北多摩戦後クロニクル 第36回
1993年 東村山にハンセン病資料館完成(上)情報発信と啓発のナショナルセンター

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年9月12日

 東村山市青葉町にある国立ハンセン病資料館の前身、高松宮記念ハンセン病資料館が1993(平成5)年6月に完成した。不治の病とされ長年、国の隔離政策が続いたハンセン病は完治する病になり、強制的な隔離政策に終止符が打たれた。資料館は長く続いた偏見と差別や治療や療養、療養所生活の歴史を振り返るとともに、この病の正しい知識の普及と人権回復のための広報・啓発活動をはじめ、さまざまな事業を展開している。2007年4月に国立の施設としてリニューアルオープンした。国立療養所多磨全生園(ぜんしょうえん)の緑豊かな敷地内にあり、国立13カ所、私立1カ所ある全国のハンセン病療養所の情報を集約し発信するナショナルセンターの役割を果たすとともに、学びの場、住民との交流の場にもなっている。

 

国立ハンセン病資料館

国立ハンセン病資料館正面(東村山市青葉町)

 

療養所「全生園」114年、苦難の歴史

 

 まず全生園の歴史を紹介しよう。前身は1909(明治42)年9月、公立療養所第一区府県立全生病院として設立された。癩(らい)予防法による国の強制隔離政策に基づいて入所者たちは戦前、戦中、戦後をほぼ施設内で暮らして治療、療養してきた。1941(昭和16)年に全生病院は厚生省(当時)に移管され、国立療養所になった。幾多の経緯を経て96年に予防法は廃止、隔離政策も撤廃されたが、入所者や回復者の苦難は続き、名誉回復や国家賠償などの解決に向けた模索が続いたのだが、そのことはのちに触れる。

 府県立全生病院は1907年に政府が制定した「癩予防ニ関スル件」に基づいて設置された。法律の目的は感染の蔓延防止と根絶だが、住む場所がない患者のほか、家族と隠れて暮らす患者たちも強制的に収容した。

 第一区は東京府、神奈川、埼玉、千葉、茨城、栃木の関東5県に加え、新潟、長野、山梨、静岡、愛知の計11府県が対象。全生病院の全生は「ぜんせい」と読む。私は東村山に住んで60年近くになるが、全生園を最近まで「ぜんせいえん」だと思っていた。なぜ「ぜんしょうえん」と呼ばれるようになったのかはよく分からない。

 病院が東村山にできるまでには曲折があった。東京府は当初、目黒村(現目黒区)を候補地に選んだが住民の反発で断念。北多摩郡田無町(現西東京市)に計画したが、やはり抵抗が強くて建設できず、結局、北多摩郡東村山村に開設した。東村山でも反対待運動は激しく、反対住民が警察に検挙される事態になった。実刑判決を受けた被告も出たが、これを潮に反対運動は次第に終息していった。

 敷地面積3万坪強(約10万平方メートル)、建物数30、医師・職員47人、患者の定数は300人。周辺住民との軋轢(あつれき)は続いたものの、全生病院は近隣の雑木林や畑地を買収してだんだんと拡張していく。ハンセン病への差別や偏見は依然強かったが、全生園は確実に役割を果たし、ピークの1943年には1518人が入所していた。

 

開院当時の全生病院

開院当時の全生病院正面 1911(明治44)年(東村山ふるさと歴史館寄託市川家文書)

 

治療薬の開発で「治る病気」に

 

 ハンセン病はらい菌で発症する。感染力はきわめて弱いが、菌が増殖して病状が進む場合もある。細菌性疾患の治療薬は米国で開発が進み、ハンセン病に効果があるプロミンが実用化された。日本では戦後の1946年に東京大学で合成に成功して各地の療養所で臨床試験が始まった。効果が認められ、高価な薬だがプロミン接種が徐々に広がり、ハンセン病は「完治する病気」になった。退所して社会復帰する回復者が増え、基本的人権の尊重をうたった新憲法の施行もあって、患者や回復者の差別撤廃、人権擁護、補償などを求める気運が一層、活発になった。

