第5回 武蔵国むさしのくに 国分寺篇 その2

 


蝋山 哲夫西東京紫草友の会会長


 

 ~武蔵国分寺・万葉植物園の紫草を見た~

 

8世紀中頃、聖武天皇時代に創建された武蔵国分寺。現在は、真言宗豊山派の寺院である。この外観からは想像できないが、「万葉植物園」は境内の中にあり、樹木と野草に覆われた起伏のある意外な「境内庭園」で、知る人ぞ知るの植物園だ。門前に立ちどまるだけで気分は8世紀に遡る。おお、この歴史感覚。

武蔵国分寺・万葉植物園の紫草の鉢植え(寺務所の玄関左側)。開花は5月のGW直後だったという。7月の訪問時、花は散っていた。すぐそばに紫草ゆかりの万葉集の歌が紹介されている。

 JR国分寺駅前でタクシーに乗り込んだ。右左に数回曲がると、そこは静かな一帯だった。「武蔵国国分寺」の門柱が見え、その奥に立派な本堂があった。左後方に小山を控えた本堂は威風堂々の構えだった。威儀を正して境内に踏み入った。「万葉植物園」と銘打っているが、それは境内の一帯を植物園にみたてた自然の地形を巧みに利用した庭園だった。270度の視野いっぱいに、上記写真のような植物名が所狭しと林立し、喬木・低木の樹間に物凄い数の野草が植えられていた。夥しい樹木・野草名表示板に驚き、「うわぁ、なんだこりゃ!」と一瞬絶句。初めてこの「植物園」を訪れる人は、まずこの表示板の異様な自己主張に戸惑うであろう。ワタクシなぞは、林立する表示板が、不謹慎ながら一瞬不気味な卒塔婆のごとくにみえた。白昼の静まりかえった境内を見渡し、ようやく「万葉植物園」のカタチがみえるにつれて、なにゆえに「境内内植物庭園」をつくったのかの意図を理解したのである。

 

~万葉植物園の迷路を彷徨いながら~

 観覧順路を探すのに、これまた難儀した。矢印表示もないので、どこに進めばいいか分からない。一旦、門外に出た。でも観覧順路図はなかった。仕方ないので、時計回りに歩んだが、枝の垂れ下がる狭い樹間をくぐりぬけ、樹下の野草をちらほら見学。うーむ、蚊の群れが襲ってくる。木立が鬱蒼と茂った昼なお暗き山みちをウネウネと登り降りした。樹間には、かるく100本は越えるだろう樹木・野草表示板がすっくと立っているけれど、名称などとても覚えられもんじゃない。そもそも樹木の名前などわからぬのですよ。

 やがて、表示板が風景に溶け込み、ワタクシの感覚は麻痺したようだ。山みちを下り、今度は本堂右側の野草園を見学したが、ついに紫草には出会えなかった。結果的にワタクシの思い込みがいけなかった。紫草は「陽当たりがよく、水はけのいい傾斜地に生える」ものと思い込んでいたので、標高の高い場所、つまり山の方に進んでしまったようだ。

 「おかしいなあ、へんだなあ」と思いながら、あらためて門外の表示板に見入った。『市指定天然記念物 万葉植物園』の標題にはじまる説明をちと長いが引用させてね。

 

『史跡武蔵国分寺跡(国指定)を訪れる人々に、この寺が栄えていたころに編さんされた「万葉集」より、当時の歌人達が好んで歌の題材とした植物を集め、国分寺創建のころの生活や、文化、思想を知る一助にと、元国分寺住職、星野亮勝氏が昭和二十五年に計画し昭和三十八年まで、十三年かかって採集したものです。現在約百六十種の植物が集められていますが、これらは当地で栽植可能な限りの万葉植物を集めてあります。又、万葉植物には異説が多いので、異説のある植物はつとめて同じ場所に植えてあります。広さは約八千平方メートルで万葉植物は一括して市の天然記念物に指定しています。平成四年十一月 国分寺市教育委員会』。

 

 

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 これを2回読んでから、武蔵国分寺の境内に戻り、紫草の「在り処」を尋ねるために事務所をさがした。ほほう、案内図には「寺務所」書いてある。正しくオシャレなネーミングだ。寺務所の玄関のインターホンを押した。すると「ハーイッ!」と女性の声。
 「ごめんください、紫草を尋ねてきたんですが、どこにあるのか教えていただけますか?」
 また「ハーイッ!」に続いて「オトーサン!」という叫び声が響いた。

