第7回 地縁コミュニティ(自治会・町内会)は復活なるか


  富沢このみ(田無スマイル大学実行委員会代表)


 

 東日本大震災が起こってすぐは、何かあった時の備えが大切であるとか、地域の絆が大事であると言われ、おそらく多くの人がそのように思っていたと思われる。しかし、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」のたとえ通り、そろそろ、そういう気分は失せてしまったように見受けられる。

 今回は、私が住んでいる地域の下宿(しもじゅく)自治会を通して、地縁コミュニティについて考えてみたい。

 

私が子どもの頃の下宿自治会

1歳の頃の私。我が家の縁側で隣家のお姉さんがあやしてくれている

 第1回の自己紹介に記したように、私は、戦時中は中島飛行機の社宅で、戦後、それぞれ住人が購入した「下宿住宅」に住んでいる。

 当時は、2軒長屋で、向かい合った家4軒で1つの井戸を使っていた。食事の支度や洗濯をしながら、主婦はいわゆる井戸端会議をしていた。夏にはどこかの家が井戸に西瓜を冷やせば、大概おすそ分けがあった。どこの家にも庭に面して縁側があり、特に挨拶もなしに、用事があれば縁側に座って話をしていた。皆同じような生活レベルだったので、お風呂の貸し借りまであった。

 

 私は昭和22年の生まれでいわゆる団塊の世代だが、当時は同じくらいの子どもがたくさんいて、同じ小学校に通っていたので、親同士も知り合いだった。また、中島飛行機がその後、富士重工とプリンス自動車(日産自動車)になったため、父親は、どちらかの工場に勤めている人が多かった。

 こんな具合だから、住宅内の付き合いは濃密だった。貧乏だったので、母親たちは、雑誌の付録の袋詰めなど内職をすることが多かったが、それも住宅内の付き合いという感じでチームを組んでやっていた。親に叱られて泣いていれば、声も筒抜けなので、隣の人が「どうしたの」と助け舟を出してくれた。どこかの家がテレビを購入すると、「月光仮面」や「少年ジェット」の時間帯には、近所の子どもを呼んでくれ、皆でテレビを見た。路地では、年代の違う子ども達が石けりやゴム段遊びをしていた。

下宿自治会のシンボルの丸いポスト

 この頃は、住宅の自治会も、おそらく元気があったのだろうと思う。通夜の折には、隣近所が手伝ったし、決まった日に家の前のドブ掃除を皆でやっていた記憶がある。今でもこの自治会のシンボルになっている丸いポストの傍らにある家が昔は酒屋兼よろず屋で、その前の広場では、毎夏盆踊りも催されていた。婦人会や老人会もあって、バスを仕立てて旅行にも出かけていた。

 

時代の流れとともに弱体化してきた自治会

 しかしながら、日本中が豊かになるにつれ、我が下宿住宅の生活も次第に豊かになり、2軒長屋を切って一戸建てにし、縁側はなくなってサッシが入った。玄関にはチャイムがつけられ、「ピンポン」と鳴らさないと家には入れない。井戸も水道に変わり、井戸端会議もなくなった。子供たちは、高校、大学、就職と成長し、家は寝るだけの場所になり、結婚すると家から巣立っていった。こうして、近所付き合いは、次第に薄まり、住人も、その方が心地良いと感じるようになっていった。

 自治会役員の仕事については、多くの人が面倒くさいと思うようになり、志のある人がずっと続ける一方、役員になるのが嫌で自治会を辞める人も出てきた。

 1. 集会場の消滅

 自治会の結束力が弱まった一因は、それまで下宿自治会の集会場であった下宿会館を行政に寄付し、市立の地区会館になったことだ。下宿会館は、昭和37年に自治会所有の土地に会の資金で建設されたもので、通夜に使われることもあったし、婦人会、老人会、役員会などに使われてきた。しかし、老朽化が進み、建て替えなどの補助を行政に要請したが受け入れられず、協議の結果、昭和63年に土地ごと行政に寄付することとなった。上記のように、高度成長期には、自治会活動の重要性がほとんど認識されなくなっていたため、自治会独自で建て替えるだけの力が失われていたと思われる。しかし、それがさらに自治会を弱めることにもなった。

 移管5年後の平成4年に現在の下宿地区会館が完成した。現在は、西東京市全体のサークル活動等に使われており、自治会の役員会を開催するにあたっても、くじ引きで外れることもあるなど、自治会のちょっとした相談ごとや楽しみに使える場所がなくなってしまった。倉庫を置かせてもらっているものの、少ししか置けず、自治会独自の防災備蓄もできなくなった。

 2. 班の再編

 また、辞める人が増えたきっかけの一つは、班編成を変えたことも大きい。それまでは、井戸を挟んで向かい合っていた家々が一戸建てとなり、塀を巡らしたので、ポンチ絵にある両方の矢印(裏口)の出入りができなくなり、表口からのみ入る構造になった。このため、Aから回覧板をCに回すには、ぐるりと路地を回らなければならなくなった。このような住環境の変化を受け、これまでは、「ABCD・EFGH」など、井戸を共同で使っている家々を基準に班編成していたのを、「CDMN・GHQR」など向い側を1つの班にし、外側を「ABEFIJ」、「OPSTWX」と横一列の班にしたのだ。

 回覧板など回しやすくはなったものの、井戸を挟み家族ぐるみで行き来していた長い間の関係性に比べると新しい班編成では付き合いが薄くなってしまった。

 

井戸を挟んだ2軒長屋。表からも裏からも入れたが、今では一戸建てとなり、表からのみ入れる

 

 3. 世代交代と新住民の増加

 現在、世帯主の世代交代の時期になっている。私の親の世代が自治会を作り上げてきたのだが、親が亡くなり、子どもの世代が世帯主になっている。子ども世代が同居している場合には、それでも惰性で自治会に入会しているものの、子ども世代が遠方に住んでいる場合には、そこは、空き家になってしまう。

 駅から5分と利便性が高いこともあり、空き家は、すぐに売れることが多い。新しく来られた方でも、自治会に入会してくれることもあるが、自治会があることを知らない場合もある。なかでも、子ども世帯が土地を売却せずにアパートを建て、管理を不動産屋に委託している場合には、入居者は、地域とつながらないことが多い。
次のページ>>

(Visited 3,277 times, 1 visits today)