第8回 武蔵国を歩く 調布篇その2

 


蝋山 哲夫西東京紫草友の会会長


 

 

 ~調布市野草園から神代植物公園に向かう~

 「あの人に付いていけば、おそらく神代植物公園に着くと思いますよ」
 調布市野草園の山花さんがおっしゃった「あの人」とは、さきほど野草園で草花を熱心に撮影していた人だった。彼はワタクシの15m先を歩いている。高速道路の下をくぐって山道を登っていくと、右側だけに住宅が集中している一帯に出た。左側は農地のような、休閑地のような穏やかで不思議な街だった。すると、突然彼が右に曲がり、人家の間に「消えた」のである。「なーんだ、ここら辺にお住いの地元住民じゃあないか」と、ガッカリした。

 「この道でいいのかな」と思案しながら歩くと、向こうからランドセルを背負った小学生がやってきた。「坊や、神代植物園への道はこれでいいの」「ハイッ、まっすぐ行くと右側に交番があるので、そこで道を聞いてください」。

 少年が教えてくれた交番で、神代植物公園への道どりを尋ねた。巡査の説明に従って、五差路まで延々と行く。変わった地形だった。「五差路を左折」ってのはどういうこと?

 

交番の前は深大寺小学校(階段の左)

だだっ広い五差路を左折すると石碑に遭遇

 

 巨大な柳の木が左角にあった。写真を撮ろうと思ったものの、あまりにも巨大で高く聳えているので、アングルに入りきらずに撮影断念。しかしまあ、よく歩く日となった。調布市野草園の「ちょい向こう」が神代植物公園だと思い込んでいたが、元々当方はここら辺の土地勘が全くないので、その都度、通行人に道を尋ねるほかなかったのである。

 

風格ある表示だが古いものではない

間口3尺はあろうか思われる全う過ぎる表示

 

 調布野草園を出てから神代植物公園までかるく2㎞はあっただろうか。クルマがびゅんびゅん通る道沿いに、やがて、「左 神代植物公園南門・深大寺」と刻んだ石碑表示が見えた。「ここかあー」としばし安堵する。しかし、植物園の外郭のフエンスが続き、赤い矢印プレートが先に進めといっている。「まだまだ先なのかなあー」と思っているうちに、あたりは鬱蒼と高木が生い茂った、昼なお暗い道になった。ところどころに街路灯が点いていた。

 

 ~深大寺蕎麦を堪能、緋毛氈の床机で一服~

 一本道をぬけると、小体な雰囲気をかもしだす深大寺そばの店が連なっていた。学生だった頃、深大寺蕎麦を食べたことをあるが、その時の雰囲気なんぞはすっかり忘却の彼方にある。店の真ん前に緋毛氈を敷いた床机があった。よく見ると床机の向こうの「奧の細道」から人がぞろぞろ歩いてくる。樹間から神代植物公園の南ゲートが見えた。記憶なんていい加減であるなあ。神代植物公園の開園は昭和36年なので、かつて訪れた深大寺蕎麦の茶屋の隣にすでにあったはずだけれど、まったく思い出せないのがなんとも情けない。

 その日の目的は神代植物公園の紫草を見ることだったが、その前に名物の深大寺蕎麦を食べた。美形のお姉さんに尋ねた。

 「ここの深大寺蕎麦のそば粉は北海道産なんですね」
 「はい、そうなんです。店内で召し上がりますか」
 「いや、表で食べますので、その十割そばをください」

 午後の2時をとっくに過ぎていたが、お客がチラホラといた。まるで「峠の茶屋」のような屋外座席にすわって、深大寺蕎麦を堪能した。存外、堅茹での抹茶色の蕎麦だった。食べ終わるとお姉さまが蕎麦湯をもってきてくれた。折角だから「茶饅頭を二つください」と告げた。そば1000円+茶饅頭200円也。

