第6回 武蔵国 を歩く 小平篇
蝋山 哲夫(西東京紫草友の会会長)
~小平市・東京都薬用植物園の紫草を見た~
2017年(平成29年)7月15日。この日、西武新宿線東伏見駅前のケヤキの木の下でニイニイゼミの初鳴きを聞いた。実は、7月末に谷戸公民館主催の「セミの羽化観察会」のナビゲータを担うことになっていたので、今かいまかと待ち望んでいたセミの初鳴きだった。よーし、本格的な夏の到来だ。ニイニイゼミが鳴いたからには、これからアブラゼミ・ミンミンゼミ・ツクツクホウシなどが陸続と姿を現すに違いない。そんな思いで、向かった先が東京都薬用植物園だった。太陽ジリジリの暑い日だった。
新興地の趣たっぷりな西武拝島線東大和市駅で下車した。植物園の最寄り駅は東大和市駅で、所在地は小平市だった。どうなっているんだ、頭の中に「地図」が現われない。あとで調べると、東大和市駅の前身は青梅橋駅として昭和25年に開設され、その後、昭和54年に東大和市駅と改称したという。改札口を出ると、薬用植物園の案内図が目に飛び込んできた。薬用植物園は東大和市駅から徒歩1分の場所にあった。
正門広場の広さに戸惑った。人影がまったくない。「どこが薬用植物園の本当の入口なんだ」と訝りながら前進した。広場の左手にトイレが、右手に事務所らしき建物が見えた。あったッ、入口らしき場所が。薬用植物園の配置図もなく、チラシも置いていない。駅前で見たはずの案内図なんて、とっくに忘れている。紫草が温室の中にあるはずがないので、温室は帰りに見学することにして、とりあえず温室の左側の道を進んでいった。湧水を活用したのだろうか、こじんまりした人工池があった。きれいな水の漣が7月の陽光を浴びてきらきら輝いていた。池の端の木の向こう側はこんもりとした「森林」だ。
すると、ニイニイゼミの鳴き声が聞こえてくるではないか。昼頃、東伏見駅前で聞いたゼミの初鳴きに続いて、今夏の2度目の鳴き声を聞き、ちょっとだけ嬉しくなった。しかしまあ、なんと暑いのか、カンカン照りだ。このようなジリジリする猛暑・炎暑のことを、時代小説の世界では「油照り」というけれど、元気な鳴き声の主はアブラゼミではなく、ニイニイゼミだった。
~たまには、寄り道・セミ道・オノマトペ~
ここで、昆虫少年だったワタクシに戻ります。なぜ「ニイニイゼミ」と呼ぶのか。物の本にはたいてい「チーチーと鳴く」とあるけれど、ワタクシにはもっと金属音的な「ニィー、ニィー」「キー、キー、キーン」と聞こえるんです。みなさんはどのように聞こえますか。アブラゼミだって「ジー、ジー」(爺々)なんて聞こえませんね。音の表記は難しいもんです。たとえば、ミンミンゼミやツクツクホウシの鳴き声の物真似は、小鼻を指でつまんだまま「ミーン」「オーシンツクツク」と発声すれば、「ンミーン」「ンオーシンツクツク」とそっくりな鳴き声に聞こえるんですよ。でもニイニイゼミやアブラゼミの鳴き声の物真似はきわめて難しい。
問題は、擬音語・擬声語の日本語表記の妥当性・表現力の不足でしょうか。ワタクシは深夜の思索室であるファミマのオープンカフェに座って、目の前の道路(かえで通り)を行き交うクルマの走行音に耳を傾け、擬音語表記を研究してるんですが、絶対に「ゴー」とか「ブオーン」のごとく聞こえませんね。やはり擬音の先頭に「ン」を付けて「ンゴッー」「ンブオッーン」と表記するといいと思いますよ。雨天の場合の走行音は先頭に「プシュッー」と付け加えると「真実」に迫るんでーす。ところで、セミは「カメムシ目」セミ科の昆虫で、木の根や幹の汁を吸って、2週間前後生きるんです。ちなみに、ニイニイゼミの学名はPlatypleura kaempferi という。漢字表記では「虫偏に惠+虫偏に古」と綴り、「けいこ」と書くそうである。
ワタクシが小学生の昆虫少年だった頃、セミが鳴く順番が決まっていた。6~7月初めに、まずハルゼミという姿カタチの美しい小型のセミが鳴き、次に7月末から8月にニイニイゼミ、アブラゼミ、少し遅れてミンミンゼミ、8月末頃になるとツクツクホウシ、そして最後にひときわ美しくどこか哀愁が漂うヒグラシ(通称・カナカナ)が鳴いていたっけ。ヒグラシの鳴き声は「夏休み終了」を告げた。だが、気候変動のせいかどうか、最近の順番は、まずハルゼミが「消え」、ニイニイゼミ、アブラゼミとミンミンゼミが同時に鳴いて、8月初めにはなんとヒグラシが鳴きはじめ、ツクツホウシとアブラゼミが鳴き、一夏のラスト役を演じるのでR。
