北多摩戦後クロニクル 第32回
1984年 小平に平櫛田中の美術館 最晩年過ごした家に入魂の木彫作品

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年8月15日

 1984年10月、日本を代表する木彫作家の1人、平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)の美術館が小平市にオープンした。小平市学園西町は田中が最晩年に暮らした地。玉川上水のほとり、静かな住宅地に建つ住居兼アトリエをそのままに小平市平櫛田中館として開館、94年に展示館を新設し、2006年4月、小平市平櫛田中彫刻美術館と改称して現在に至っている。こぢんまりとした空間に木彫、ブロンズ作品や書、ゆかりの品々を収め、北多摩地域には珍しい市立美術館だ。

 

小平市平櫛田中彫刻美術館

小平市平櫛田中彫刻美術館(2022年10月)

 

彫刻への情熱、高い精神性

 

 平櫛田中は1872(明治5)年、現在の岡山県井原市に生まれた。戸籍の上では父は片山理喜助、母多計の長男となっているが、田中本人はその出自に懐疑的だったといい、はっきりしたことは分からない。1歳で田中謙造、以和の養子になり、11歳で現在の広島県福山市の平櫛家に養子に入った。平櫛田中は両家の苗字から取っている。尋常高等小学校を卒業すると尾道まで往復して英語を学んだ。向学心旺盛な少年だったという。15歳で大阪・心斎橋の西洋小間物問屋に丁稚奉公した。

 彫刻や造形に強い興味を抱き、22歳の時に大阪の人形師、中谷省古のもとで彫刻の手ほどきを受けた。26歳で上京し、彫刻家、高村光雲に入門して本格的な修業を始めた。

 彫刻への情熱は増すばかりで、木彫の制作に打ち込んだ。30歳で日本美術協会春季展覧会に初めて出品した「唱歌君ヶ代」が入賞して宮内省買い上げになるが、その後は作品が売れず、貧しい暮らしが続いた。37歳で岡倉天心が会頭を務める日本彫刻会に入会。天心の薫陶を受け天性の才能を磨いた。一方で臨済宗の禅僧に影響を受けて、仏教の世界に深く傾倒して内面を耕した。

 仏像や仏教説話、中世の説話などを題材にした精神性の高い作品を数多く手掛け、大正時代に入るとモデルを使った人物造形にも取り組んだ。平櫛作品の顕著な特徴として伝統と現代の融合を試み、当時はタブーとされていた彩色作品にも挑んだ。

 

「鏡獅子」

「鏡獅子」制作中の平櫛田中(小平市平櫛田中彫刻美術館提供)

 

 1936年に制作を始めた「鏡獅子」は彼の木彫の代表作のひとつで、現在、東京・三宅坂の国立劇場のロビーに飾られている。モデルは歌舞伎の大立者、六代目尾上菊五郎。田中は菊五郎をアトリエに呼んで希代の名優の肉体を徹底的に観察した。彼を下帯ひとつにして所作の際の全身の筋肉の動きまで目に焼き付けて造形したという。太平洋戦争での中断を挟んで22年間を費やして完成させた。

 107年の生涯で最晩年まで創作意欲は旺盛で、多彩な作品群をつくり続けた。100歳の時、20年後に使う木材を大量に購入した逸話は有名だ。弟子を指導して、東京芸術大学で教壇に立ち続けた。彫刻のみならず日本の造形芸術に多大な影響を与え、欧米などにも愛好者が多い。62年には文化勲章を受けている。

 

98歳の移住、こよなく愛した家族と小平の風光

 

 平櫛田中は全国を旅して各地の景色や人情に触れたが、とりわけ気に入ったのが都下小平の風光だった。玉川上水の両岸に桜が咲き乱れ、緑豊かな畑が広がるのどかな田園風景―。田中は戦前に600坪の土地を買い求めている。戦前、戦中、戦後と台東区上野桜木町の住居兼アトリエで長年暮らした田中が小平に転居したのは70年、98歳の時。転居を決めた大きな理由は同居していた次女、京子さんの関節リウマチの療養のためだった。

