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第4回 武蔵国むさしのくにを歩く 国分寺篇 その1

 


蝋山 哲夫西東京紫草友の会会長


 

 ~亡びの危機はいつだって隣あわせ、紫草のメメント・モリ~

 

紫草の白い花

 

 完璧な純白の花が清楚で美しい。しかし、どこか儚さを感じさせはしまいか。あまりにも整いすぎている。花びらのカタチは紛れもなく純粋和種の趣がある。葉の形状とその先端のとんがり方、深く刻まれた縦じまの意匠が素晴らしい。万葉の匂いが漂ってくるような錯覚に陥ってしまいそうだ。ほんとうは、紫草に匂いなんかないのだけれど、思わず匂いを嗅ぎたくなる蠱惑的な魅力がある。

 しかし、この写真の紫草はとうの昔に亡んでしまったことをその後知った。要は栽培に失敗したという。

 撮影は2008年5月24日。現在、当会の春日信さんが国分寺の殿ヶ谷戸とのがやと庭園で撮ったものである。人と共に生きてきた紫草が死んだ。実はこの写真、わたしたち西東京紫草友の会の誕生を報道してくれた「ひばりタイムス」からの孫引である。当会は今年2017年2月14日に22名で発足した。この時点で、殿ヶ谷戸庭園の紫草は清らかに守られて生きているものと信じ込んでいた。

 このように美しい紫草の純白の花を堪能し、2年後には自分たちの手で紫根染ができる! とわたしたちは希望に燃えていた。だから、近いうちに殿ヶ谷戸庭園の紫草の実物を見たいと願っていた。ところが、その紫草がすでに亡んでしまったことを、今年の5月、耳にした。亡びたのはもう何年も昔だそうだ。そこで、亡びが真実かどうかを確かめなければならないと思った次第である。うむ待てよ、まさかッ!? ひばりタイムスは「亡びの紫草」の写真で、当会の発足を呪縛したんじゃあるまいな。

 実はこれ以外にも、殿ヶ谷戸庭園に行こうと思ったもうひとつの理由があった。それはJR国分寺駅のコンコースの床面に描かれた「むらさきのタイル画」を見ること、および「武蔵国分寺跡」を訪問することだった。なぜ、紫草のタイル画が国分寺駅にあるのか。紫草のグラフィックデザインをコンコースに採用するに至ったいきさつが何なのかを知りたくなった。まさしく幻の紫草を求めて、いにしえの武蔵国の歴史と紫草文化への旅立ちとなったのである。

 ここで、教科書風に万葉時代を眺めてみよう。689年(持統3年)、判事としての朝廷支配機構にデビューした藤原不比等(中臣鎌足の息子とされるが、天智天皇の落胤との説もある)が強力に推し進めた律令国家は、天皇中心の朝廷文化を安定させる一方で、不比等のしたたかな外戚野望の下、天皇と藤原一族の二重権力体制を生むにいたった。こうした体制はかならず権力の軋轢をを生む。不比等一族の血の支配を嫌った皇親勢力は一時長屋王を戴いた政権を担った。聖武天皇時代の初期は長屋王の時代でもあった。しかし、長屋王の変以後、藤原氏は一族の娘光明子を聖武天皇の皇后にかつぎあげた。8世紀の天平時代には天然痘などの疫病がはやり、民は苦しんだ。不比等の息子4兄弟が疫病によって没したのち、聖武天皇は国家鎮護のためにみことのりを発した。これによって、全国に国分寺・国分尼寺の建立が進められ、奈良の東大寺の廬舎那仏るしゃなぶつの開眼供養も行った。これは往時の最大の国家イベントだった。

 万葉時代には、仏教の経典学習を通じて、全国規模での漢学・漢字習得大運動が行われ、わが国は漢学・漢詩文化一色に染まっていく。こうした漢風文化の浸透は、その後2世紀の間つづいた。一字一音の漢字の音を借りて、意味と情感をあてはめた万葉仮名の成立を経て、10世紀の平仮名の発明へ赴くことになる。

