北多摩戦後クロニクル 第5回
1947年 清瀬に結核研究所付属療養所(下) 病と向き合い、交流する文学者の群像

投稿者: カテゴリー: 文化連載・特集・企画 オン 2023年1月31日

 戦前、戦後、そして未来に向けて「結核病院街」とも「結核の聖地」とも称される歴史を刻んできた清瀬市。そこで治療や療養をしていた人々は実にさまざまだ。境遇も職業も生い立ちも異なる老若男女が、かつては「不治の病」と言われた結核と向き合って懸命に生きてきた。治療もむなしく逝った人たちも数多い。この回ではあまたいる患者の中から清瀬での療養で自らの内面を耕して優れた作品を残した文学者の足跡を振り返りたい。それは結核の治療、闘病の歴史を彩るサイドストーリーでもある。

 

石田波郷

療養中の石田波郷(江東区砂町文化センター/石田波郷記念館所蔵)

 

不屈の俳人、石田波郷

 

 今生こんじょうは病む生なりき烏頭とりかぶと

 

 俳人の石田波郷は長い結核との闘いの中で句作を続けた不屈の人である。1948(昭和23)年5月、まだ村だった清瀬にあった当時の国立東京療養所に入院して胸郭成形術と樹脂球充填術という手術を受けた。

 肺の中の結核菌の増殖を抑えるため、肋骨を外し合成樹脂の球を埋め込んで肺の面積を狭める手術だった。成功して2年弱の療養を経て退院するが、再手術や呼吸困難などのために何度も入院して、69年、56歳で亡くなる。病に悩まされながらも旺盛に句作を続け、数多くの句集を世に送り出して俳人として名を成した。

 波郷は13(大正2)年に愛媛県に生まれ、正岡子規や高浜虚子を輩出した旧制松山中学のころから句作を始めた。やがて俳誌「馬酔木あしび」を主宰する水原秋櫻子に師事して上京、明治大に進む。召集されるが肋膜炎で戻され療養生活が始まる。45年1月のことだ。

 身長180センチの偉丈夫だが両親ともに結核を患っている。小康を得て句作に励んで俳誌「鶴」を創刊したものの、病状が悪化して住まいのある東京・江東区砂町から清瀬に来て入院する。南北2列に8棟ずつ木造平屋の病棟があり、波郷は南七寮六号室に入った。6人部屋だ。たまたま俳句愛好者が同室にいて、彼は病室で句会を開き、ほかの病室の人たちと回覧句会をした。病院内で俳句大会が催されたこともある。

 同室に若い患者がいた。結城昌治である。東京地方検察庁の職員で俳句とも文学とも無縁だったが、波郷の影響で俳句を始め、次第に文学に目覚めていく。時を経て作家として立ち、直木賞を受賞するのだが、結城の人生は後に書く。

 

句碑に「惜命の文字隠れなし」

 

 波郷は退院後も時折、療養所を訪ねて療養を続ける仲間たちを励まして交流し、入退院も繰り返した。57年には縁あって清瀬中学の校歌を作詞している。2013年、波郷の生誕100年を記念して清瀬市の中央公園に碑が建った。結核療養所の歴史を刻み、波郷の句が2句紹介してある。

 

 遠く病めば銀河は長し清瀬村
 七夕竹 惜命 しゃくみょうの文字隠れなし

 

 家族と離れての長い闘病生活はやはり孤独でつらかったに違いない。同室の人たちが寝静まった深夜、窓から眺める星空に何を思ったのか。「遠く病めば」の言葉に切なさが伝わってくる。同室だった結城は波郷から「命が惜しいからね」と聞かされたとエッセーに書いている。「惜命」の句も生への執着を切々と詠んでいて心に響く。

 

句碑

中央公園に建つ石田波郷の句碑

 

 さて、波郷の薫陶で文学に興味を抱いた結城昌治のことである。1927(昭和2)年に東京・品川で生まれた。不良少年であり軍国少年だったという。18歳で海軍特別幹部練習生になり、訓練を終えて入隊の際の身体検査で結核が見つかり、終戦の年の45年5月に帰還命令を受ける。初期の結核で体調に異変もなく、戦争が終わると彼は夜間学校や職業を転々とした後、東京地検の職員の口を得る。だが両方の肺を侵した結核菌は次第に増殖する。

 この時期は結核が蔓延していて病床が足りず、療養や入院ができない患者が大勢いて、自宅で静養するほか、学び、働く人たちも少なくなかった。結城は49年4月に国立東京療養所に入院。治療、療養して翌年の暮れに社会復帰して東京地検に戻り、やがて作家生活に入った。70年に軍規違反の疑いを受けて審判なしで死刑にされた陸軍兵士の無念さを克明に綴った「軍旗はためく下に」で直木賞を受賞する。

 

福永武彦、療養中に代表作完成

 

 今回執筆にあたって貴重な資料になったのが清瀬市役所の市史編さん室が編集している「きよせ結核療養文学ガイド ブンガくんと文学散歩」だ。清瀬の歴史、とりわけ日本有数の結核療養所群がある街の歴史を堀り下げている。

 文学散歩もその一環。療養所で暮らした文学者の群像を丁寧に分かりやすく紹介している。好奇心旺盛な少年ブンガくんと、清瀬にやたら詳しく先生口調の市の鳥オナガ(尾長)鳥との対話形式で進む。軽妙で中身が濃いから、中学生や高校生にも読みやすい。結核患者や療養所の様子もよく分かる。インターネットで読めるので検索していただきたい。

