1954(昭和29)年、都立小金井公園が開園した。小金井市を中心に一部が小平市、西東京市、武蔵野市にまたがる面積約80ヘクタール(日比谷公園の4.8倍)に及ぶ都内最大の都立公園だ。公園の北側にはゴルフ場「小金井カントリー倶楽部」が広がり、南には東西2キロ近くにわたって玉川上水が流れる。園内は広々とした草地を雑木林が取り囲み、各種スポーツ施設やレクリエーション施設が設けられ、長く市民の憩いの場となっている。だがその歴史には先の大戦の跡が深く刻まれている。

 春である。例年より2週間くらい前倒しで花が咲き始めた感じがある。人間社会で凄惨な殺し合い=戦争が繰り広げられようと、季節はめぐり、花は咲く。こういう自然詠ははるか昔からあるが、これは日本独特のものだろうか。今回は、前回に続いて「米軍基地」から始まり、図らずも戦後「日本」の立ち位置を考えることになった。

 薄曇りの「春分の日」、小金井公園北側の小平口にある「ふたつ池」にシラサギがたたずんでいるのを見つけた。水底が見える浅く澄んだ池に凛とした姿で立つ水鳥に、3羽のカルガモが水紋を描きながら近づいて旋回する。シラサギは気に留めない。

 1953(昭和28)年6月18日、米軍の輸送機C124グローブマスターが小平町(現小平市)小川のスイカや麦を栽培していた農地に墜落、炎上し、乗っていた乗員と米兵計129人全員が死亡した。当時としては史上最悪の航空機事故となった。米空軍立川基地(現自衛隊立川飛行場)を午後4時31分に離陸した直後で、墜落現場は基地の北東数キロの地点だった。朝鮮戦争に従軍し、休暇中の日本から前線に戻る途中の陸軍と空軍の兵士が多く含まれていた。左側エンジンの故障が原因とされた。(写真は、上空から見た米軍輸送機の墜落現場。小平市立図書館所蔵)

 北多摩の住民でも、東村山市に東京都内で唯一の国宝建造物があるのを知る人は少ないのではないか。西武新宿線東村山駅の西口から歩いて10分余り。家並みを抜けると正福寺が現れる。禅宗の古刹で臨済宗建長寺派の寺だ。境内に建つ地蔵堂は戦前から国宝だったが、戦後1952年に文化財保護法の国宝に再指定された。今も地元の誇りとして手厚く保護されるとともに、親しまれ、地域の絆としての役割を果たしている。

 生涯に800体以上のロボットを作り「ロボット博士」と呼ばれた相澤次郎さん(1903〜1996年)が1952(昭和27)年、保谷町(現西東京市)に財団法人日本児童文化研究所を設立した。研究所から生み出された四角顔に丸い目の“相澤ロボット”は、1970年の大阪万博をはじめ科学展やイベントで人気を集め、草創期のロボットのイメージを決定づけるとともに昭和の子どもたちに未来への夢を与えた。

 このところ、「経済安全保障」が話題である。2022年5月には、「経済安全保障推進法」が公布された。経済安全保障というのは、経済的手段によって安全保障を実現することで、具体的には、国民の生活にとって重要な製品を十分確保できる状況にすること、先端技術を海外に流出させないこと、他国の技術に頼りすぎないことなどを指す。

 1950(昭和25)年、現在の「西武園ゆうえんち」の前身「東村山文化園」がオープンした。西武鉄道による観光、娯楽の一大拠点として、その後の時代の変化の波にもまれつつ進化を続けている。

 東久留米団地は旧日本海軍の広大な通信基地跡に造られたことを前回書いた。そしてその通信基地の痕跡は、現在も新座市大和田の在日米軍基地として残っていることは、連載5「フェンスの向こうのアメリカ 北多摩編」で書いている。武蔵野地区には少なからぬ米軍の施設や基地があったし、いまもある。このことについて再び考えてみたい。

 1949(昭和24)年、田無町(現西東京市)で盆踊りに伴う仮装大会が始まった。意匠を凝らした大掛かりな山車(だし)とさまざまなキャラクターに扮した住民が青梅街道をねり歩くイベントは「関東一の仮装大会」として新聞、ラジオ、テレビで大きく報じられた。大会は年を追って盛大になり、毎年、関東一円から見物客が押し寄せる真夏の風物詩になった。

 1948(昭和23)年5月、東京都立小平霊園が開園した。小平霊園は8つの都立霊園(青山、雑司ケ谷、谷中、染井、多磨、八柱、小平、八王子)のうち7番目、戦後初めてできた比較的新しい墓所だった。宗旨宗派を問わず、さまざまな形態のお墓がそろった公園型の霊園である。

100winds_banner01 第32回

師岡武男 (評論家)
 

 岸田首相が、就任1年後の22年10月、国会での所信表明で「構造的な賃上げ」を重点政策として訴えた。立派な政策公約だが、その実現には今どうすればよいか、を考えてみよう。

 1948(昭和23)年3月、学制改革に伴って北多摩郡小平村(現小平市)に女子大学「津田塾大学」が設立され、英文学科に49人が入学した。翌年には数学科が増設され、2学科からなる学芸学部となった。以後、津田塾大学は「私立女子大の最高峰」として英文学や国際関係学の分野をはじめ各界で活躍する卒業生を多数輩出し、女性の地位向上と社会進出に大きく貢献する。

 節分の日の2月3日、この日にちなんでセツブンソウ(節分草)を見ようと、自宅近くの野草園に出かけた。野草園は、西武池袋線保谷駅北口から歩いて約5分、西東京市の下保谷四丁目特別緑地保全地区(旧高橋家屋敷林)の中にある。

 戦前、戦後、そして未来に向けて「結核病院街」とも「結核の聖地」とも称される歴史を刻んできた清瀬市。そこで治療や療養をしていた人々は実にさまざまだ。境遇も職業も生い立ちも異なる老若男女が、かつては「不治の病」と言われた結核と向き合って懸命に生きてきた。治療もむなしく逝った人たちも数多い。この回ではあまたいる患者の中から清瀬での療養で自らの内面を耕して優れた作品を残した文学者の足跡を振り返りたい。それは結核の治療、闘病の歴史を彩るサイドストーリーでもある。