 温厚な表情のご住職が現われた。ワタクシは自分の名刺を差し出し、「紫草を見に来たのですが、どこにあるんですか」と短刀直入に尋ねた。「そこですよ」とご住職が指さした。
 「あったッー」。「灯台元暗し」という言葉がありますね。ワタクシが立っていた場所は、な、なんと、「むらさき」の表示板のすぐ右脇の石段でした。おーお、おのれの間抜けさに呆れるばかりです。

 冒頭の写真のように、そこには紫草の鉢植えが2つあった。「エッ、鉢植え、地植えじゃないんだ」と目と心で確認。
 「あのう、これだけなんですか?」
 「はい、もうひとつあるんですけどね」
と草叢に痩せた紫草の鉢植えがあったのである。そこで、ワタクシは問うた。
 「率直に申しますが、2鉢だけでは寂しくて不安ですねえ。この鉢植えの紫草の産地はどこなんですか?」と定型質問をすると、「わからないんですよ。以前のものがダメになったので、檀家さんが持ってきてくれたんですよ」。

 ご住職に殿ヶ谷庭園の「亡んだ紫草」のことを話すと、
 「以前から、西洋ムラサキのこともあるので、紫草の雑交配を防がなきゃならないと思って大事に育ててきたんですが、やっぱりダメになりました。先代から受け継いだ万葉植物園なので、今は2鉢だけになった紫草のことが心配です」
 「そうですかあ、紫草が地植えされているものと思って見に来たんですが、万が一、この2鉢がダメになるようでしたら、ワタクシたちが育てている紫草を寄贈させてください」と申し出たところ、「お名刺をいただいので、わたしも名刺を差し上げますのでちょっとお待ちください」とご住職はわざわざ寺務所にもどってから、柔和なお顔をいっそうニコニコさせながらお名刺をくださったのである。

 「真言宗豊山派 武蔵国分寺 住職 星野亮雅」さん、そのお方は万葉植物園開設に精魂を傾けたご住職・星野亮勝ご住職の紛れもないご子息であった。

 JR国分寺駅コンコース床の紫草のタイル画のいきさつも伺ってみたが、よくわからなった。ワタクシは星野ご住職に再訪を告げるご挨拶をし、武蔵国分寺をあとにした。

 

 

 なお、「武蔵国分寺跡資料館・史跡の駅」を訪れようとしてみたが、修理中で入れなかったのが残念。きれいな小川を辿っていくと、やがて東京都の名水百選の「真姿の池湧水群」(ますがたのいけゆうすいぐん)に出逢った。武蔵野の「ハケの崖」同様に、地形の起伏に沿って清らかな水が流れていたっけ。小川の畔に「名水百選 ほたるのすむ川」+「タニシをとらないで」という、東京・武蔵野台地の隠れたふるさと自慢とタニシ乱獲の警告文の組み合わせを見て、人の暮らしと自然の関係のあり方を考えさせられたのだった。

 

~紫草ゆかりの万葉集の歌を解釈する~

 思えば、万葉植物園の創建に先代の星野亮勝ご住職は心血を注いだに違いない。約160種の植物を集める資金力もさることながら、土質調査・樹木や野草の植物全般の専門家や万葉集に関する文学専門家の協力なしにはなしえなかったに相違ない。万葉歌人が植物に託した心の世界に誘うために、積み重ねた研究心は誠に尊いと思うのである。4500首を越える万葉歌に精通した文学的感性と、樹木や野草の美と価値に精通した自然科学的感性との壮大なコラボレーションのカタチがそこにはある。

 幻の紫草紀行は一方で「幻の万葉紀行」でもある。ワタクシが見過ごしかねなかった万葉歌を掲げ、ちょっとお勉強しましょうかね。万葉植物園の紫草ゆかりの万葉歌は、なぜ笠郎女の歌を採用したのだろうか。

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 以下、「むらさき」の表示板の歌を示し、万葉仮名による表記を添えてみますね。

 

笠女郎かさのいらつめの大伴宿禰家持に贈れる歌

託馬野つくまぬに ふる紫草むらさき きぬめ いまだ着ずして いろいでにけり 〈万葉集巻3の395〉
*託馬野尓 生流紫 衣尓染 未服而 色尓出来 〈万葉仮名表記〉

 