 波郷や結城と清瀬の結核病院で交友があった作家がもう1人いる。小説、翻訳、映画評論などで知られる福永武彦だ。18(大正7)年福岡に生まれ、父の転勤で東京に移る。旧制一高から東京帝大文学部仏文科に入学。卒業して文筆活動をしていたが、45年春に急性肋膜炎と診断され、東京や北海道帯広で療養するが、47年10月に波郷や結城と同じく国立東京療養所に入る。

 結核が猛威を振るっていた時期だ。戦中、戦後、栄養不足がひどく、戦地からの復員者にも結核患者が多くいて感染が広がった。福永は肋骨を切り取り肺を萎縮させる、そのころ主流の胸郭成形手術を受けたが、結核菌はなかなか退治できず、結局、53年3月まで足かけ7年間も療養する。

 福永は波郷たちと病室は違ったが、病棟は同じで波郷の病室を訪ねるなどして交流を深めた。療養中にも精力的に句作する波郷の気力に感動したという。波郷に刺激を受けて執筆に励み、彼も療養中に代表作になる長編小説「風土」を完成させている。入院前から構想を練っていた10年がかりの労作だ。

 福永は先輩作家の堀辰雄に師事していた。堀は小説「風立ちぬ」で知られる。サナトリウムを舞台に婚約者を結核で失う青年の介護の日々を描いた哀切な物語だ。福永は退院後に長い療養の日々を描いた「草の花」を書いている。ちなみに福永の長男は芥川賞作家の池澤夏樹である。

 福永は退院後に本格的な執筆活動に入るが、やはり退院して東京地検に勤めていた結城との交流は続いた。地検を辞めたがっていた結城に福永は「ミステリー作家かカメラマンになるのがいい」と勧めたという。ミステリー小説の翻訳や執筆をしていた福永は結城に内外のミステリーの蔵書をたくさん貸していたから、結城はその蘊蓄をもとに52年にユーモラスな本格推理小説『ひげのある男たち』を刊行、作家として立った。療養生活が縁を結んで人生行路が決まったのだ。

 

著作

福永武彦、吉行淳之介の結核に関連した小説、エッセーや文学解説書

 

病室で芥川賞受賞知った吉行淳之介

 

 波郷、結城、福永がいた国立東京療養所は国立病院機構東京病院になっている。近くに国立療養所清瀬病院があり、この2つの病院が62年に統合し、その後病棟建て替えや組織変更を経て現在の姿になった。その清瀬病院に入院していたのが作家の吉行淳之介だ。

 24(大正13)年に岡山で生まれる。父はダダイズム作家の吉行エイスケ、母は美容師のあぐり、女優の吉行和子は妹、その下の妹の理恵は芥川賞作家である。父の上京により2歳で東京へ。旧制静岡高校を卒業すると20歳で召集。だが気管支喘息で除隊になり、東京帝大文学部に進む。

 再び召集されたものの、出征を待たずに終戦を迎えた。東京帝大では文学仲間といくつかの同人誌に加わり、文学に傾倒するが、中退して編集者の仕事に就いた。51年に「原色の街」が芥川賞候補になり、本格的に小説家を志すが、左の肺に空洞が見つかった。

 それでも執筆を続けるが結核が悪化して千葉県佐原の療養所で静養、清瀬病院の院長だった遠縁の医師の勧めで53年11月に同病院に入院して翌54年1月に手術を受けた。菌に侵された肺の一部を切除する手術だった。結核外科手術が急速に進歩して、麻酔も手術後の感染症を予防する抗生物質も広がり、胸郭成形手術に代わって肺の切除が一般的になりつつあった。

 吉行が入った病室は大部屋で簡素な木製のベッドが12床ずつ2列に並んでいて満床だった。吉行は作家であることを隠していたが、54年2月号の「文学界」に載った「驟雨しゅうう」が同年7月に芥川賞を受賞して周囲の知るところになってしまう。

 芥川賞は当時、今ほどマスコミは騒がなかった。彼は受賞当日の様子を随筆に書いている。午後8時の消灯時間が過ぎた後、文藝春秋社から病院に受賞を知らせる電話が入った。看護師が懐中電灯を持って病室に来て「よく分かんないんだけど何とか賞とか言っていたわ」と伝えた。芥川賞の候補になっていたことは知っていたので、すぐに分かった。

 受賞してから、別の大部屋に入院中の青年が自作の詩を持って吉行を訪ねてきた。気乗り薄のまま一読した吉行は青年の才能を感じたという。その青年が後年、詩集「他人の空」などで高い評価を得る飯島耕一である。吉行の手術は成功したものの、持病の喘息の病状が思わしくなく、結局2年以上、療養を続けた。彼は小説「漂う部屋」で、死と隣り合わせの病室の人間模様を描いている。

 

東京病院

現在の東京病院

 

 最後にもう1人、清瀬病院で55年に手術を受けて病後を養った女性作家のことを書こう。73年に「れくいえむ」で芥川賞を受賞した郷静子だ。結核を患いながら勤労動員に励んだ軍国少女だった。退院後、結婚して母親になるが、文学への情熱を持ち続けて自らの戦争体験をもとにした、一種の反戦小説で療養の日々も綴っている。そのときの芥川賞の選考委員に吉行が名を連ねているのも奇縁といえるだろう。
(中沢義則)

 

【主な参考資料】
・清瀬市清瀬市企画部シティプロモーション課市史編さん室 きよせ結核療養文学ガイド ブンガくんと文学散歩(清瀬市
・石田修大『わが父 波郷』『波郷の肖像』(いずれも白水社)
・結城昌治『死もまた愉し』(講談社)

 

 

中沢 義則
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