 緋毛氈の床机で一服してから、神代植物公園に向かった。折しも、世界のバラフェスティバルが開催中だった。入場券を買おうと思って、ふと一瞬ためらった。「ここに紫草があるとは限らない、ないかも知れない」と思って、ゲート入口の係員に聞いてみた。「あのう、神代植物公園には紫草があるんですか」とワタクシ。50代と思しき係の女性が「事務所に電話で問い合わせますから、ベンチで待っていてください」。待つこと5分。「紫草はあるそうです。それに、きょうはボランティアさんが来ていますから、ご案内してくれるかもしれません」との返答を聞くや否や、券売機にコインを挿入、紫草の育つ場所をうかがった。すると、案内パンフレットを指さして、「この山野草園にあるとのことです」と教えてくれた。

 あとでわかったが、ワタクシは山野草園の反対側の南門から入ったので、山野草園まで相当な距離がある。山野草園は正門のすぐ付近にあると記されていた。「山野草園までどの道を行けばいいんですか」「そこの木立の間をすすんで、道に出てください」といわれた。木立の間? そこに道などなく、ただの草地だった。これも、あとでわかったけれど、入場料は500円ではなく、65歳以上は半額の250円だった。年中、動き、あちこちを歩き続けるのが習い性になっているワタクシは、自分の年齢をすっかり忘れたいた。現実はたんなるアクティブ老人だったのである。あーあ。

 

 ~広い、広い公園をたくさん歩いた~

 神代植物公園は、「武蔵野の面影が残る園内で、四季を通じて草木の姿や花の美しさを味わうことができます。(中略)昭和36年に名称も神代植物公園と改め、都内唯一の植物公園として開園されました」とパンフレットに書いてある。「現在、約4800種類、10万本・株の樹木が植えられています。園内はバラ園、ツツジ園、ウメ園。ハギ園をはじめ、植物の種類ごとに30ブロックに分けており、景色を眺めながら植物の知識を得ることができるようになっています」、続いて「また、古くから伝わる日本の園芸植物の品種の保存や植物・園芸に関する催しや展示会を開き、都民の緑に対する関心を高めるのに一役買っています」。うーむ、そうだったのか。ここはもともと東京の街路樹を育てる苗園だったが、戦後、神代緑地として公開されてから、現在の神代植物公園として昭和36年にオープンしたのだった。

 

やたらに広大な園内

バラの庭園。後方は昭和59年完成の大温室

 

 早速、山野草園の方へ歩いて行った。ところが、そこまで遠い、遠い、なんと遠いのか。噴水のある広大なバラ園の脇を通り、正門にたどり着き、植物会館やガーデンビューローを横目に見ながら、ようよう山野草園の地味で小さな表示板を発見した。山野草園の一帯はさまざまな樹木が生い茂る鬱蒼地帯だった。陽光が差し込まず、とにかく暗い雑木林だった。その木立の下が「山野草園」だというのだが、ほとんど山野草の表示がないので、何がなんだかわからないまま、その一帯の小道を行ったり来たりした。同じ小道を4回も歩いたが、どうしても「幻の紫草」を見つけられなかった。「困ったなあー」。

 すると、木立の隙間に人影あり。見れば明らかにボランティアらしき老婦人が歩いていた。「すみませーん、ちょっとお尋ねしたいんですが…」とお声がけするも、そのお方は速足でずんずん行ってしまう。やっとのことで追いつき、「ボランティアの方ですね。紫草はどこにあるんですか」と問うと、「じゃあ探してみましょうか」と一緒に探してくださった。結果的に見つからず、彼女は「折角、神代にお越しになったのだから、事務所で聞いてきますから、ここで待っていてください」と話し、これまた凄い速足で去って行ったのである。

 

この一郭は陽が当たっているが、周辺は「闇」

どこに山野草があるのだろうか、皆目わからず

 

