第9回 武蔵国を歩く 練馬編
~大泉学園駅から牧野記念庭園に向かう~
冬の光の暖かい12月のとある日の昼頃、牧野記念庭園へ向かった。西武池袋線保谷駅の次の駅が大泉学園駅である。牧野記念庭園のことはずっと以前から知っていたけれど、拙宅から近いので行きそびれていた。紫草が地植えされているのを仲間から耳にし、初めて訪れたのが今年の真夏だったので、今回は二回目の訪問となった。大泉学園駅南口のペデスティリアンデッキに出ると、牧野記念庭園のサインが迎えてくれた。迷うことなく地上に下りた。駅南口の道を真っすぐ進むと、自動車教習所があり、その後背地に碧空に聳える森林が見えるはずだ。教習所の建物を右折し、20mぐらい先の右側に牧野記念庭園の入口がある。
大泉学園駅一帯は、かつて武蔵野鉄道(現、西武鉄道)の堤康次郎氏が学園都市構想に基づき開発した地域だが、学園誘致に失敗したため、近隣に大学や研究機関はない。1924(大正13)年、武蔵野鉄道の「東大泉駅」が開業、1933(昭和8)年に「大泉学園駅」と改称された。牧野富太郎博士夫妻がこの地に移住したのは1926(大正15)年だから、当時の駅名は「東大泉駅」だったはずだ。この年は、東京・横浜に壊滅的な被害を与えた関東大震災から3年目の年にあたる。東京の交通網はずたずたになり、軌道を走る鉄道網に一時取って代わり、米国フォード車の「円タク」が登場してから間もない時代だった。この時代には国産乗用車の産業化の黎明期であり、1935(昭和10)年に「トヨダA1型試作車」がテスト走行を試み、本格的な国産量産車「トヨダAA型乗用車」が発表されたのは1936(昭和11)年のことだった。
この時代の庶民の足はバスではなく鉄道だった。鉄道駅を軸にして周辺部の流通網ができはじめ、商業集積がぼつぼつ進んだ。現在の鉄道・路線バス・福祉バス・タクシー・乗用車・バイク・スクーター・自転車などの輻輳もないのだから、道路網もまだまだ整備されず、武蔵野鉄道東大泉駅界隈は想像を超える鄙びた一帯だったであろう。けれども武蔵野の「野趣豊かな大泉」とリーフレットに謳われる東大泉一帯の面影はまったくない。わずかに牧野記念庭園の森林・野草植物が「緑豊かな自然環境」として保全されている。四季折々に変化する花木と野草の様相を身近に感応できる大泉学園駅近隣住民は幸せだ。
~Welcome to Makino Memorial Garden & Museum~
歴史を紐解くと、日中戦争が深みにはまり、1938(昭和13)年には第1次近衛内閣によって「国家総動員法」が成立し、一般庶民の生活物資獲得に制限が加わり始め、時代はまさしく愚かな戦争へ傾斜していった。
こうした時代の中、牧野富太郎は1912(大正元)年、東京帝国大学理科大学の講師となり、1927(昭和2)年65歳のとき、理学博士号を東京帝大から授与された。以後、1939(昭和14)年、勤続47年で理学部講師を辞任し、1957(昭和32)年の94歳の逝去までほぼ後半生を大泉で暮らしたのである。かつて牧野博士夫妻が住んだ居宅の一部は、いま展示館〔書屋展示室〕の中に移築されており、そこに佇むと博士の晩年の静謐で充実した時間を共有するかのような気配を感じるのである。居宅の展示館の様子は後述したい。
~地植え紫草との再会~
牧野記念庭園は2222.5㎡(約672坪)でさほど広大ではない。これまで多くの植物園と比べたら、極めてコンパクトな庭園である。しかし、牧野博士自らが好んで選んだ樹木の並びが、訪れる人びとを待っているかのように植えられている。ワタクシのあとから来園した車椅子の人が「ウエルカムゾーン」の樹々を仰ぎ見てニコニコしながら、しばし溜息をついていた。住宅のまん中にある庭園だからこそ、いつでも気軽に行ける散策の場でもあるのだろう。水と緑と光は人の暮らしにとって欠かせないが、水辺がなくとも、この庭園には土の匂いとオゾンがある。暮らしに密着した憩いの空間であることがわかる。
さて、ワタクシは牧野記念庭園に紫草の「その後」を訪ねるのが再訪の目的だった。7月の初訪問は、西東京紫草友の会の仲間から「紫草がありますよ」と「紫草情報」を得た直後だった。そのとき、受付で「紫草の在り処」を尋ねた。すぐその場所に案内してくださった。60代後半と思しき方で、名札に「渡邊」さんと記されていた。真夏の7月だったので周囲の樹々はこんもり繁り、樹間は鬱蒼としており、紫草の地植えの場所は木漏れ日すら届かない日陰だった。次の写真を見てほしい。上が7月の初訪問時、次が12月の再訪時に撮ったものだ。陽当たりがまるで違う。7月の時は曇り日だったので、日は全く射していなかったが、12月の時は太陽が当たっていた。冬枯れの落葉によって、木漏れ日が射しこんでいたのである。
