1994年3月1日、田無市(現西東京市)の住宅地に「多摩六都科学館」がオープンした。「世界一」と認定されたプラネタリウムをはじめ、昆虫標本や動物のはく製、化石の実物展示、宇宙旅行の疑似体験ができる参加体験型展示などを通じて、子供から大人までが楽しみながら科学を学べる場として親しまれている。

 今回も東京を南北に走る2つの道について述べたい。2本立てになっていて、前半は国道16号線で1990年代、近過去が舞台。後半は鎌倉街道の続きで、『太平記』の世界を散歩する。

 東村山市にある国立療養所多磨全生園(全生病院)では入所者の趣味の活動が盛んで、中でも俳句や短歌、川柳をたしなむ人たちが多かった。創作は生きがいだった。作家では全生園を舞台にした小説「いのちの初夜」を書いた北條民雄が知られる。かつては社会から隔絶された閉鎖空間の所内で「生きる糧」として入所者たちの心の支えになった。今回は文学を中心に療養所の暮らしを書くことにする。

 東村山市青葉町にある国立ハンセン病資料館の前身、高松宮記念ハンセン病資料館が1993(平成5)年6月に完成した。不治の病とされ長年、国の隔離政策が続いたハンセン病は完治する病になり、強制的な隔離政策に終止符が打たれた。資料館は長く続いた偏見と差別や治療や療養、療養所生活の歴史を振り返るとともに、この病の正しい知識の普及と人権回復のための広報・啓発活動をはじめ、さまざまな事業を展開している。2007年4月に国立の施設としてリニューアルオープンした。国立療養所多磨全生園(ぜんしょうえん)の緑豊かな敷地内にあり、国立13カ所、私立1カ所ある全国のハンセン病療養所の情報を集約し発信するナショナルセンターの役割を果たすとともに、学びの場、住民との交流の場にもなっている。

 1992(平成4)年2月14日未明、清瀬市旭が丘、東村山署旭が丘派出所で1人勤務中だった大越晴美巡査長=当時(42)、殉職で警部補に特進=が何者かに刃物で襲われて殺害され、実弾入りの拳銃が奪われた。その後の懸命な捜査にも関わらず事件は未解決のまま2007年時効となった。郊外の静かな団地で起きた惨劇に社会的不安が高まり、派出所勤務の危険性や銃器管理の在り方もあらためて論議を呼んだ。

◎「戦争は絶対悪」を前提とした恒久平和のための政策

 師岡武男(評論家)

 日本経済は今、貧困と格差の生活危機が続いているが、岸田政権の下でさらに平和への危機も付け加わっている。非武装、不戦の憲法に反する軍事大国化と他国との軍事同盟の強化が急速に進められているのだ。この動きは安倍政権以来のものだが、その後のロシア・ウクライナ戦争をきっかけに、欧米諸国のロシア・中国・朝鮮への封じ込め政策が強められ、日本もそれに積極的に参加している。自民公明政権は、これを機に軍事大国化と憲法改定を一気に進めようとしているのだ。

 1987(昭和62)年6月6日深夜、東村山市青葉町の特別養護老人ホーム「松寿園」から出火、3階建ての施設に収容されていたお年寄り74人のうち17人が死亡、25人が負傷した。老人ホームの火災としては戦後2番目に多くの犠牲者を出す惨事だった。老人福祉施設の安全管理に大きな教訓となるとともに、医療を含めた福祉の在り方に論議を呼ぶきっかけとなった。

 東京には環状になった交通路がたくさんある。たとえば環状8号線。しばしば渋滞している印象があり、あまりいいイメージはないが、これはどこまで続いているのか? と考えてみると、ちょっと謎めいてこないだろうか。前回の「武蔵野線」「16号線」に続いて、都心から武蔵野地域にかけて南北に縦断する交通路について考えてみたい。

 1986(昭和61)年3月23日午後零時10分ごろ、田無市(現西東京市)本町の西武新宿線田無駅1番ホームで、停車中の上り準急電車に急行電車が追突し、乗客計204人が重軽傷を負った。

 1984年10月、日本を代表する木彫作家の1人、平櫛田中(ひらぐし・でんちゅう)の美術館が小平市にオープンした。小平市学園西町は田中が最晩年に暮らした地。玉川上水のほとり、静かな住宅地に建つ住居兼アトリエをそのままに小平市平櫛田中館として開館、94年に展示館を新設し、2006年4月、小平市平櫛田中彫刻美術館と改称して現在に至っている。こぢんまりとした空間に木彫、ブロンズ作品や書、ゆかりの品々を収め、北多摩地域には珍しい市立美術館だ。

 敗戦前後から北多摩の歩みをたどってきた連載企画「北多摩戦後クロニクル」は前回で1980年代に入った。当時、この地域はどんな表情を見せていたのか。写真家の飯島幸永さんは長く武蔵野に暮らしながら「風土と人間」をテーマに作品を撮り続けてきた。今回は「写真特集」として、1981(昭和56)年を中心に武蔵野の四季と人々の営みを捉えた飯島さんの写真とエッセーをお届けする。(編集部)

 1981(昭和56)年11月、清瀬市で東京都下水道局の下水道処理施設「清瀬水再生センター」が運転開始した。清瀬、西東京、東久留米、小平、東村山、東大和、武蔵村山、小金井、武蔵野9市にまたがる地域の下水を集めて浄化し、荒川水系の柳瀬川に放流する。遅れていた北多摩地域の流域下水道事業はこれにより近代化が完成し、その後世界初といわれる下水汚泥ガス化炉施設も稼働した。施設上部はスポーツセンターとして市民の交流の場にもなっており、95年開館の「小平市ふれあい下水道館」とともに地元にさまざまなサービスを提供している。

 2カ月も休んでいたのに、またも横田基地の写真からのスタート。まずはPFAS(有機フッ素化合物の総称)汚染問題の続きを述べたいので、お付き合いいただきたい。

 西武鉄道グループが、低迷していた福岡のクラウンライターライオンズを買収、「西武ライオンズ」(現埼玉西武ライオンズ)とし、本拠地も埼玉県所沢市に移すことを発表したのが1978年10月のこと。そして翌79年4月14日、新球団の新たなホームグラウンド「西武球場」(現ベルーナドーム)のこけら落としゲームが開催された。これは日本のプロ野球にとって大きな意味をもつ出来事だった。同時に、西武線沿線にプロ野球のチームがやってきたことは、その住民にとって野球にとどまらない文化的意味があったといえる。それから40数年、西武ライオンズをめぐるあれこれの事象を記してみた。

 1977(昭和52)年4月、清瀬市にある気象通信所が廃止され、新たに静止気象衛星運用を目的とした気象衛星センターが発足した。現在の職員数は84人。さまざまな技術革新を経て精密な気象観測、予報になくてはならない中心施設となっている一方、地元との結びつきも強まっている。