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第11回 2017年度総括篇

 


蝋山 哲夫西東京紫草友の会会長


 

 ~初めての紫草栽培現場の訪問~

 今年も聖バレタインの日がやってきた。2月14日。この日は、わたしたちの会=西東京紫草友の会の満一歳の誕生日でもあった。当会設立の準備段階で、全国各地の栽培産地の下調べを行った結果、長野県、岩手県、大分県、滋賀県などの紫草の和種を交渉対象に絞った。手始めに、国営の武蔵丘陵森林公園の紫草栽培棟を視察し、紫草の性質や品種、栽培に関する注意点など、専門技官の説明を受けた。率直に申し上げれば、森林公園の種の譲渡はできないと宣告されたのである。

 アーチ状の天井の半分ほどが透明ビニールシートに覆われたハウス棟内の金網棚の上に、5号鉢ぐらいの深鉢のおよそ50鉢がずらり並んでいた。訪問した時は11月だった。紫草の茎は、2㎝余りを残してすでに刈られていた。「エッ、これが紫草?!」。紫草との出会いの感動は全くなかった。印象に残ったのは、「雑交配防止」ばかりを強調していた専門技官の事務的な口調だった。雑交配防止とはいえ、ハウス棟の腰から下は「ガラ空き状態」だった。紫草は虫媒花であるが、ハウス棟はほとんど開放状態なので、虫の出入りは勝手放題ということになる。ましてや雑交配の「相手」への言及もない。やがて専門技官の口から「長野系の種」という言葉が洩れた。どうやら武蔵丘陵森林公園の紫草は長野県産のものらしかった。

 こういった「産地」の話を避けているような気配とともに、なんとなく警戒感が漂っていたが、職務には忠実のようだった。専門技官は5年程度で転勤するらしい。森林公園の紫草は武蔵野の自生種の末裔どころか、遠く信州の栽培種の「おすそわけ」だったのである。その途端に、ハウス棟が税金による隔離栽培の小屋に見えたのだった。こうして、初めての紫草訪問は不発に終わったのだった。

 

 ~出会いと感謝から始まる紫草栽培~

 その後、紫草の種子の入手をめぐり、各地の特徴や栽培方法をインタネット情報に頼ったが、遠隔地のせいもあって実際の交渉はできなかった。一昨年の12月、みたか紫草復活プロジェクトから谷戸公民館に連絡が入った。公民館職員が以前から連絡を取っていたところ、「種の収穫に来ませんか」という有難い電話回答が届いた。三鷹市は西東京市の南に位置する隣の隣町である。バスに乗って三鷹駅に着いた。みたか紫草復活プロジェクトの栽培場は三鷹駅から徒歩20分ぐらいの場所にあった。なんだか一風変わった鉢植えが並んでいた。その時の光景を掲げてみよう。パッと見て一瞬理解できない、驚きの栽培スタイルだった。

 

円筒菅栽培

数本を束ねていた

深型プランター

感謝感謝の種子

 

 以上が、一昨年視察した紫草の「煙突寝床栽培」の姿だった。後日、東京都薬用植物園でも見かけたが、直径15㎝長さ80㎝の塩ビ配管に紫草を茂らせ、その煙突数本を大きなプランターに埋め込んでいたのである。煙突容器の採用は紫根を真っすぐ伸ばすためであり、煙突の下部はプランターの寝床へ続き、水はけをよくするためとの説明を受けた。製薬会社の紫草栽培試験所でも円筒栽培の写真を見たことがあるが、実際にその栽培現場を初めて見たときの戸惑いは隠せなかった。同時に、ワタクシの脳裏には、設備投資額の不安とともに、一体「どこから、どのように始めたらよいのか」と迷うばかりだった。そして、その場で紫草の種の収穫の手ほどきを教えていただき、収穫した種を譲渡していただいたのである。

 12月22日の冬枯れの季節にもかかわらず、紫草の茎も葉もまだ完全に枯れておらず、一部は青い葉をつけていた。種の収穫期ぎりぎりだった。このようなみたか紫草復活プロジェクトのご厚意によって、紫草栽培の現場初訪問、初収穫を体験できた。その後、種播きの手順や資材、用土配合などの知識を伝授いただき、昨年の2月28日に種播きが実現できた。わたしたちの会は、このように先達の方々の善意によって紫草の種子と出会えたことに対して、改めて深い謝意を申し上げる次第である。

 

 ~発芽の喜びから成長期、そして突然のショックへ~

 西東京紫草友の会は、栽培を始めるにあたって、「共同栽培と個人栽培の併用」路線を選択した。紫草栽培の難しさは耳にしていたので紫草の全滅リスクに鑑み、「併用栽培」を選んだ。歓迎したくはないが、結果的にこの併用路線はズバリ効を奏したのである。

 案の定、紫草栽培の発芽以降の基本的な知識を欠いていたため、水遣りの基本動作ですら誤ることになった。ショック到来である。水遣り過剰が原因で双葉が黄変したり、茶色く変色したりする事態が個人栽培を襲った。水遣り過剰は同時に紫草への愛情過多だったのである。まさしく突然のショック到来だった。双葉をうしなったぶんは、のちになって、六葉に育った鉢を会員に配ってカバーせざるを得なかった。「併用栽培」によって、われわれの紫草栽培は全滅をまぬがれたのである。

 2月28日の種播き式は「希望いっぱい、夢いっぱい」で臨んだ。しかし、それからが長かった。発芽までなんと40日を要したからである。昨年3月の栽培場の気温は低く、播種後1ヶ月たっても発芽は見られず、ジリジリと焦った。なにもかも、のっけから苦戦を強いられ、試行錯誤が始まった。谷戸公民館の館長もやきもきしながら、栽培場のセルトップトレーを覗き込むたびに、ワタクシは苦しい展望を語るしかなかったのである。「もうじきですよ、発芽は。紫草の野生力を信じて待つしかないですよ」とか根拠のない気休めを言うしかなかった。生育もままならず、未来の紫根染が宇宙の果ての出来事のように思えたのだった。

 

植栽の内側が共同栽培場

「仁丹」に似た種子

発芽を待つセルトップトレー

ばらつきの多い発芽状況

六葉の小さな苗

六葉後5号深鉢へ移植、日光に当てる

 

 

 ~夏場の高温高湿で斃れるも、なんとか生き延びる~

 共同栽培場に5号の深鉢に鉢上げしてから、幼い紫草の苗は少しずつ環境に馴れてきたように思えた。けれども、5月に入っても、苗の丈は一向に伸びなかった。「2017アースデイフェア in 西東京」の開催が近づいても、紫草の生育は芳しくなく、とても来場者にご披露できるレベルには達しなかった。白い花が開花中の鉢植えの提供を、みたか紫草復活プロジェクトに求めざるを得なかった。紫草の実物、しかも開花中の紫草を展示したくてもできるはずもなかった。アースデイの数日前、有難いことに、みたか紫草プロジェクトの事務局長が開花中の紫草の鉢植えを谷戸公民館に運んでくださった。われわれの手元には展示できるものが何もなかったので、またも先達のお世話になった。このような先達の栽培者のご好意をワタクシは決して忘れない。

 

西東京紫草友の会のブース

昨年5月、アースデイの「借り物出展」

 

 

 ゴールデンウイークが過ぎて夏が来た。6月中旬以降、梅雨になったらどうなるのか、紫草は「水に耐えず」ともいわれるので、屋根もシートもない屋外の鉢植えの雨対策もとくにせず、植栽の木立の間でやむなく雨を凌ぐことぐらいしかできなかった。施肥についてもハイポネックスをときたま遣る程度だった。いまから思えば、紫草には可哀想なコトばかりをしたと猛省するのみである。

 日除けも西日除けもなし。5号鉢の少ない用土に閉じ込めたまま、古文書で「肥料食い」と称されている紫草栽培種の性質を省みることなく、敢えて「何もしない」状態で、夏場の高温・高湿対策も施さず、徹底して放置した。無知ゆえの栽培の仕方だったのは明白であるが、これは冒険でもあった。しかし、低栄養の無施肥状態が祟り、脇枝が伸びる頃に、これまで元気に見えた紫草の茎と葉が萎んで、黒ずみはじめ、ついに枯れ死にするにいたった。50数鉢のうちの14鉢が斃れた。原因は萎凋病だった。あるいはバクテリア・ファージに感染して枯れ死んだものと思われた。

 共同栽培場の鉢植えだけでなく、個人栽培の中からも黒ずんで枯れ死にするケースが続発した。緊急に薬剤を撒布したがもう間に合わなかった。草地の上に直に鉢植えを置いたことも良くなかったのではないだろうか。せめて土の表面から浮かせて置けば紫草の死滅は避けられたかもしれない、と今になって思うのである。

