「大きな政府」という言葉について

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2020年10月25日

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第22回

師岡武男 (評論家)
 
 

 日本の生活・生産を再建するために「大きな政府」が必要だと提唱する小論を書いたが、「大きな政府」という言葉はあまり聞き慣れないものかも知れないと思うので、付言しておきたい。

 

 「小さな政府」は新自由主義の緊縮財政とかケチケチ財政を批判する言葉としてよく使われるのだが、その逆の代案としての「大きな政府」という言葉は、ほとんど使われないようだ。なぜだろうか。

 

 小論でも「大きな政府という言葉にはいろいろな意味があるが」とことわったのは、大きなカネを動かす以外の意味もあるからだ。

 

 そもそも政府というものは、国家の中で最大・最強の事業体として「財・サービス」というモノを生産・供給したり購買したりしているが、民間の事業体と大きく違うのは、公共サービスとしての国家権力行使だ。従って、大きな政府とは、大きな権力をも意味することになるだろう。

 

 本来は、国家権力は主権者の国民が、国民のために行使するのが民主主義だが、現実の政府は必ずしも国民の代理にはなっていない。民主主義が徹底していない限り、大きな政府はごめんだ、という心配があって当然だ。そのため、一口に「大きな政府が必要」とは言いにくいことにもなるだろう。

 

 しかしそうではあっても、今の時代は、国民生活の安全・安心確保のために、単に大きな財政支出だけでなく、大きな政府が必要になっていると言わなければならないと思う。なぜなら、自由放任の市場経済のグローバリズムでは、国民の生活も生産活動も成り立たなくなり、政府の介入が必要になったからだ。

 

 電子技術を中心とする科学技術の飛躍的な発達は、モノの生産能力を劇的に拡大する半面で、失業や貧富の格差拡大、地球環境の破壊などの深刻な弊害を生みだしている。対策として、政府が大きなカネを動かすことが基本だが、そのためにも政府の権力行使が必要になっている。

 

 大きな政府論が世間に出にくい理由として、さらに大きいのは、政策を裏付ける理論が乏しいためだと思われる。その中心になるのが財源対策と経済成長対策の乏しさである。それでは、大きな政府論は打ち出せないだろう。

 

 社会保障改革問題で、そのことがはっきりする。日本の社会保障政策はかねてから「中福祉中負担」主義とされているが、高福祉に転換すべきだというのが国民多数の要望だろう。左派系の政党・政治家は当然そうなる。だがそれらの政策も、高福祉とは言うが高負担とは言わない。応能負担による増税論の提唱はあるが、国民負担率拡大などによる財政規模の拡大を言うことはない。しかし、本気で高福祉を目指すなら、大きな政府論なしには、実現できないだろう。

 

 なお、保守系の政党の改革論は、元々「低福祉」政策への転換志向なので、大きな政府論にはなりえない。

 

 では、高福祉あるいは安全・安心のための財源論は創れないのか。そんなことはない。当面は国債発行中心の大きな政府により、先進諸国並みに財政規模を拡大(GDP対比)すること、および経済成長率を高めて生産能力を強めることである。

 

 社会保障対策で何より肝心なことは、現在も将来も、給付その他の所得再配分には、財物の供給源は基本的にそれぞれの世代の生産物以外にないということだ。過去の生産物も将来の生産物も今の役には立たないのだ。大きな政府による国民経済の成長と生産力の維持発展が必要なのは、そのためである。大きな生産能力があれば、老人や弱者の生活を十分に保障することなど、簡単な話ではないか。

 

 現在、日本の各政党の経済政策は、コロナ対策でも見られるように、自由放任の資本主義を多かれ少なかれ修正する方向にある。それには、大きな政府を目指すしかないだろう。政策競争は、いわば修正競争である。堂々と「大きな政府」を看板に掲げて、経世済民の政策を争う政党の出現を望みたいと思う。

 

 

【筆者略歴】
師岡武男(もろおか・たけお)
 1926年、千葉県生まれ。評論家。東大法学部卒。共同通信社入社後、社会部、経済部を経て編集委員、論説委員を歴任。元新聞労連書記長。主な著書に『証言構成戦後労働運動史』(共著)などがある。

 

 

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