 53年にらい予防法は改正されたが、患者団体の強い要望は実らず、隔離政策は継続となった。節目になったのは96年3月の「らい予防法の廃止に関する法律」の成立だ。31年にできたらい予防法はハンセン病患者の強制隔離政策などを通して、回復者も含めたハンセン病への差別や偏見を助長して人権侵害の温床だった。法律の廃止は一歩前進だが、国の責任は明記せず、患者・回復者への支援金が一律150万円と低額で、不満が高まった。

 それを受けて98年7月、回復者を中心とする原告団が国家賠償などを求めて熊本地裁に提訴、その後東京、岡山などでも提訴された。2001年5月には熊本地裁は「国の隔離政策は違憲」とする判決を出し、国は控訴を断念した。7月には東京地裁が国の謝罪と和解一時金の支払いを求める和解案を出して国と原告が受け入れ、各地の訴訟は一応決着した。
さらに小泉純一郎首相(当時)が談話で、判決の法律的な問題について争わないと控訴断念をあらためて表明、全面的に謝罪した。そのうえで訴訟に参加していない人たちも含めて患者、元患者全員に新たな立法措置で補償するとした。そのうえで名誉回復と福祉増進を進め、啓発事業の充実などを言明した。かなり踏み込んだ決断で、訴訟は区切りを迎えた。

 

ハンセン病資料館の機能強化進む

 

 高松宮記念ハンセン病資料館は財団法人が設立したが、資金不足もあって療養所内のさまざまな品物や図書、資料などを収蔵品として提供、療養所が運営にも参画した。展示は次第に拡充し、2001年の小泉談話などを受けて全面的にリニューアルを進め、国立施設になった。

 その資料館で23年8月13日に始まった「『らい予防法闘争』七○年―強制隔離を選択した国と社会―」(12月10日まで)を初日に見学した。さきに触れた1953年成立の改正らい予防法を巡って全国の療養所の入所者や患者・元患者の団体が繰り広げた強制隔離撤廃などを求めた闘争に焦点を当てた企画展だ。

 患者、厚生省、国会、報道機関の動きなどを多面的に紹介して、闘いの実相に数多くの資料やパネル展示で迫っている。闘争は激化して、国会や厚生省などで座り込み、デモ、ハンストを強行した。こうした熱い願いも及ばず、結局隔離政策は継続となった。偏見が色濃く残る社会の風を読んで、国や政府が決断を下した。患者団体の幹部も世論を意識して矛を収める形になった。その経緯を実証的に紹介している。

 闘争の終結から今年で70年になる。企画展を担当した資料館学芸員の田代学さんは「新たな感染症患者、障碍者、性的マイノリティーの人たちへの偏見や差別など、ハンセン病は特殊な事例ではなく今につながる問い掛けを含んでいる」と話す。

 

「『らい予防法闘争』七〇年」展

「『らい予防法闘争』七〇年」展のギャラリートーク(2023年8月13日)

 

 多磨全生園の入所者は2023年8月現在100人。高齢化が進み、退所者の中にも後遺症や合併症に悩む人がいる。医師や医療スタッフの数が減り、外部の医療機関への委託診療が中心になった。発症はまれになったがハンセン病は終わっていない。

 資料館の来館者は22年7月に50万人を超え、小中高校生の来館も多い。私は東村山市立第二中学に通い、野球部員だった。時折、全生園のグラウンドで練習や試合をした。浴衣や病衣の人たちが大勢見に来ていた。そのころ、暗い雑木林の中にあって少し怖かった。今は明るい散歩道ができて清々(すがすが)しい。多磨全生園入所者自治会と市が作ったパンフレット「多磨全生園 人権の森を歩く」は四季折々の木々や花々、入所者ゆかりの施設などを紹介していて素晴らしい。

 

多磨全生園

春の花が咲き乱れる多磨全生園(2023年3月)

「いのちとこころの人権の森宣言」碑

「いのちとこころの人権の森宣言」碑(多磨全生園)

(中沢義則)

*連載目次ページは⇒こちら  

【主な参考文献】
・「全生園の100年と東村山」(東村山ふるさと歴史館)
・「国立ハンセン病記念館20周年記念誌」(国立ハンセン病資料館)
・『資料集「らい予防法闘争」七〇年―強制隔離を選択した国と社会―』(国立ハンセン病資料館)

 

中沢 義則
(Visited 397 times, 1 visits today)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA