吉川勇一さんを偲ぶ

 

 元・べ平連(「ベト ナムに平和を!市民連合」)事務局長の吉川勇一さんが5月28日、心不全で亡くなりました。旧保谷市時代から約50年あまり西東京市に住み、地域活動、市民運動に参画していました。吉川さんを偲び、共に活動した2人に思い出を寄せてもらいました。晩年に力を注いだ脱原発運動で、市内のデモに参加した吉川さんの姿をスライドショーにまとめました。(編集部)
【関連記事】>>「元・べ平連事務局長の吉川勇一さん死去」(2015年6月6日掲載)

 

吉川勇一さん

脱原発デモに参加した吉川勇一さん

1.吉川勇一さんの思い出(坪井照子)
2.吉川勇一さんのこと(森てるお)
3.デモと集会に参加する吉川勇一さん(写真と文:柳田由紀子)

 

 

 

 

 

  

 

 

1.吉川勇一さんの思い出
 坪井照子(旧保谷市議会議員)

 吉川勇一さんはこの5月28日、奥さんや小田実さんが先立たれた黄泉の国へ旅立ちました。特にこの時代「まだまだ必要とする人」でした。本当に残念です。

 吉川さんに会い、お付き合いが始まったのは1970年代後半、声をかけられて彼の家を訪ねたことからです。奥様とお二人の静かな暮らし。でも心に燃えるものを持つ平和主義者でした。保谷にこんなひとが在住していたのだと、それから何かと彼の意見を聞くことになりました。合併以前の保谷市時代、生活クラブを組織化していくころ。女たちがやっと町の政治に目を向け始め、ちょっと元気な女たちが見えてきた時代です。

 「保谷の衆のコーヒータイム」の活動では、日常の暮らしの中で世間話を含め、意見を出し合った記憶があります。その活動中、吉川さんは胃を切除し、他にも異変があり、入院加療などもあって「コーヒータイム」の活動は長く続けられませんでした。

 私も同時代を経験してきた1932年生まれ。小田さんや吉川さんと同年代です。支那事変から第二次世界大戦へとまっしぐら。市民生活をも犠牲にしてきた戦争の悲惨さを、肌で感じてきた世代です。

 ベトナム戦争では、米軍の後方兵站基地として日本が一役買っていたことを、今になって知りました。「ベトナムに平和を!市民連合」略して「べ平連」は、大国の支配下に抗して、ベトナムに平和を希求する運動でした。代表小田実・事務局長吉川勇一だったのです。精神を病んだ脱走アメリカ兵の救助支援、戦争は誰が起こすのか? 新聞への意見広告・市民の意見30などの発行が続きました。
 戦争は、そこに暮らすものにはまったく関係ないところから起こるのです。

 私たち市民が主役。権力者が決めるのではない。私たちの暮らし、世の中の動きをしっかりと見る力を付けること…。市民としての政治活動を具体化して30年余年。議会の透明化、街環境政策として「ごみ減量資源化」実現に奔走しました。私が市会議員になったころ、「憲法9条の大切さを政策に語らないでどうする?」と不戦「憲法第9条」の大切さを諭されました。今、まさに必要とする政策に入れないでどうするの? 憲法は権力者を見張るためのものと吉川さんの言葉で気付かされました。「市民自治は大切だよ!」

 ありがとう吉川さん。1985年の「日本海・アジア平和の船」で小田さん、吉川さんと同乗できた2週間の旅の記憶は私の宝物です。吉川さんの激さない、静かな語り口が今は懐かしい。ありがとう。安らかにお休みください。そして見守ってください。

  

 

 

2.吉川勇一さんのこと
 森てるお(西東京市議会議員)

 吉川勇一さんとお会いしたのは、合併で西東京市が出来るずっと前の、旧保谷市時代のこと。知人からまちづくりを考える集まりを持ちたいと誘われて参加した場でした。

 団塊の世代で学生運動にのめりこんでいた私は、当然のことながら「ベトナムに平和を!市民連合」(通称「ベ平連」)の事務局長の高名は聞き及んでいました。ただその時が私にとっては初対面で、その際に「地域での活動に関わりたい」とおっしゃっていたのが印象に残っています。保谷市に住みついてから多くの市民活動に関わってきた私にとってはたいへんありがたいことでした。

 この集まりが「保谷の衆のコーヒータイム」です。市内在住の市民に話題提供者として様々な問題提起をしていただき参加者同士で議論するという企画を、その後10年余にわたって行いました。

 吉川さんは事務局長を引き受けてくださいました。会が発行するニュース「保谷の衆」は会議記録を掲載したもので、テープ起こしはほとんど吉川さんが担ってくれました。このニュースが会の継続に大きく貢献したと思っています。

 ある時の市長選挙に当たって、今では当たり前のように開催されている「立候補予定者に意見を聴く会」のコーディネーターをされました。会場からの質問と4人の候補を噛み合わせるのはたいへんですが、さすがに手慣れたものだと感心しました。

 その後も市内の反戦平和に関する活動や、合併にあたって市民投票を求める運動、福島原発の事故以降は、「原発はいらない西東京集会・デモ」に最初からほぼ毎回参加されていました。

 私の選挙では、最初の時から推薦人に名前を連ねていただき、応援していただきました。2度目の選挙だったかに「憲法と平和を選挙公報に載せているのは君しかいないんだよ」と落胆とも怒りとも取れるような言い方をされていたことを記憶しています。

 昨今の戦争へと向かいかねない動きに、吉川さんはもちろん、全力で反対運動をされたことでしょう。吉川さんの思いを受けて力を傾けていきたいと思います。

 

  

 

 

3.デモと集会に参加する吉川勇一さん

 

吉川勇一さん

 吉川勇一さんは、「原発はいらない西東京集会&デモ」の第1回(2011年5月29日)から参加されています。この日は雨天、体調がすぐれず、しじゅうから公園の集会後、デモは公園から青梅街道まで少しだけ参加されました。

 第2回目(同年7月10日)の集会は田無町四丁目第3公園。歩くのもやっとという感じで、スピーチをお願いしましたが、話すことも無理と断られました。デモはパスで、第3回は集会だけでしたが、その後快復。第4回12月4日は、写真はありませんが、全行程ご参加で、後集会でスピーチされました。第5回も同様でした。

 第8回(2012年11月18日)も全行程ご参加で、後集会スピーチ。第9回は前集会でスピーチをしてくださり、全行程ご参加。第10回(2013年6月9日)まで全行程ご参加でしたが、その後、体調を崩されたので、この時までになりました。

 2014年の4月に退院され、5月にご自宅に伺って、6月の講演会のご案内をしたところ、「それは是非行きます!」と仰って、いらしてくださいました。歩行も覚束ないようで心配でした。これがお目にかかった最後となりました。
(写真と文・柳田由紀子=原発はいらない西東京集会実行委員会)

 

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吉川勇一さんを偲ぶ」への1件のフィードバック

  1. 次田哲治
    1

    私は京都ベ平連の元メンバーです。6日には妻(京田辺市議)と共に出席させていただきます。小田実さんの追悼文を市民の意見30の特集号に載せていただきました。鶴見俊輔さん共々、大変な時に大切な方を亡くしてしまいました。残念です。

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