 現在の国分寺は、8世紀中頃に造営された「武蔵国分寺」の跡地にある。9世紀にはピークを迎えたものの、10世紀頃から11世紀に衰微していった。律令体制と国家仏教、そしてその後の女帝時代の日本は国家的な激動期のさなかにあった。このような歴史を持つ武蔵国分寺は仏教文化の浸透拡大期の一大文化発信地だったのであり、万葉時代の関東文化のまん中にあったといえる。このような歴史文化を忍び、国分寺境内の万葉植物園は昭和25年に開園した。したがって、国分寺駅再開発の際、コンコースに万葉時代の文化を象徴する紫草を開発デザインのシンボル・コンセプトとして採用する機運が、市民の声を反映しつつ、JR・西武関係者、商工会議所および国分寺市役所関係者の間で盛り上がっただろうことは容易に想像がつくのである。

 

 ~それは、紫草タイル画→殿ヶ谷戸庭園という思い込みからはじまった~

 7月3日、手帳の空白を狙って、JR国分寺駅に向かった。ワタクシの居住地の最寄りの西武新宿線東伏見駅を出発し、萩山駅で西武国分寺線に乗り換えて国分寺駅で下車。料金はわずか240円。乗り継ぎさえうまくいけば、ほんの40分で到着。おーお、東伏見も国分寺も武蔵野台地のエリアにあることを実感したのだった。なのに、国分寺駅を訪れたのはなんと49年ぶりだった。長兄の婚約者の家に男兄弟3人でお呼ばれされて以来のことだった。

 国分寺駅はすっかり様変わりして、首都圏郊外の巨大開発の象徴のような総合的な駅ビルになっていた。なんとデカイ建物だ。改札口を抜け、コンコースに降り立った。目に飛び込んできた。1.5m角の紫草のタイル画がひーふーみー… その先は遠くて見えない。多分全部で6枚かなあ。

 

コンコースは広くてデカい

多くの人たちが出入りする

花びらの丸み、葉先のとんがり、縦縞の葉脈など紫草の特徴をうまくとらえている

 

 コンコースをしばしブラリ。JRと西武線の改札口が並び、コンコースにはさまざまな店舗が入居しており、人の往来が頻繁だった。だが、コンコースのどこにも紫草の実物展示はない。JR駅の相談窓口らしき場所で尋ねた。

 「あのう、今ちょうど紫草の花が咲いている時期なんですが、本物の紫草の実物展示はないんですか」
 「ハイッ、ないんですよ」
とそっけない返事。すこし喰いさがって尋ねた。
 「そこのコンコースに“むらさき”と書いてあるタイル画がありますね。どのようないきさつで、紫草のデザイン画が採用されたのか、その経緯を窺いたいんですけれど」
 若いJR職員は首をかしげるばかりで、要を得ない。じゃあ、駅の助役に取り次いでもらおうかな、と思ったが、窓口が込んできたので断念。

 次に、西武線の窓口らしき一郭で、同じようなことを尋ねたが、ここでもやっぱり誰もワカンナーイ。周辺には観光案内所らしきものは見当たらず、来訪者に対して無愛想な駅ビルだった。国分寺の歴史文化の深さを思わす雰囲気は何~にもありゃしない。再開発の際のコンセプト・プラニングの経緯など若いJR社員も西武鉄道社員が知るよしもないだろうが、せめて、紫草と国分寺の歴史文化的な関係のイロハぐらいは社員教育のプログラムに組み込んでほしいもの。コンコースには周辺の歴史文化施設の案内チラシも置いていなんでR。「…寂しくないかい、うわべの紫恋は」などと呟きつつ、コンコースの階段を降りて、交番を訪ねた。交番の巡査は「公の精神」を全身に漲らせたような、道案内上手のニコニコ顔のいい人だった。通行人の問いかけをあたかも待っていたかのようだ。満面の笑顔で迎えてくれた。

 

 ~赴任まもない交番巡査と赴任4年目の殿ヶ谷戸職員~

 「すいませーん。殿ヶ谷戸庭園は右ですか、左ですか」と尋ねると、50代とおぼしき愛想のいいオジサン巡査は「いやあ、つい最近転勤してきたばかりなんで…」といいながら、親切に「あっちなんですよ。ここからは見えないけど、この道に沿って歩いてすぐですよ」といい、交番のBOXから出て、10m先まで一緒に歩き、進むべきポイントまで案内してくれたのだった。果して、殿ヶ谷戸庭園は国分寺駅から100mほど先にあった。「国指定名勝 殿ヶ谷戸庭園(随宜園ずいぎえん)という中国趣味の表示板が建っていた。そこは東京都内の数ある都立庭園なのだった。浜離宮恩賜庭園・小石川庭園・六義園・旧岩崎庭園・旧古河庭園・向島百花園・清澄庭園など同様の都立庭園であり、明治・大正の庭園として位置づけられていた。

 

 

 当会の紫草の共同栽培場は西東京市谷戸町の谷戸公民館にあるので、同じ「谷戸」の語を含むに地名に縁を感じていた。簡単にいえば「谷戸」の意味は「湧水の地」である。入園料は、一般150円、65歳以上70円。安すぎる。なんだか途轍もなく広い。

 入場券販売所の初老のオジサンに尋ねた。「以前、この庭園で紫草を育てていたが、その後絶えてしまったと聞きました。その紫草が植わっていた場所を見にきたんですが」と告げると、奥から女性の係員が出てきてくれた。ワタクシは西東京紫草友の会の名刺を渡した。目ぢからのあるキリリと締った顔立ちの、怜悧そうな説明員だった。こちらを真正面から見つめる姿は、故池波正太郎好みの色の浅黒い江戸女を思わせた。それはさておき、彼女は、早速かつて紫草のあった場所へと案内してくれた。

 

赤線で囲んで示したあたりに、かつて紫草があったらしい。アカマツの向こうは崖だった。左手には東屋があり、そこから富士山が見えたそうである。庭園の景観および眺望が売り物の施設

 

 そこはアカマツの木立の下だった。そこには白いユリの花が咲いていた。「紫草は何年ぐらい前まで育っていたんですか」と尋ねたところ、「わたしは3年前にこの庭園に赴任してきたんですが、紫草はその数年前にはなかったと聞いています」と応えてくれた。「大事に育てたと聞いていますが、結局定植できなかったらしい、とのことです」。

 殿ケ谷戸庭園の紫草はアカマツの下に地植えしていたことがわかった。その場所の先は10mほどの崖になっており、崖下の窪みには池があるらしい。ワタクシは短刀直入に尋ねてみた。
 「いま、わたしたちは、三鷹産の種子の譲渡を受け、紫草を会全体で100鉢ほど育てています。もしも、その紫草の贈呈を申し出たら、お受けいただけますか」
 返答は素早かった。
 「ここは都立の庭園なので、細かい規定が沢山あります。もともと、迎賓館のような別荘として、個人が作った大正時代の庭と建物です。土地の景観を活かした庭園なので、昔からあった樹木や野草を大事にしています。もともとそこにあった野草や植物ならいいんですけど、これまでなかった植物の栽培は規則でできないことになっています。それに都として、栽培OKのものと、栽培禁止のリストもありますので、紫草の鉢植えの譲渡は受け入れられないことになっています」

 厳しいもんだなあ。さすがは東京都の超マジメな管理体制だ。けれども、ここでワタクシは思ったのである。「一体何を管理していたのか。栽培に失敗した原因を知りたいんだ。何ッ~でかッー。紫草がうまく定着できなかった、というけれど、その育て方はどうだったのを詳しく知りたいんだ…」。でも思っただけで、キリリ女史に聞くのを憚った。3年前に殿ヶ谷戸庭園に着任したという彼女に、過去のいきさつを問い糺しても、困るのは彼女自身であろう。彼女を詰問するのが来訪目的はない。でもキリリ女史は続けた。「殿ヶ谷戸庭園の場所に紫草が自生していたことを伝えるコモンジョがないんです」。……うーむ、古文書がないときたか。