 紫草栽培の用土には石灰質やカルシウムが沢山含まれている。これが原因で、ダンゴムシの異常発生もあった。古代生物に近いダンゴムシの「鎧」はカルシウムでできているため、鉢底から浸みでてくるカルシウムを摂取していたことが判った。ダンゴムシはコンクリートですら食べる生き物なのである。けれども、ダンゴムシが紫草の害虫とは思えないので、さほど気にしなかった、その他、ナメクジもしょっちゅう鉢底にへばりついているのを頻繁に除去した。アブラムシやキスジノミハムシという天敵害虫の猛威はおよそなかったようだ。

 

元気に開花した1年株

雨除け避難中の1年株

一斉に日光浴する1年株

5号深鉢への鉢上げ直後。草丈は凡そ60㎝に成長した

6月末の開花と脇枝シューティング

 

 ~種子が育む夢、それは紫草と共に生きること~

 9月頃から11月にかけて、共同栽培場の生き残った紫草の種を収穫した。個人栽培の会員も自宅で生き残った種を収穫し、月例の紫草デーに収穫した種子全部を持ち寄っていただき、みんなで手分けして種を数えた。その数、全部で1800余粒。「水没テスト」で沈んだ種ばかりであるけれど、サイズもカタチもバラバラである。これ全部を播いたとしてもせいぜい5%しか「モノ」にはならないかも知れない。紫草の結実数は、開花数に比例しない。結実のほとんどは脇枝シュートの閉鎖花がもたらしてくれる。だから、たった1粒の種の「繁殖力」はきわめて旺盛だといえる。とはいうものの、「とり播き」でも「芽切処理」でも「休眠打破」でも、播種・発芽後の成長残存率は厳しいものがあるだろう。その理由は、病害に極めて弱いからである。

 昨年の種播き式は一人25粒ずつ配布し、残りを共同栽培ぶんとして確保し、合計710粒の種を播いた。今年の11月の種の収穫数は、播いた種の2倍半しか獲れなかった。このことが何を意味するかはまだわからない。はっきり言えるのは、わたしたちには紫草の大量栽培をするチカラも知恵も土地もないことであり、栽培染色の知見などはまだ持てないだろう、ということだ。しかしである。紫草の種が宿しているものは、大切な宝物のような夢である。わが国のどこかにまだあるかもしれない自生種でも、わたしたちの身近で暮らす栽培種でも、共に生きる価値あるものだと信じたい。わが国の律令時代から数えてもおよそ1500年も生き延びてきた紫草は日本の歴史文化の宝なのである。同時に、こうした紫草を守り、育て、次世代へ繋げ、伝えていくことは素晴らしいと思うのである。紫草は未来からの贈り物であり、地球環境の保全と生物多様性の維持を課題とする現代人へのメッセージなのである。

 紫草栽培の一年が終わった。まことに慙愧の念に堪えない一年であった。それとともに、自然と都市の共生空間において、実に多くのことを学んだ一年でもあった。昨年の2017年はかつての武蔵国=武州のあちこちに散在する公営の植物園や野草園に足を運び、紫草の栽培・生育状況を視察した。暑い盛りの『幻の紫草紀行』だった。そこかしこで見た紫草のどれもが、栽培の名のもとに実質的に放置状態のままで、虫食いだらけの無残なものが大半を占めていた。どこでも亡びの予兆を感じたのである。……と、このように感じたからこそ、同じような放置状態の栽培しかできなかった西東京紫草友の会の活動を年間総括し、今後とも、紫草と共に夢を描いて生き延びようではないか。
(写真はすべて筆者提供 クリックで拡大)

 

紫草と紫酢漿草のツーショット

紫草よ、また1年、共に生きようね

 

 

【筆者略歴】
蝋山 哲夫ろうやま・てつお

 1947(昭和22)年群馬県高崎市生まれ、池袋育ち。早稲田大学第一商学部卒業後、ディスプレイデザイン・商業空間設計施工会社を経て、株式会社電通入社。つくば科学万博、世界デザイン博、UNEP世界環境フォトコンテスト、愛知万博などの企業パビリオンをプロデュース。その他、企業・自治体のコーポレート・コミュニケーション、企業・団体の国内外イベントで企画・設計・映像・展示・運営業務に携わる。現在、西東京紫草友の会会長、地域文化プロデューサー、イベント業務管理士。西東京市中町在住。「古文書&紫草ライフ」が目下のテーマだが早期引退を模索中。

 

 

 

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