第2回 震災で失ったなにか

 


 徳丸 由利子(ままペンシル)


 

 震災当日、私は住宅街を歩いていました。お腹の中には6月末に生まれてくる予定の初めての子がいました。きしきしという家鳴りを聞き、電線が激しく揺れているのをみて、地震に気づきました。急いで落下物の無さそうな場所にしゃがみこみ「大丈夫だよ、お母さんがいるからね」と、お腹に話しかけ続けました。

 揺れがおさまってからまずしたことは、夫への安否連絡でした。通信が混乱する前に連絡したかったのです。携帯電話から送ったメールにすぐに返事がきて、一安心しました。さらに遠方の義父母、都心に住む両親、茨城に住む祖母へ公衆電話から連絡を入れて帰宅し、テレビをつけてから、津波を知りました。

 私が生まれ、祖母たちが住む街の隣、茨城県の大洗港が、4mの津波に襲われていました。波に押し流される車の群れが、空車であることをひたすら祈りました。それでも車の中に人の顔が無いかと探しそうになり、慌てて目をそむけたりしました。

 室内を見渡せば、特に地震対策をしていなかった棚からは、物が落ちていました。引き出しも飛び出していました。しかし、床との間に地震対策グッズをかませていた棚や、揺れ防止ジェルを貼ってあったテレビ等には全く被害が無く、「本当に効くのか」半信半疑だったグッズの威力に感心しました。

 やがて、不安が街を覆っているような、どんよりとした春がやってきました。さまざまなことが自粛され、中止になり、おめでたいことも祝えないような空気がありました。

 幼稚園の卒園式を控えていたお母さんは、先生方への謝恩会が中止になり、手配した料理などのキャンセル対応におわれました。その後、子どもやお母さんたちを自宅に呼んで、自宅幼稚園にしていたそうです。

 親族が岩手と福島にいる人は、パソコンに「みんな無事です」と伝言が入ったとき、信じられなかったそうです。その後は、東京にいて何ができるか悩み、もどかしさを感じる日々だったといいます。妊娠中で、さらに上にお子さんもいたので、身動きが取れなかったことも大きな要因でした。

 多くの外国人の知人が、いったん帰国を決めたものの、飛行機が取れずに困っていました。羽田からの便は取れないからと、愛知県の中部国際空港セントレアまで移動した人もいました。せっかく受かった学校を諦めて帰国した子どももいました。

 計画停電が始まったと思えば、公表された計画とは違う場所が停電したり、電車が止まったり。スーパーの開店時間も変更され、店内照明が暗くなり、街を歩くだけでめいってしまうような状態でした。ガソリン不足で、はなバスの運行にも影響がでました。

 

田無タワー

天気予報ライトアップ自粛の田無タワー(2011年3月13日)

 

 特に「どこが停電するか」については、いろいろな憶測が飛び交い、政治的な圧力などまでが噂されました。同じ市内なのに、複数回停電した場所と一度もしなかった場所とがあったので、不公平感から、嫌な空気が漂っていたと思います。

 私は、茨城県の情報が映像としてはなかなか入ってこないことに、イライラしていました。茨城県には民放局が無いので、民放のテレビカメラマンがいないのでしょう、他の被災県と比べて映像情報はほとんどありませんでした。早いうちに茨城に住む親族が皆無事であることなどはわかっていましたが、それでも私は、自分の目で故郷の様子を知りたかったのです。

 さらに、報道される「買い占めはやめよう」という言葉に、それは違う、と、嫌な気持ちになってもいました。確かに震災翌日のスーパーには、見たこともないほどの人が押し寄せていましたし、品薄にもなりました。けれどこれは「皆が一気に買いだめしてしまった」ということではないかと。買いだめは、通常なら普通に行なうことですから「買い占めなんてひどいことを自分はしていないよ」と思うからこそ、品薄が止まらないのだと思いました。

 だから私は、ブログで「買いだめしたけれど、買いすぎたと気づいたものがありませんか、それを被災地に送りましょう」と呼びかけました。さらに、どんな物資をどこで集めているかを調べまくり、被災地の人からの物資要請を見つけては紹介しました。役に立ちそうなものを見つけたときは、協力団体へ送ったりもしました。

 それが、どの程度の力になったかはわかりません。けれど、被災地に行ってボランティアできない妊婦としては、これが精一杯の協力なのだと、自分に言い聞かせていました。

 当時は、皆が「自分にできることはなんだろう」と考え、無力感に打ちのめされたり、報道されることに心を痛めたり、報道されないことに怒りを覚えたり、そうしてすごしていたと思います。

 

メジロと桜

メジロと桜を見て、春は変わらず来るのだと思いました(2011年3月19日 市内南町)

 

 私は無事出産し、あれから4度目の春がきます。原発事故が無かったら今日までの日々は、どれだけ違うものになっていただろう、と思います。

 今でも、震災の報道にふれると、涙が出ます。どんな小さなニュースであっても、気づけば涙がこぼれています。私の故郷は、壊滅しませんでした。故郷を走る小さな電車・湊線の完全復旧も、134日間で成し遂げました。友人も知人も親族にも、被害はありませんでした。それでも、私の心は「震災で失ったなにか」を忘れず、それが涙を流させ続けるのだと思います。
(写真はすべて筆者提供。禁無断転載)

 

【パソコンとインターネットは、震災以前よりも必要なものになりました。】

パソコンとインターネットは、震災以前よりも必要になりました

【筆者略歴】
徳丸由利子(とくまる・ゆりこ)
 茨城県勝田市(現・ひたちなか市)に生まれる。西東京市に住んで10年近く。息子の誕生をきっかけに、子どもがいるからこそ気づくことを活かそうと、母親によるライターチーム「ままペンシル」に参加している。

 

 

 

 

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