寄り道の最後に笑いばなしを一つ。木を切ったらセミは絶滅しますが、なかなか絶滅しないニンゲン属の学生が謎かけをした。
「せんせ、ソノヒグラシというセミは何と鳴くか知ってますか」。答えは「カネ、カネ、カネって鳴くんですよ」と出題者の学生が先に答えたという。
この話は、日本昆虫協会会長・日本アンリ・ファーブル会館長にして虫の詩人の館館長・フランス文学者の、わが敬愛する奥本大三郎氏が埼玉大学教授の頃、学生が言ったジョークでした。(出典:奥本大三郎著『虫の春秋』集英社文庫刊所収の「蟬の声」65頁)
~薬用畑・染料畑をウネウネとウロつく~
東京都薬用植物園は思いのほか広かった。温室の前の道をズンズン進むと、関東ローム層の赤土の畑が出現した。畑は、薬草畑ゾーンと染料畑ゾーンに区分されていた。かつて下保谷で見た、お馴染みの藍が元気よく真夏の光を浴びて、青々と育っていた。これらのゾーンには「休耕畑」もある。あんまり広大なので、季節ごとの植え替えや育成管理が大変だろうとつくづく思う。7月の強烈な太陽光のもとで、花を咲かせている植物はおおむね少なく、否! ほとんどなく、植物園の畑は美しいとは思わなかった。午後1番で見学したせいか、畑ゾーンに管理する人の姿は見えず、野草の開花写真を撮る愛好者が3~5人いた。このような写真家が手前の草叢の陰から突然ヌックと立ち上がり、姿を現すのでビックリする。
薬草・染料の畑ゾーンを抜けると、お休み処風の一郭に出た。そこは「花屋」の建物だった。その前庭に、は、日除けパラソルが立てられ、テーブルと椅子がセッティングされていた。花屋では、中年婦人がガーデニング・スタイルの服装で、黙々と鉢植えを整えていた。野草の苗のポットも販売している。近隣住民の野草愛好者や庭いじりがお好きな人々が訪れるのであろう。休憩テーブルセットの前に自販機があった。冷えた缶コーヒーを買って飲んだ。
都営の植物園の中の「花屋」はテナントなのだろうか。あるいは、業務委託契約による民営の花屋なのかわからない。そんな中でしばしボッーとしたワタクシは、来園目的を思い出したのである。「おーい、紫草よ、いずこにありや」と自問しながら、迷子状態のままで帰れないので、「よーし、正門近くに建物があったな、アレが事務所だろう」と気づき、野草畑ゾーンを外れ、一旦外に出て事務所に向かったのである。思った通り、その建物は薬用植物園の管理事務所だった。ドアを開けると、すぐ右側に薬用植物の展示館があった。ココを先に見学してから、紫草の育成畑の所在を尋ねることにした。
薬用展示館の開設目的はケシの栽培禁止キャンペーンと、モルヒネの素であるケシの成分研究の促進であろう。展示室にはさまざまな野草の乾燥した根が薬用瓶に詰められており、その中に紫根もあった。瓶のシールには「生薬名:紫根 シコン」「基原動植物:ムラサキ 硬紫根」と書かれており、「採集地:中国由来?」との表示もあった。「基原動植物」とは聞きなれぬ学術用語かも知れないが、採集地が「中国由来?」というのはどういう訳であろうか。標本番号3749のこの紫根の入手先はどこなのか。そもそも、日本ムラサキなのか、そうでないかも判然としない。日本のどこの産地の紫草なのかという疑問よりも、学術研究機関でもある薬用植物園が「採集地:中国由来?」と表示していること自体に疑義を抱いた次第である。
紫草の紫根標本は、薬効成分の研究のためであって、染料としての成分研究のためではないことは明らかだ。美しい写真を分類して編集したリーフレットに表示されている「絶滅危惧種・維管束植物ⅠB」なる表示もなかった。傍らのモニターの映像は「麻薬厳禁キャンペーン」が主なコンテンツだった。
~管理事務所に紫草栽培の案内を乞う~