 田中は55歳の時に3人の子供のうち長女を数え年19歳で、翌年には長男を数え年18歳でいずれも結核のため失っている。衝撃のあまり、およそ2年間制作ができなかった。ひとり残った最愛の京子さんをとても大事にした。上野の家より広く、環境のいい小平に転居を決断。浴室やサンルームを備えた療養部屋がある新居は国立能楽堂なども手掛けた建築家の大江宏が設計した。

 彫刻美術館の館長で京子さんの長女平櫛弘子さんは「祖父は優しくて子煩悩な人で、孫の私もかわいがってもらいました」と話す。「人間や社会の実相を見つめながら、鍛錬を重ねて彫刻に生涯をささげた芸術家ですが、家長意識が強い人でもありました。私たち孫3人もわが子のように慈しんでくれました」と振り返る。弘子さんたち孫に旅先から送った押し花で飾った絵手紙からは愛情が伝わってくる。弘子さんは平櫛田中の作品や祖父の風韻、人柄を伝える語り部でもある。

 

平櫛弘子館長

田中の孫で小平市平櫛田中彫刻美術館の平櫛弘子館長

 

 田中の生誕150年を記念して、2023年に出版した『平櫛田中回顧談』(平櫛田中彫刻美術館編、中央公論新社)は希代の芸術家の来し方を聞き書きで綴った貴重な自伝であり、魅力あふれる芸談だ。編集の中心になった弘子さんは「明治、大正、昭和と芸術家として生き抜いた祖父の肉声に近い言葉が綴られている。創作の実相がよくわかるし、彫刻家たちとの交流の逸話は社交的で、案外、楽天的な祖父の人柄を伝えている」という。

 

『平櫛田中回顧談』表紙

『平櫛田中回顧談』表紙

 

市長との交流が生んだ稀有の美術館

 

 田中は壮健な人で好奇心旺盛、行動力があった。小平に転居した70年には大阪万博に出かけ、大好きな武原はんの地唄舞を会場で鑑賞、アメリカ館で月の石も見ている。小平に来てからもかくしゃくとして歩いて市役所を訪ね、当時の大島宇一市長と昼食を共にするなど市長と懇意になった。市長も多忙の中でも喜んで迎え入れたという。

 79年12月30日、田中が亡くなったとき、年の瀬にも関わらず市長の号令一下、職員たちが葬儀万端をサポートした。三回忌を終えたころ、市長は「このお宅をどうしますか」と弘子さんに尋ねた。「実は小平には美術館がないのです」という市長の勧めで弘子さんは美術館の開設を決心したという。田中の出身地、井原市には69年に開館した井原市田中館(現・井原市立平櫛田中美術館)があるが、愛着のある小平にも美術館をつくることにした。

 

鶴氅(かくしょう)

岡倉天心をモデルとした木彫「鶴氅(かくしょう)」(小平市平櫛田中彫刻美術館提供)

 

 84年の小平市平櫛田中館の開館からこれまでの累計来館者は約38万人。郊外の小さな美術館としてはかなりの集客力だ。学芸員の松本郁さんは「気軽に立ち寄れるのが魅力でリピーターも目立つ。作品のファンはもちろん、100歳を超えても精力的に創作に取り組み、数々の語録を残した平櫛田中の人となりに惹かれる方々も多い」と話す。

 収蔵する木彫、ブロンズの作品、書が合わせて約400点。写真や手紙などゆかりの品々があり、定期的に展示替えしている。代表的な作品は出世作の「唱歌君ヶ代」、ブロンズの傑作「転生(てんしょう)」、有名な「鏡獅子」もある。2メートルを超える国立劇場の作品に比して高さ60センチと小ぶりだが見事な造形だ。「尋牛」「狛犬」「鶴氅(かくしょう)」「夕月」も見逃せない。「信仰のかたち」を造形した仏像などの秀作も多い。2023年2月から5月にかけて開いた、写真で制作の姿をたどる「制作の軌跡」展など工夫に満ちた展覧会を定期的に開催している。武蔵野の風光を味わいながら訪ねてほしい。
(中沢義則)

 

【主な参考文献】
・小平市平櫛田中彫刻美術館編『平櫛田中回顧談』(中央公論新社)
・『平櫛田中作品集』(小平市平櫛田中彫刻美術館)
・『生誕150年 平櫛田中展』(同上)

 

中沢 義則
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