの原発企業、政治家、官僚、一部の御用学者、一部のメディアの言葉を心底信じる人は誰もいないでしょう。自分や家族を守るのは「安全」と云う言葉ではなく正しいデータを自分で採集するか信用ある科学者の見解を大事にすることで判断することでしょう。私はこのお母さんを限り無く応援します。

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