コメディアンの志村けんが2020年3月29日に逝った。新型コロナウイルスによる肺炎だった。享年70。突然の訃報だった。北多摩郡東村山町(現東村山市)出身の志村は1976(昭和51)年3月に所属するザ・ドリフターズの人気番組「8時だョ!全員集合」の中で歌った志村版「東村山音頭」で東村山の名を一躍全国に知らしめた。長年、芸能界の第一線で活躍して、地元の知名度アップに貢献したとして亡くなった年の6月に名誉市民になり、西武新宿線東村山駅前には銅像が建てられた。

 東村山市にある国立療養所多磨全生園(全生病院)では入所者の趣味の活動が盛んで、中でも俳句や短歌、川柳をたしなむ人たちが多かった。創作は生きがいだった。作家では全生園を舞台にした小説「いのちの初夜」を書いた北條民雄が知られる。かつては社会から隔絶された閉鎖空間の所内で「生きる糧」として入所者たちの心の支えになった。今回は文学を中心に療養所の暮らしを書くことにする。

 東村山市青葉町にある国立ハンセン病資料館の前身、高松宮記念ハンセン病資料館が1993(平成5)年6月に完成した。不治の病とされ長年、国の隔離政策が続いたハンセン病は完治する病になり、強制的な隔離政策に終止符が打たれた。資料館は長く続いた偏見と差別や治療や療養、療養所生活の歴史を振り返るとともに、この病の正しい知識の普及と人権回復のための広報・啓発活動をはじめ、さまざまな事業を展開している。2007年4月に国立の施設としてリニューアルオープンした。国立療養所多磨全生園(ぜんしょうえん)の緑豊かな敷地内にあり、国立13カ所、私立1カ所ある全国のハンセン病療養所の情報を集約し発信するナショナルセンターの役割を果たすとともに、学びの場、住民との交流の場にもなっている。

 1984年10月、日本を代表する木彫作家の1人、平櫛田中(ひらぐし・でんちゅう)の美術館が小平市にオープンした。小平市学園西町は田中が最晩年に暮らした地。玉川上水のほとり、静かな住宅地に建つ住居兼アトリエをそのままに小平市平櫛田中館として開館、94年に展示館を新設し、2006年4月、小平市平櫛田中彫刻美術館と改称して現在に至っている。こぢんまりとした空間に木彫、ブロンズ作品や書、ゆかりの品々を収め、北多摩地域には珍しい市立美術館だ。

 北多摩の住民でも、東村山市に東京都内で唯一の国宝建造物があるのを知る人は少ないのではないか。西武新宿線東村山駅の西口から歩いて10分余り。家並みを抜けると正福寺が現れる。禅宗の古刹で臨済宗建長寺派の寺だ。境内に建つ地蔵堂は戦前から国宝だったが、戦後1952年に文化財保護法の国宝に再指定された。今も地元の誇りとして手厚く保護されるとともに、親しまれ、地域の絆としての役割を果たしている。

 早稲田大学の卒業生の親睦組織、西東京稲門会がボランティアで取り組んでいる小中学生向けの無料の学習塾はユニークだ。経済的な理由などで、学習塾に通ったり家庭教師を頼んだりしていない公立学校に通う小学5年生から中学3年生の子どもたちに会社員やリタイアした人、主婦、大学教授経験者などが無報酬で授業を行っている。進学塾ではないので受験対策ではなく、学校の授業の補習が主な目的で、学習の遅れを補い、家庭学習、自ら問題解決する力を育成している。週に2科目受講でき、教師1人に生徒2人。対話しながら90分の授業を進める。学校の授業とはひと味違う、丁寧でゆったりした手づくりの学びの場である。

 戦前、戦後、そして未来に向けて「結核病院街」とも「結核の聖地」とも称される歴史を刻んできた清瀬市。そこで治療や療養をしていた人々は実にさまざまだ。境遇も職業も生い立ちも異なる老若男女が、かつては「不治の病」と言われた結核と向き合って懸命に生きてきた。治療もむなしく逝った人たちも数多い。この回ではあまたいる患者の中から清瀬での療養で自らの内面を耕して優れた作品を残した文学者の足跡を振り返りたい。それは結核の治療、闘病の歴史を彩るサイドストーリーでもある。