7月に案内してくださった渡邊さんは、この日はお休みだった。その時に交わした会話を思い出した。その時のメモを写そう。「この紫草はどうしたんですか。どなたかの寄贈ですか」とワタクシ。「いいえ、実は練馬区の「花と緑の相談所」の人がインタネットで買ったものを移植したんです」と渡邊さんがお答えになった。「いつ頃ですか」「4年前の2013年らしいです」「すると、この紫草の株は4年物なんですね」「でも、2年前のことは知りません」。???……ということは、渡邊さんは牧野記念庭園の環境保護管理の仕事に就いてから2年目らしい。公営の植物園は人事異動が多く、引き継ぎ体制が十分とはいえず、これまで「…らしいです」とか「…知りません」「…わかりません」という応答を随分聞いてきた。
さらに話を伺った。「この辺の土壌は水はけはいかがですか」「いやぁ、水はけは悪いですよ」とのご返事だった。紫草の好む陽当たりと水はけがともに芳しくない場所だとわかった。ここの紫草にも亡びの予兆を感ぜざるを得なかったが、12月の冬枯れの季節にもかかわらず、牧野記念庭園の地植えの紫草はどっこい白い種をまだ残していた。ほかの種は地面に落ちたのだろう。だとすれば「採り蒔き」に近いカタチで、案外生き延び、子孫が受け継がれるかもしれない、と思って、いつものように「がんばれよ」と呟いたワタクシでした。
~植物学の世界的偉業を讃える~
練馬区立牧野記念庭園の公式パンフレットを開くと、最晩年の牧野富太郎の人生をやり遂げた人間の素顔の写真に、「花在ればこそ吾れも在り」との言葉が添えられている。牧野富太郎は1926(大正15)年、63歳のときに東京府北豊島郡大泉村上土支田557番地、現在の牧野記念庭園の場所に居住を定めた。それ以来、亡くなるまでの30年の間、植物研究を継続した。まさしく精魂尽きるまで、大好きな植物研究に勤しんだ、否、魂を燃やし続けたのである。最晩年には、91歳で東京都名誉都民、練馬区名誉区民となり、1957年(昭和32)、94歳で没後、従三位勲二等旭日重光章と文化勲章を授与された。
「家守りし妻の恵みや我が学び」「世の中のあらんかぎりやすゑ子笹」
1928(昭和3)年に亡くなった、賢夫人の名前を冠したスエコザサの命名をはじめ、新種約1000の命名、約1500の命名植物などの命名を行い、およそ40万点にも及ぶ膨大な植物標本を収集した。牧野富太郎は、1862(文久2)年、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の造り酒屋に生まれた。明治にはいると17歳で上京。日本の富国強兵・殖産興業の国策のもと、西洋技術・産業機械の紹介を通じての第2回内国勧業博覧会を熱心に見学し、欧米の先進技術・知識と出会い、自らの針路を触発されるなど、明治の人の気概を見せた。
こうした傾向は明治生まれの、のちに発明を契機に機械産業を興した産業人が数多く輩出した。このような機運のもと、多くの若者が『坂の上の雲』をめざしたのである。自動織機の発明家・豊田佐吉翁もその一人で、内国勧業博覧会に足しげく通った。この点では、産業人ではないけれども、のちの植物学者・青年牧野富太郎もわが国の未来を切り開いた人物列伝に含まれるであろう。幕末に生まれ、明治に青春を送った大人の自己研鑽の凄さには鬼気迫るものがある。機械産業の祖ではないが、牧野富太郎も若い頃から植物の細密画を描き、類まれな観察眼と絵画表現技術を芸術の域まで高めたといえる。彼が残した植物スケッチの超高精細きわまる表現テクニックは驚嘆に値する。世界的植物学者・牧野富太郎も若い頃の「飽くなき精神、周到な準備」を土台として成長し、飛翔して行ったのである。蓋し、好きこそ執念の賜物なり。
なお、博士の出生地・高知県にも高知県立牧野植物園があり、博士が創刊した『植物学雑誌』『植物研究雑誌』などが揃えてあるという。牧野富太郎は植物研究学のアンリ・ファーブルであり、かつまた天寿を全うした坂本龍馬です。〈了〉