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東久留米市・川岸遺跡の発掘現場見学会 縄文時代の住居跡や墓地も

By in 市政・議会, 歴史・伝統 on 2020年1月26日

発掘現場見学会場

 東久留米市のスポーツセンター近くにある「川岸かわぎし遺跡」の発掘現場見学会が1月25日(土)、午前と午後の2回開催された。めったに見られない発掘現場の公開とあって、午前の部には100人を超す人々が集まり、意外な賑わいを見せていた。

 「川岸遺跡」は、東久留米スポーツセンターの川を挟んで向かいにあり、ヤオコー新座栗原店の真裏にあたる。東久留米市は縄文時代の遺跡が多いことで知られるが、川岸遺跡も縄文時代前期中葉から後半、中期前半・後半、さらに江戸時代を中心とする遺跡で、今回は5回目の発掘調査となる。

 

発掘現場の様子 住居跡が確認できる

墓地だったと考えられる土坑

 

 配布された「資料」には、「調査面積7750平方メートル」とあるが、ちょっとした学校が入りそうな規模だった。現在は発掘半ばで、ブルーシートに覆われたスペースもあった。

 「縄文時代前期中葉から後半」というのは約5200~5700年前で、「同中期前半・後半」というのは約4500年前・約4300年前。つまり縄文遺跡としてのこの川岸遺跡は、ほぼ1000年間存在したことになる。ここから検出された竪穴建物跡は17軒という説明を受けた(「資料」では「17軒以上」となっている)。

 1000年で17軒強の住居。住居は受け渡されたわけではなく、何度もスクラップ&ビルドされたらしい。1軒にどれくらいの人数が暮らしていたか質問してみたが、「わからない」ようだ。「村」というよりはもっと小規模の住居の集まりだったのだろう。ただ、墓地と目される「土坑」も確認されていることから、彼らが定住していたのは確かなようだ。定住にはついては、遺跡の説明者にも確認した。

遺跡地図(クリックで拡大)

 川岸遺跡には、江戸期の遺跡が「同居」している、という特徴がある。遺跡周辺はかつて「小野殿淵」「屋敷跡」「奥屋敷」と呼ばれていた(「資料」より)。「小野殿」は江戸期以前からこのあたりの領主だった小野家のことで、その屋敷がこのあたりにあり、川岸遺跡はその跡だったと考えられている。小野家の小野久内吉次おのくないよしつぐは、徳川幕府の鷹匠頭たかじょうがしら(将軍の鷹狩[将軍の軍事演習]に用いる鷹を飼育する役)として活躍したという記録が残っている(『東久留米の江戸時代』東久留米市教育委員会、2005年による)。

 要するに、徳川幕府が開かれる前からこの地を領する実力者が、知ってか知らずか、縄文遺跡の上に屋敷を建てたということだろう。遺跡からはかなり大きな地下室ちかむろ(多目的に使われていたらしい。「資料」より)も発見されているが、どれくらいの規模の屋敷だったかは、「発掘途中なのでまだわからない」そうだ。

 江戸時代、現在の東久留米市の領域はもっと小分けされていて、この周辺は「落合村」といった。「久留米」という地名の由来(諸説あり)となった黒目川と落合川、さらにはこの近くで立野川も合流(落合)していて、このあたりは「落合」の象徴的な場所だったと考えられる。地元の実力者がここに屋敷を建てたのも納得できる気がする。

 

『光の交響詩 写真でつづるふるさと東久留米』(東久留米市教育委員会、2000年)より

 

 改修前の落合川は蛇行していて、この周辺はまさに「淵」の様相を呈しており、水の際には小さな祠があった(写真上)。その祠はいまも遺跡の付属物のように存在している(写真下)。

 東久留米市に縄文遺跡は多いが、弥生時代の遺跡は「下里本邑遺跡」1箇所のみ(『東久留米のあけぼの』東久留米市教育委員会、1999年より)。川岸遺跡から発掘された炉の跡「埋甕炉まいようろ」は、建物を廃棄する際、意図的に破壊されたという。ここに暮らしていた縄文人たちは、なぜこの場所を放棄したのだろうか? そんなことも考えさせられた。

 今回の調査は来年3月まで続き、その2年後に遺跡発掘・調査のレポートがでるとのこと。
(杉山尚次)(写真は筆者提供)

 

【関連情報】
・東久留米市川岸遺跡発掘現場見学会「資料」(PDF: 491KB
・川岸遺跡(東久留米市

 

【筆者略歴】
 杉山尚次(すぎやま・なおじ)
 1958年生まれ。翌年から東久留米市在住。編集者。図書出版・言視舎代表。

 

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