北多摩戦後クロニクル 第47回
2020年 コメディアン志村けんが新型コロナで死去 「東村山音頭」ブレーク、一躍地元の英雄

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年11月28日

 コメディアンの志村けんが2020年3月29日に逝った。新型コロナウイルスによる肺炎だった。享年70。突然の訃報だった。北多摩郡東村山町(現東村山市)出身の志村は1976(昭和51)年3月に所属するザ・ドリフターズの人気番組「8時だョ!全員集合」の中で歌った志村版「東村山音頭」で東村山の名を一躍全国に知らしめた。長年、芸能界の第一線で活躍して、地元の知名度アップに貢献したとして亡くなった年の6月に名誉市民になり、西武新宿線東村山駅前には銅像が建てられた。

 

志村けん

ギャグ「あいーん」のポーズをとった志村けんの銅像(西武新宿線東村山駅東口)

 

加藤茶と組んでコメディーに新風

 

 志村は1950(昭和25)年2月20日に生まれた。本名は志村康徳(やすのり)。両親と男3人兄弟の末っ子だ。父親は小学校の教頭を務めた厳格な人だったが、テレビの演芸番組を見ると楽しそうに笑って重苦しい家庭の雰囲気が明るくなった。それがコメディアンを志す理由のひとつになったという。ちなみに父の名は憲司(けんじ)で、芸名の「けん」はそこからとった。

 ドリフターズの最若手として、マンネリ気味だった「8時だョ!全員集合」に新風を吹き込んだ。加藤茶とのコンビで数々のコントやギャグを繰り出して、少々古めかしく、やや田舎臭いドリフターの笑いに都会的なセンスを付加したのも大きな功績だったと思う。

 

志村けん

「東村山音頭」をヒットさせて市の知名度を高めたとして、当時の熊木令次市長(右)から感謝状を贈られる志村けん(1976年、東村山市提供)

 

 ドリフターズが解散してからは加藤茶と組んでお笑い番組で活躍、やがて単独で番組を持って「バカ殿」や「変なおじさん」などのユニークなキャラクターで人気を集め、俳優としても新境地を開いていた。

 私は小学5年生から50年以上、東村山に住んでいる。志村は東村山第二中学、都立久留米高校(現都立東久留米総合高校)の7年先輩。志村が久留米高校の1期生で私が8期生である。

 訃報をテレビのニュース速報で知ったときはショックだった。今、志村の和服姿の銅像がある東村山駅の東口ロータリーに献花台が設けられ、供物や花がたくさん手向けられていた。私はカップ酒を供えた。

 

志村けん

臨時に設置された献花台に手を合わせる市民(2020年4月、東村山駅東口)

 

 志村版「東村山音頭」が初めてテレビで流れたのは76年3月、TBS系の人気番組「8時だョ!全員集合」の中でだった。新参の若手で、それまで今ひとつパッとしなかった志村が番組の中の「少年少女合唱団」のコーナーで歌い始めて、たちまち人気が沸騰した。

 志村は自伝的エッセーでこの歌の誕生秘話を書いている。ドリフターズに「坊や」で入った志村は、見習いから正式メンバーになってからもリーダー、いかりや長介にしばしば「おい、田舎者」と呼ばれていた。志村は内心、「東村山は東京都なんだぞ」と反発しながらも半分ヤケになって地元の盆踊りでおなじみの東村山音頭を、節をつけて歌っていた。ある日、いかりやが「お前、それおもしれえよ、やれやれ」とけしかけたという。それで替え歌と踊りが出来上がった。

 私はその年の4月に大学に入学した。クラスコンパやサークルの新入生歓迎会で「出身は東村山です」と自己紹介すると、どっと笑いが起きて「歌え、歌え」とはやし立てられた。大人たちから低俗番組と揶揄され続けてきたが、「8時だョ!全員集合」の波及力はすごかった。

 東村山音頭は1963年に市制施行を記念して発表され、往年の人気歌手、三橋美智也が歌って、盆踊りの定番音頭になった。「東村山~ 庭先ゃ多摩湖 狭山茶どころ情けがあつい……」。志村の「東村山音頭」を初めて聞いた時は、気恥ずかしかったが、東村山はすっかり有名になった。大学の地方出身の友人から「東村山って東京都なんだな。群馬県だと思ってた」とか「行ってみたけどなんにもない。田舎だなあ」と言われた。確かにそのころの東村山は今よりずっと畑が多くて、マンションはまだほとんどなかった。

 