 「まあ、古文書は見つかっていないということですね」と、ワタクシはうなづく。じゃあ、なんで古文書にもない紫草なんかをそもそも植えたのか、それも野草と称して。彼女がいっている古文書とは一体いつの時代をさすのか。殿ヶ谷戸庭園のキャッチコピーは“武蔵野の山野草と湧水の庭”である。明治期のお金持ちが自分のためにつくった、一見、江戸期の大名庭園風の庭と擬和洋風建築物が目玉なのである。

 殿ヶ谷戸庭園の場所が、江戸時代や万葉の時代にはどのような土地だったかわからない。土地の傾斜や高低がきついので、農作地には適さなかっただろう、と何の根拠もなく連想する。結局、殿ヶ谷戸庭園は、JR国分寺駅コンコースの「むらさきタイル画」には関与していないことがわかった。これ以上、キリリ女史を問い詰めても、気の毒なだけだ。もう、こうなったら国分寺市役所に行き、ワタクシの幻の紫草紀行の謎解きをするしかない。だけどねえ、都の管理行政の人事異動は、入れ替え毎に過去の経緯記録の消失を伴うものなのか。組織の末端に行けば行くほど、文化行政の情報過疎になり、最後は誰にもわかんナーイ。うーむ、現在もおお揉めが続いている豊洲地区問題とどこか似ていないかい。

 

 ~「ハケ」の地で、「道路管理課」を訪れる~

 国分寺市役所は恋ヶ窪にあった。西武国分寺線で一つ目の駅が恋ヶ窪。いい地名だ。大岡昇平の『武蔵野夫人』をすぐ思い出した。「窪」があれば「高台」がある。水はけのいい崖や、湧水が流れる川があるはずだ、などと思ったが、そんなこたぁ、アトマワシ。急げ! 市役所、おお日が暮れる。

 市役所玄関の表示板を見る。「まちづくり相談課」で紫草タイル画のことを聞いてみた。二人ほど係員が応対してくれたが、首をひねるばかり。すると、その一人が「道路管理課」に取り次いだ。うぬッ、道路管理課? 若い職員の山田さんに、ワタクシは名刺を渡してから、来訪の経緯を改めて説明した。紫草シンボル・デザイン、国分寺駅総合再開発、デベロッパー、商工会議所…などの語彙からひらめいたのだろうか、彼はやおら立ち上がった。自席の電話で何やら3、4分も受話器を握っている姿が見える。電話の相手はJR国分寺駅の助役だった。国分寺駅のコンコースは確かに「道路」なのであろう。正しくは駅ビルの外部道路に直結する巨大室内通路であり、避難経路でもある。そんな道路管理課の山田さんから「即答」は得られなかった。「きょうは突然、妙なことでお尋ねし、すみませんでした」と挨拶をして別れた。

 恋ヶ窪駅の前の公園でその日4本目の冷茶ボトルを飲んでいると、携帯電話が鳴った。山田さんからだった。
「さっきまたJR国分寺駅の助役さんと話をしました。紫草タイル画導入のいきさつは助役さんも調べてお答えします、と言ってくださいました。しばらく経ってから直接助役さんに電話なさってください」
 おーお、名刺をちゃんと渡しておいてヨカッタ、よかった。時刻は午後4時半だった。もう遅い。武蔵国分寺の万葉植物園はあした出直すしかないな、と思うと、ジワリと疲労感が襲ってきた。次回は一路、武蔵国分寺へ〈了〉

 

 

【筆者略歴】
蝋山 哲夫ろうやま・てつお

 1947(昭和22)年群馬県高崎市生まれ、池袋育ち。早稲田大学第一商学部卒業後、ディスプレイデザイン・商業空間設計施工会社を経て、株式会社電通入社。つくば科学万博、世界デザイン博、UNEP世界環境フォトコンテスト、愛知万博などの企業パビリオンをプロデュース。その他、企業・自治体のコーポレート・コミュニケーション、企業・団体の国内外イベントで企画・設計・映像・展示・運営業務に携わる。現在、西東京紫草友の会会長、地域文化プロデューサー、イベント業務管理士。西東京市中町在住。「古文書&紫草ライフ」が目下のテーマだが早期引退を模索中。

 

 

 

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