1962(昭和37)年12月、「東久留米団地」(2280戸、現在「グリーンヒルズ東久留米」)の入居が始まった。50年代末から西武線沿線には次々に団地が建設されていた。当時の久留米町にとっては、59年に入居を開始した「ひばりが丘団地」に続いて2番目となる日本住宅公団(現都市再生機構)による団地の建設となった。この建設地には、戦前から戦後にわたる日米の軍事施設をめぐる歴史が刻まれていることはあまり知られていない。
わが家のグミの木が今年もたわわに実をつけた。5年前に鉢植えを買って庭の片隅に植えていたのが、2階の屋根の高さまで育った。
1962(昭和37)年、保谷町(現西東京市)にあった「民族学博物館」が閉館した。生活の中に息づく民具の紹介と研究を夢見た学者たちが私財を投じて1939(昭和14)年に開館。野外で民家などを展示する日本初の博物館だった。時を経て地元でもほとんど忘れ去られつつあったが、近年、その業績と軌跡を記録し、後世に伝える市民活動が展開している。
1950年代後半から60年代前半にかけて文部省が強行した教員の「勤務評定制度」(勤評)と「全国中学校一斉学力調査」(学テ)は「教育行政の中央集権化」として全国で激しい反対運動が巻き起こった。戦後早くに革新町長を生んだ保谷町(現西東京市)は激しい抵抗の末に勤評を見送り、1962(昭和37)年には学テを実施しない全国唯一の町となり注目を集めた。隣の田無町(現西東京市)でも同年、町政史上初の革新町長が誕生した。60年代後半から全国で革新自治体が相次ぎ誕生するブームに先駆けた町政の転換だった。以後両町では長く革新町政・市政が続き、立ち遅れたインフラ整備を進めていった。
わが家のニッコウキスゲが咲き始めた。開花したのは5月15日。春が暖かかったせいか例年より10日以上も早い。
1962(昭和37)年、東村山町(現東村山市)に廃棄物処理施設「秋水園」が完成した。急速な人口増加に伴うごみ、し尿などの収集、処理という大問題に対する先進的取り組みだったが、その後も社会情勢の変化に従ってさまざまな対応と改良を迫られた。“迷惑施設”とのイメージを克服し、環境保護最前線の役割を担う縁の下の力持ちのチャレンジが続いている。
1962(昭和37)年、保谷町(現西東京市)のひばりが丘団地に小さな食料品店「ことぶき食品」がオープンした。地域に根ざした乾物店は、やがて郊外型のファミリーレストランを興し、時代の波に乗って世界的な巨大外食チェーンに発展する。その名前は発祥地のひばりが丘団地にちなんで「すかいらーく」(ひばりの英語名)と名付けられた。
下宿コミュニティセンター(以下コミセン)では、3月12日(日)に、西東京レスキューバードさんの助けを得て、防災まち歩きを実施した。主催者として私も参加したので、今回は、その感想をまとめた。
1950年代半ばからの高度経済成長期、財政難に苦しむ自治体は自己財源の確保のため積極的に工場誘致に乗り出した。小平町(現小平市)の「ブリヂストンタイヤ東京工場」建設は、それを象徴する事例だった。小平町は元陸軍兵器補給廠跡を中心とする農地への工場誘致を図り、ブリヂストンは最大のマーケットである東京に国内2番目となる新工場の建設を模索していた。用地の買収交渉は難航したが、1960(昭和35)年、小川東町の57万3525平方メートル(東京ドーム12個分)に建設した工場で操業が始まり、62年には研究開発の拠点となる技術センターが完成した。
PFAS(ピーファス 有機フッ素化合物)をご存じだろうか。最近、新聞などで見かけることが多くなってきた。さる4月7日の東京新聞1面では、「PFASを追う」というシリーズのロゴとともに「多摩地域 273人血液検査 国分寺・立川で濃度高く」という文字が目につく。
1960(昭和35)年9月6日、当時の皇太子夫妻が「ひばりが丘団地」を視察に訪れた。これはこの地域にとっても、日本の戦後史においても象徴的な出来事だった。「ひばりが丘」の名を知らない人にこの地を説明するとき、「いまの上皇が皇太子時代、美智子さんと訪問した団地があったでしょ、その団地があるところです」と言うと、ある年齢以上の人なら、だいたい「ああ、あそこ」ということになる。それくらいのインパクトがあったということだ。
「去年より大きくなってる!」。一緒に見に行った友人たちがそろって同じ印象を口にした。背丈が伸びたばかりか、枝も大きく広がっている。
都立小金井公園のフジが満開を迎えた。今年は例年になく花の開花が早く、フジも4月初旬から咲き始めていた。公園西側、たてもの園広場と宿根草園の間に建つ藤棚へと急いだ。間に合った!
西東京市に本社を置く大手企業として知られるシチズン時計(佐藤敏彦社長)。本社移転は2001年だが、工場ができたのは1936(昭和11)年で、地域とともに80年以上の歴史を誇る老舗だ。その歩みを伝えるシチズンミュージアム館長の高橋隆行さん(59)と、同ミュージアムの崎田英一さん(63)に話を聞いた。
1958(昭和33)年9月に神奈川県から上陸した台風22号は東京周辺で気象庁の観測始まって以来の豪雨を記録し、静岡県伊豆地方と関東地方に甚大な被害をもたらした。伊豆半島の狩野川流域の水害が甚大だったため「狩野川台風」と名付けられたこの台風は、小平を水源にして田無を貫通する石神井川流域にも豪雨をもたらした。水が乏しい武蔵野台地における水害は以後増え続け、“暴れ川”は流域住民を苦しめるようになる。