第9回 たそがれの横断歩道橋


絵筆探索_タイトル
大貫伸樹
ブックデザイナー

 


 

水彩画・たそがれの横断歩道橋 ©大貫伸樹 (禁無断転載 クリックで拡大)

水彩画・たそがれの横断歩道橋 ©大貫伸樹 (禁無断転載 クリックで拡大)

 


 

 階段の昇り口に金網のフェンスが立てられ、「あぶないからはいっては行けません!」「お願い 御迷惑をおかけして居ります 横断歩道をご利用お願いいたします」と書かれた看板が立てられた横断歩道橋が富士町にある。階段の青い塗装ははがれ赤く錆ついている。

 横断歩道が登場するのは、昭和30年代に自動車の大衆化が起き自動車が急激にふえ、同時に交通事故も多発し「交通戦争」と呼ばれるような状況に陥った頃だ。わが家に初めて自動車が届いたのも東京オリンピックの頃だった。交通事故で命を落とした友人もいた。そこで、歩行者と自動車を分離し歩行者の安全を図り、交通渋滞も無くすものとして華々しく登場したのが横断歩道橋だ。

 東京都は、東京オリンピックを昭和39年に開催することが決まった昭和34年、子供たちを交通事故から守ろうと学童擁護員(緑のおばさん)を導入した。さらに、昭和38年、より安全を求め歩道橋を導入することになり、五反田駅前に都内初の歩道橋を設置した。

 現在設置されている横断歩道橋の大部分は昭和40年代に設置されたもので、当時は通学途中の児童などの安全確保のために重宝された。一方、車を優遇して歩行者に多くの負担を強いるという批判も多く、設置当初からあまり評判は良くなかった。他にいいアイディアもなく、今日まで武骨な姿をさらしてきたが、そんな体たらくに終止符を打つ時がやって来た。

 最近では、技術的にできなかった信号機による細かな制御が可能となり、人にも車にも優しくなってきたことなどから、老朽化を機会に横断歩道を撤去する自治体も増えているという。

 私が初めて横断歩道橋に出合ったのは、昭和45年頃、東横線渋谷駅脇の大きな歩道橋だと記憶している。それから約50年間、使いづらさを嘆きながらお世話になってきた。そんな横断歩道橋が、道路の安全横断を競うライバルである信号機の技術革新に屈し、とうとう50年あまり続いてきた役目を終え姿を消そうとしている。ホッとしている反面、出来の悪い憎まれっ子ゆえの愛着もある。

 渡る人もいなくなり、赤く錆びた体で下を流れる車の行列を眺めている姿は、産卵を終えて流れを下る鮭にも似て、侘びしさを感じないではいられない

 

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装幀書籍
【筆者略歴】
大貫伸樹(おおぬき・しんじゅ)
 1949年、茨城県生まれ。東京造形大学卒業。ブックデザイナー。主な装丁/『徳田秋声全集43巻』(菊池寛賞受賞)、三省堂三大辞典『俳句大辞典』『短歌大辞典』『現代詩大辞典』など。著書/『装丁探索』(ゲスナー賞受賞、造本装幀コンクール受賞)。日本出版学会会員、明治美術学会会員。1984年、子育て環境と新宿の事務所へのアクセスを考え旧保谷市に移住。

 

 

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