戦前、戦後、そして未来に向けて「結核病院街」とも「結核の聖地」とも称される歴史を刻んできた清瀬市。そこで治療や療養をしていた人々は実にさまざまだ。境遇も職業も生い立ちも異なる老若男女が、かつては「不治の病」と言われた結核と向き合って懸命に生きてきた。治療もむなしく逝った人たちも数多い。この回ではあまたいる患者の中から清瀬での療養で自らの内面を耕して優れた作品を残した文学者の足跡を振り返りたい。それは結核の治療、闘病の歴史を彩るサイドストーリーでもある。
戦後間もない1947(昭和22)年11月、清瀬村(現清瀬市)に、結核研究所臨床部が開設された。その後、結核研究所付属療養所、同附属病院を経て89(平成元)年、結核予防運動の世界共通のシンボルを名称に取り込んだ複十字病院と改称した。大規模な総合病院になっているが、今も60床の結核病床がある。