 たくさん歩いて、たくさん待った。でも、総じて神代植物公園の人々は親切丁寧だった。ワタクシは暗がりの小道に佇み、10分ほど待った。応援のボランティアがやってきた。とても、しゃきしゃきした活発な人だった。いきなり「その場所」に案内してくれた。「オケラの近辺にあるはずですよ。ホラッ、ここです」と「ムラサキ」と表記したプレートの当たり指さしたのである。ワタクシはその場所を凝視した。「おお、いったいどこにいるのか、紫草姫は。姿を見せておくれ」。表示プレートは見えるけれど、肝心の紫草をどうしても発見できないで焦った。すると、活発なボランティアの人が、「ホラッ、ホラッ、そこでです。ほかの草の間にあるでしょ」とおっしゃる。ややあって、ワタクシは、ほかの草に混じって倒れている紫草の姿をついに見つけることができたのだった。

 

どこもかしこも、こんな風な草叢だった

暗がりの下に、手書きの表示「ムラサキ」

 

 ~紫草はなんとか生きていた~

 それは、まるで隠れるがごとく、ほかの草の下に寝そべり、倒れていた! これじゃあ、見つけられないはずだ。それを見て「行き倒れ」という言葉を思い出していた。紫草が好む生存環境どころか、陽当たり・水はけ・風通し・土質のどれをとっても、ふさわしいとは思えない場所に地植えされていたことに胸が痛んだ。写真をとるために左手で、よれよれで痩せた、草丈15㎝ほどの紫草を持ち上げた。葉のところどころに虫食いの跡があり、枝には芯がないかのようで、全く自立できないでいた。可哀想だった。こんな場所に植えられても、紫草はなんとか生存していたのである。これも「野生力」のなせる業なのだろうか。

 

草叢に埋もれ倒れていた紫草の枝葉の1株、どれが紫草だかわかりますか。けなげな結実がある

 

 このような環境の中にあっても、ともかく紫草は生きていた。でもそこは、高温・高湿の環境ではないことだけがせめても救いだと感じたが、同時に亡びの予兆も嗅ぎ取らざるを得なかった。正門への帰り道、歩きながらお話をうかがった。「以前は、まだ数株あったんだけど、ダメになっちゃって、あの1株だけが生きのこったんです。紫草はねえ、いまでも富士山麓に自生していますよ」と元気のいいボランティアが超楽天的に話してくれた。「エッ、もう自生してないでしょう、冗談でしょ」と、その時、ワタクシの脳裏には、幻の紫草のイメージが浮かんだ。そのお方は一足お先に事務所へ帰っていった。

 最初に応対してくれた、速足の魅力的な老婦人ボランティアにワタクシは名刺を渡した。「あら、お珍しいお名前ね」といわれ、「はい、わたしは亡びゆく民族です」と答えた。「あのボランティアのお方は、藤原さんというのよ」という彼女の名札を見て、大川さんというお名前であるのがわかった。また、入場券にスタンプを押してもらうと、何回でも再入場ができることも親切に教えていただいた。「じゃあ、また来てくださいね」という言葉で別れ、ワタクシは正門から出て、吉祥寺行きのバスに乗った。「大川さん、有難うございました。紫草のお世話をよろしくお願いします…」と心の内で呟いた。
〈了〉

 

【筆者略歴】
蝋山 哲夫ろうやま・てつお

 1947(昭和22)年群馬県高崎市生まれ、池袋育ち。早稲田大学第一商学部卒業後、ディスプレイデザイン・商業空間設計施工会社を経て、株式会社電通入社。つくば科学万博、世界デザイン博、UNEP世界環境フォトコンテスト、愛知万博などの企業パビリオンをプロデュース。その他、企業・自治体のコーポレート・コミュニケーション、企業・団体の国内外イベントで企画・設計・映像・展示・運営業務に携わる。現在、西東京紫草友の会会長、地域文化プロデューサー、イベント業務管理士。西東京市中町在住。「古文書&紫草ライフ」が目下のテーマだが早期引退を模索中。

 

 

 

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