 この歌は、奈良時代後期の歌人・笠女郎(生没年未詳)が天平4、5年頃から大伴家持に贈った熱愛の歌である。大伴家持の家系は古くは武門であるが、万葉集の編纂にかかわったとされる中納言の貴族歌人で、色好みでよく知られた。笠女郎は激情の持ち主で、大伴家持に24首の歌を贈ったものの、家持の心をしかと掴めずに一方的な片思いの歌が多い。一向に通って来てくれない家持への恋情を「幻の紫草」に託して詠んだ初期の歌であり、いわゆる「譬喩歌」(たとえうた)である。

 歌の冒頭は「託馬野」という地名ではじまるが、この土地が現在の滋賀県坂田郡米原町筑摩とする説もあれば、別の土地だとする異説もあり、なかなか特定されてない。けれども、ここではあまり問題ではない。もっとも滋賀県の東近江市では現在も紫栽培が盛んであるが、その昔、笠郎女が近江の地に出向いたことはないであろう。歌人・笠郎女が風聞として耳にした「託馬野=紫草(栽培)」に託して歌ったものだろう。この一見純情にみえる歌を、ワタクシは以下のように勝手に解釈する。

 「いまだ着ずして」とは「まだ結ばれていないのに(=まだ紫草で染めた衣裳に袖も通さずして)、あなたを恋する気持ちが色にでて(=まわりに知られて・バレて)しまいましたよ(=どうしてくれるんですか)」と、あたかも自己顕示欲を見せびらかすように、三十六歌仙の色男・大伴家持を挑発する歌だと思えてならない。まこと笠郎女は、堂々たる激情型の「片思いの歌人」なのであるのでR。この歌は、純な恥じらいの歌でもなければ、ラブレターでもない。

 しかしですね、別段「紫草→武蔵国」というイメージではなく、「託馬野に生ふる紫草」と明確に歌っているんですね。額田王の歌に出てくる「標野(しめの)」のような天皇家御料地の薬草栽培園が、「託馬野」なる近畿圏の土地にもあったと推論できるが、史実は謎だ、としておきましょう。

 結局のところ、恋する思いをいくら寄せても、煮え切らない態度をとる色男の家持に愛想を尽かして、笠郎女は、物凄い自嘲的で、相手へのあてこすりにほとんど等しい歌まで残している。その歌を掲げる。

 

相思あいおもはぬ 人を思ふは 大寺おおてら餓鬼がき後方しりへに ぬかづくごとし 〈万葉集巻4の608〉

 

 あーあ、このような女ごころにひそむ空恐ろしい貪欲さこそが餓鬼道へと赴くのではないのか。こんな歌を残した笠郎女はその後、どのような運命をたどったかはわからない。いずれにせよ、こんな歌では武蔵国分寺のイメージダウンをもたらしてしまうに相違ない。

 では、武蔵国分寺の万葉植物園の昭和25年の創建時に、どうして「託馬野に 生ふる紫草 衣に染め いまだ着ずして 色に出にけり」という歌を「紫草ゆかりの万葉歌」に仕立てたのだろうか。その選定理由は万葉歌人の「時代性」にあるとワタクシは推測する。紫草ゆかりの万葉歌はかるく20首を越える「定番」があるが、最もよく知られ、現在の紫草産地でも引用される歌は、額田王と天武天皇の歌であろう。しかし、武蔵国分寺の建立は、天武天皇の後代の聖武天皇の時代である。聖武天皇の御代(=天平期)に、わが国は仏教国家となったが、万葉歌人・笠郎女の生きた天平期と時代がぴたりと重なることが、万葉植物園の開園目的にかなっていたのだろう。

 ともあれ、武蔵国分寺・万葉植物園の紫草の「寂しい鉢植え」を見たあと、ワタクシはまたしても「亡びゆく紫草」という思いを禁じえなかったのである。否ッ! 西東京紫草友の会は立ちあがる。
(写真はすべて筆者撮影)

 

 

【筆者略歴】
蝋山 哲夫ろうやま・てつお

 1947(昭和22)年群馬県高崎市生まれ、池袋育ち。早稲田大学第一商学部卒業後、ディスプレイデザイン・商業空間設計施工会社を経て、株式会社電通入社。つくば科学万博、世界デザイン博、UNEP世界環境フォトコンテスト、愛知万博などの企業パビリオンをプロデュース。その他、企業・自治体のコーポレート・コミュニケーション、企業・団体の国内外イベントで企画・設計・映像・展示・運営業務に携わる。現在、西東京紫草友の会会長、地域文化プロデューサー、イベント業務管理士。西東京市中町在住。「古文書&紫草ライフ」が目下のテーマだが早期引退を模索中。

 

 

 

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