「あのう、紫草をどこで栽培しているのか教えてください」と窓口の若い事務員に尋ねたっところ、専門員らしき中年男性がすぐ登場した。「それじゃあ、いまからご案内しましょう」と言ってくれた彼の名札には「薬用植物担当 中村」と記されていた。
中村さんに案内された場所は、碁盤の目のように区画された一番奥の場所だった。「ああ、ここですかあ。もう一本向こうの道をさっき2回も通りましたが、この区画だと気づきませんでした」とワタクシ。その区画はトイレの真裏の一郭にあり、背後には樹木が茂り、夏の強烈な西日が照り付けていた。そこにあった。西側の面と側面に遮光幕がぐるりと張られていた。正面は10cm角のネットが張られていた。ミニハウスの中を見て驚いた。紫草の株は「丸鉢」や「四角鉢」に植えてあるのだが、それらすべてが、なんと鉢ごと土中に埋まっているのである。ミニハウスの土の表面は、熱線反射のためか、雑草駆除のためか、シートで全部覆われていた。
では、なぜ鉢の上端まで土中に埋設しなければならないのだろうか。明らかに根を伸ばすための意図がないと思われる。鉢の温度上昇を防ぐためなのか、害虫や菌の侵入を防ぐためなのか、目的がわからない。その理由を伺いたかったが、中村さんは紫草栽培の場所を案内してくれただけで、「余所の見廻りに行ってきます」と言って、大きな区画の方へそそくさと行ってしまった。「ねえ、ちょっと、つれないんじゃないのおー」。
ミニハウスの中の紫草は茫々と繁ってはいたが、GW直後に開花したという紫草の脇枝の結実はあまり芳しくなかった。部分的に葉の縁が焼けただれたものが目立っていたが、全体としてはかなりワイルドな印象を受けた。鉢の大きいほうが成長ぶりがよい。脇枝がぐんと伸び、たくさんの結実が見られた。また、西面の遮光によって、ミニハウス内の温度が何℃ぐらい低下するのかわからないが、栽培環境はよくなるだろう。
ミニハウスの見学を終えて、薬用植物をもう一度一巡し、最後に温室見学をした。あれやこれやの亜熱帯性と思われる希少植物を「ふむ、ふむ」と呟きながら見たが何の感動もなかった。ワタクシは、あの埋め込み栽培の紫草の鉢植えのことが脳裏から離れぬまま、温室を出た。不満が残った。そこで、もしやと思い、温室の横道を進んだのである。すると、10mほど先に「野草園」が見えた。そこは、高く大きな樹木に囲まれており、鉢植えがゴロゴロ置かれた場所であった。蚊のブンブン攻撃をかわしながら、目を凝らして野草の銘板を探した。「あったあー、見つけたぞおー」。声なき雄たけび。写真をご覧いただきたい。直径30㎝ほどの円形大鉢に背丈20㎝ぐらいの紫草が3、4株ずつ植えられていたのである。しかしである。よーく見てほしい。「おお、なんと可哀想な紫草姫よ!」。接近して観察すると、全身が虫食いだらけの無残な、お姿です。きちんとお世話をして、絶えず気を配らないと、部分枯れのあばたになってしまうんですね。
ワタクシ達、西東京紫草友の会の紫草栽培もアブラムシなどの害虫被害にあったり、〈萎凋病〉の感染による横死という悲しい経験をしているので、エラそうなコトは言えません。〈萎凋病〉のことは調べても十分な対応ができずに処分する悲しみを味わった。9月現在、生き残っている健全な1年株を守り育てているけれども、常に「絶滅の危機」の憂いがつきまとうのである。余所の庭園や植物園の紫草栽培はどこでも人手が足りないので、放置したままが常態化しているが、ワタクシ達は人手があっても、栽培ノウハウが足りない。ということで、今はひたすら祈るのみ。「共同栽培場と個人栽培のわが紫草よ、頑張れ、ガンバレ、がんばれ!」
1947(昭和22)年群馬県高崎市生まれ、池袋育ち。早稲田大学第一商学部卒業後、ディスプレイデザイン・商業空間設計施工会社を経て、株式会社電通入社。つくば科学万博、世界デザイン博、UNEP世界環境フォトコンテスト、愛知万博などの企業パビリオンをプロデュース。その他、企業・自治体のコーポレート・コミュニケーション、企業・団体の国内外イベントで企画・設計・映像・展示・運営業務に携わる。現在、西東京紫草友の会会長、地域文化プロデューサー、イベント業務管理士。西東京市中町在住。「古文書&紫草ライフ」が目下のテーマだが早期引退を模索中。