第1回 下野谷遺跡公園 – 西原自然公園


    萩原 恵子(屋敷林の会、下保谷の自然と文化を記録する会) 


 

武蔵野台地450

武蔵野台地の位置

「武蔵野」という言葉は、『万葉集』に初めて表されたというが、昔から文学・芸術と多くのイメージを生んできた。地理的には昔はススキやオギの原野、新田開発された地、富士おろしといわれる強い風の吹く土地、西武線開通で沿線はハイキングの場所に……。

 そのほとんどが該当する西東京市は、武蔵野の地形的な定義を荒川と多摩川に挟まれた武蔵野台地とする説をとるなら、その中央に位置することになる。

 そこに暮らした人々は、武蔵野の自然と折り合いながら生きてきた。そんな先人たちに思いをはせながら、今も刻々と移り行く武蔵野との出会いを求めて市内を散策したら、どんなものが見えるだろうか。思いを新たに、国史跡指定が決まったばかりの下野谷遺跡のある公園から、歩きはじめることにした。

 

下野谷遺跡公園

下野谷遺跡・西原自然公園マップ背景色無

散歩マップ

 遺跡公園は、東伏見駅から南に5分ばかりの、石神井川の南側の高台にある。ここには、戦中中島飛行機武蔵製作所の社宅があった。南の青梅街道を挟んで武蔵野市に工場があったので、工場を狙った空爆のそれ弾がよく落ちた場所でもある。

 そんな過酷な時代を経て、戦後は地道な発掘調査が行われ、2007年に遺跡を保存する公園(3172㎡)が造られた。

 公園の広場の下に5000~4000年前の縄文人たちの環状集落の跡が眠っている。4次元世界では同じ場に立っているのだと、想像すると楽しくなる。縄文人はどんな顔をしていたのだろう。どんな生活をしていたのだろう。

 広場の南側には、縄文人が当時食料としたコナラ・クリ・トチノキ・スダジイなどの樹木を植栽した縄文の森があり、茎を剥いで糸を作り、衣類を編んでいただろうカラムシなどの植物も植えられている。

 発掘された土器類は、郷土資料室(西原町4-5-6  tel.042-467-1183)に展示されている。そこまで距離があるが、公園の下の石神井川沿いを行き、東伏見稲荷神社の脇を通って東伏見公園を抜けて歩くのが緑の最適コースだ。

 整備された川沿いの歩道は見通しがよく、水鳥にも会える。私が歩いた日は、スズメの群れ、カワラヒワ、コサギ、チュウサギ、コガモ♂♀、ハクセキレイなど、歩いて15~20分くらいの区間に、次々と現れてくれた。

 

  • 下野谷遺跡公園
    下野谷遺跡公園は国の史跡に

 

西原自然公園

 郷土資料室見学のあとは、建物の裏手に位置する西原自然公園に行ってみよう。ここは雑木林の若返りを図って、ボランティアの人たちが20年を目安に木の萌芽更新を行っている林だ。

 高度成長期の1960年代に、住宅公団が西原に雑木林を切り開いて団地を造ろうとしたとき、保全活動をした市民の訴えを入れて残したという雑木林の一部だ。

 それまでの時代、炭薪が燃料とされてきたが、ガスや電気の普及により、大事に手入れされてきた林が放置されるようになった。

 公園の東側は萌芽更新されている区画。今はあまり見かけない細い木ばかりの雑木林。昨今新しく雑木林を作る土地は見かけない。相続税と刺し違えるように、先祖の残した屋敷林の大樹が切られるのは、土地を持っているお宅では時間の問題となっている。

 公園の西側はコナラやクヌギやアカマツなどの高木が、適度な距離を保って生えている。昔と違って今は、人が安全に森を利用できるような木の大きさと空間を得るためという防犯の目的で管理されている。情けないご時世になったものだが、林は明るく、林縁をホタルブクロ、ヨメナなど、野生の草花がよみがえって季節を彩る。

 西原の自然林は、雑木林の見本林。木も草も、林そのものが年をとったり若返る生き物だということを改めて考えさせてくれる。

 

 

【筆者略歴】
 萩原恵子(はぎわら・けいこ)
 宮城県石巻市出身。校正者。屋敷林の会代表。下保谷の自然と文化を記録する会会員。かつて保谷に渋沢敬三や高橋文太郎がつくった日本初の民族学博物館の歴史を掘り起こし、広報活動を継続中。ブログ「西東京市・高橋家の屋敷林」その他。著書『タヌキの伝言』(けやき出版)。

 

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西東京市・高橋家の屋敷林

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