志村けん

志村けんの母校、都立東久留米総合高校(旧都立久留米高校)

 

進路希望は「コメディアン」

 

 私が久留米高校在学中、志村はまだドリフの見習い扱いでテレビで見ていても元気はあったが目立たなかったように思う。でも人気番組のレギュラー出演者だから知名度は高まっていた。

 高校の歴史教諭で沼野という先生のことを思い出した。ユニークな初老の男性教師だった。いつも地味な普段着で、ズボンの腰に手ぬぐいをぶら下げていた。授業ではよく脱線した。太平洋戦争の戦地での体験から危険を察知する感覚が磨かれて、今でもビルの工事現場の脇を通るときは落下物には細心の注意を払って用心するとか、不思議にそういう話を覚えている。昼休みにふらっと教室に現れて生徒たちの弁当をのぞき込んで「あっ、ウナギが入ってる。日本も豊かになったなあ」と言ったりした。京都・奈良の修学旅行の前に奈良の飛鳥寺の来歴やご本尊の仏さまの詳細なうんちくを書いた青焼きの資料をつくってくれた。

 その沼野先生は志村の担任だったと思う。進路相談で先生が志村に「大学行くのか?」と聞くと志村が「行かない」と答えた。「じゃあ、就職か?」と尋ねると、うなずいて「うん、コメディアンになる」と即答した。そんな話をして私たち生徒を笑わせた。久留米高校はブレザーの標準服はあったが私服もOKだった。しかし、私たちのころはほとんどの生徒が標準服を着ていた。志村はいつもラフな服装で、ビートルズかぶれの長髪だったとか。文化祭で、そのころ人気があった三波伸介率いる「てんぷくトリオ」のマネをして沸かせたこともあるという。

 先生に答えた通りに志村はコメディアンの道にまっしぐら。高校卒業間近の寒い雪の晩、都内のいかりや長介の自宅マンションを訪ねて弟子入りを志願するものの、断られてしまう。だが志村は粘った。12時間も座り込んで、根負けしたいかりやに弟子入りを許された。

 

志村けん

東村山市内の書店に設けられた志村けんコーナー

 

真面目で優しく、信念貫く

 

 2004年に日本テレビ系で始まり、長く続いた「天才!志村どうぶつ園」は動物たちとの触れ合いを通して志村の素顔が垣間見える番組だった。「優しくて真面目な人なんだなあ」と思いながら見ていた。彼は自伝に書いている。「好きな道一筋でここまで来られたのだから、けっこう幸せだったと思う」「最後は自分しかいない。最後の頼りは自分だけ、という信念みたいなものがあったからこそ、いやなこと、つらいことがあっても頑張れた」。

 お笑いの世界は詳しくないけれど、テレビで見ていると今は吉本興業の芸人ばかりが目立つような気がする。80年代初めの漫才ブーム以来、お笑いの世界は大阪弁が席巻しているように感じる。志村は漫才コンビ「ツービート」で世に出たビートたけしと並んで、芸能分野で東京弁の笑いを守った代表選手だったと思う。地元の名士と言えば政界の大立者や大実業家、著名な文化人などが思い浮かぶが、庶民に愛されたコメディアンが「地元代表」というのも、何だかうれしい。

 銅像設置も東村山市や市民が協力してプロジェクトを立ち上げ、クラウドファンディングで献金を呼び掛けたところ、海外からも含めて6000人が応募。目標額の2400万円をはるかに超える資金が集まって死去から1年3カ月で完成した。

 

志村けん

西武新宿線久米川駅前で開かれた盆踊りイベントで東村山音頭を踊る人たち(2023年7月)

 

 2023年夏、東村山市内各地に盆踊りのにぎわいが戻った。新型コロナ蔓延による中止を乗り越えて4年ぶりの復活だ。秋津神社、久米川駅北口広場、諏訪神社…。折からの猛暑を吹き払うように鳴り響く笛、太鼓に合わせて住民らの踊りの輪が広がり、初めて東村山音頭を聴いたのか戸惑う子供の手を取って踊り方を教える大人の姿も。東村山「全国区化」の立役者で、無念にもコロナ禍に倒れた志村けんをしのんで踊った人もきっといただろう。
(中沢義則)

連載目次は>>次のページ  

 

【主な参考文献】
・志村けん『志村けん 160の言葉』(青志社)
・志村けん『「志村流』(三笠書房)
・東村山音頭(東村山市
・志村けん氏(東村山市

 

 

中沢 義則
(Visited 455 times, 1 visits today)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA