北多摩戦後クロニクル 第44回
2007年 石川島播磨重工業の田無工場が閉鎖 航空ジェットエンジン発展の拠点

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年11月7日

 2007(平成19)年10月、旧石川島播磨重工業(現IHI、本社・東京都江東区豊洲)は西東京市向台町の田無工場を閉鎖した。戦後50年間にわたり戦闘機や民間機などの航空ジェットエンジンの開発・製造を担う一大拠点だった。東京ドーム2個分ほどの広大な工場跡地には大規模な商業施設やマンション、病院などが建設され、市民生活の場として活用されている。

 

石川島播磨重工業

IHI田無工場跡地に建つ「ジェットエンジンふる里」記念碑

 

社運を賭けた事業

 

 石川島播磨重工業はもともと1853(嘉永5)年、ペリー来航による欧米列強に対抗するよう幕命を受けた水戸藩主が隅田川河口に設立した日本初の洋式造船所「石川島造船所」を始まりとする。戦前から航空エンジンの部品を製造し、1945(昭和20)年、「石川島重工業」(以下、石川島)と改称して、海軍が開発した戦闘機「橘花(きっか)」に搭載した日本初のジェットエンジン「ネ20」の生産に携わった。

 戦後、禁止されていた航空機関連事業が52年に解禁されると、石川島など4社(後に5社)で「日本ジェットエンジン」を設立し、国産ジェットエンジンの研究・開発に着手する。朝鮮戦争の勃発で特需に沸く日本でも防衛力強化が叫ばれていたさなかだった。

 この時の石川島の社長がガスタービン技術者の土光敏夫氏だ。石川島以外の4社は莫大なコストがかかる事業から結局手を引くが、土光氏は57年、軍用機メーカー「中島飛行機」の下請け会社があった土地(現西東京市向台町3丁目など)に田無工場を建設し、航空エンジン事業への本格参入に乗り出した。当時、田無に重工業関連工場が多数設立された背景には、中島飛行機をはじめ戦前から戦中に進出した軍需工場の広大な敷地と建物の存在があった。

 

石川島播磨重工業

開設当時の田無工場(『石川島重工業株式会社108年史』より)

 

 航空事業の禁止で日本の航空エンジン開発は欧米に大きく立ち遅れていた。「ジェットエンジン生産なんて日本にできるわけがない」。工場開設を当時の経済誌は「土光の愚挙」と書き立てた。

 その際、社員を集めた総会で壇上に立った土光氏は「この事業に石川島の社運を賭ける」と拳で机を叩いて訴え、その拳が血に染まったという逸話が残っている。土光氏といえば後年、経団連会長や第2次臨時行政調査会会長として行政改革に辣腕を振るったイメージが強いが、日本にジェットエンジン技術を根付かせた立役者でもあったのだ。

 田無工場の初代工場長に就いたのは、ネ20の開発を手掛けた永野治氏。新日本製鐵を創業するなど「戦後財界のドン」と呼ばれた永野重雄氏の弟である。永野氏は戦闘機用の「J47」エンジン部品の国産化や初の国産実用ジェットエンジン「J3」の量産といったプロジェクトを指揮し、戦後の航空機エンジン発展の礎を築いた。

 

石川島播磨重工業

J3ジェットエンジン(国立科学博物館所蔵)

 

国際共同開発に参加

 

 石川島重工業は60年、播磨造船所と合併して「石川島播磨重工業」に改称した。数十人でスタートした田無工場の従業員は3年で800人近くに膨れ上がっていた。

 エンジンの製造には切削、加工、溶接などに高度な技能が求められ、自動車でいえばF1マシンの製造にも比せられる。国内トップの技能を誇った田無工場では、場内に「匠道場」という一室を設けたり、新人と熟練工がペアを組む競技会を企画したりして技術を練磨していった。

 工場は生産エンジン機種の増加に伴って拡張したが、一方で工場周辺には人口急増によって住宅が建ち並ぶようになった。エンジン運転場が完成すると、低周波騒音(振動)が発生して周辺民家から窓ガラスが震えるなどの苦情が相次ぎ、近隣住民の抗議デモにまで発展した。洗浄剤として使用する有機溶剤による土壌汚染が近隣住民との間で問題になったこともあった。

 重工業工場の進出は地元に多額の税収をもたらす一方で、こうした公害問題を生み出した。石川島は田無工場が手狭になったこともあり、米軍横田基地に隣接する西多摩郡瑞穂町に瑞穂工場を建設し、運転場や組み立て部門を移設していった。

 1970〜80年代に田無工場でジェットエンジンの特殊検査に従事していた前小平市議の橋本久雄さんは「職場には活気があったが、戦闘機エンジンを造っていたので自衛隊の幹部が出向して工場内を見回って厳しく点検していた。『軍需産業反対』を叫ぶ新左翼のデモもよく繰り出していた」と当時を振り返る。

 石川島は軽量・超高速の航空機に要する最新鋭エンジンは外国の技術を習得して生産すると同時に、品質管理やチタン、ニッケルなどの素材開発・加工法などで多くの新技術を独自に開発し、エンジンの軽量化や高性能化を達成した。

 日本の技術は国際的に認められるようになり、英国ロールス・ロイス社からの呼びかけによる民間航空機用エンジンの共同開発を経て、83年には新しい民間エンジンの5カ国共同開発が始まる。このエンジンはエアバス社の旅客機に搭載され、これを機に石川島は民間エンジンの舞台に羽ばたくことになった。

 ちなみに宇宙飛行士の野口聡一さんは90年代に航空宇宙事業本部に所属し、田無工場や瑞穂工場でジェットエンジンの設計や性能試験業務を担当していた。

 

相次ぐ大規模工場の閉鎖

 

 90 年代までは防衛産業向けエンジンの生産量が右肩上がりに増えたが、それ以降は民間エンジン需要が拡大し、従来の熟練工に頼る多品種少量生産体制から、より合理的な少品種多量生産体制への変革が求められるようになった。

 その結果、田無工場は2007年に閉鎖し、エンジンの中小型部品などの製造機能を福島県相馬市の相馬工場に移転・集約し、石川島播磨重工業はIHIに改称した。

 90年代半ばから急激な円高による産業の空洞化が進み、周辺でも大手企業の大規模工場の撤退・縮小が相次いだ。94年から東鳩(現東ハト)の保谷工場と田無工場が相次ぎ閉鎖し、2002年には三共(現第一三共)の田無工場が撤退。04年には住友重機械工業・田無製造所が一部閉鎖した。跡地の多くは住宅や商業施設となった。

 IHI田無工場の跡地9万3700平方メートルには、サミットストア、コジマ×ビックカメラ西東京店、キヤノン系データセンター、大型分譲マンションが次々と建った。2015年には武蔵野徳洲会病院が開設して地域に開かれたイベントを開催するなど地域住民が行き交うゾーンに生まれ変わった。

 

石川島播磨重工業

工場跡地に建つデータセンター(左)やスーパー、大型マンション

 

 田無近辺地方史研究会の滝島俊さんは「隣町の武蔵野町(現武蔵野市)への中島飛行機の工場進出(1938年)がこの地域の一大転機だった」と話す。「戦争により軍需産業の町として発展し、戦後はベッドタウン化して工場と住宅が併存するようになった。やがて工場が移転していった跡地はスーパーや公園となり、派手さはないが暮らしやすい街になったと思う。地域が経験したこうした劇的な転換の痕跡は今やほとんど失われつつある。私たちの未来を考えるためにも過去の記録・記憶はしっかり残していきたい」

 

石川島播磨重工業

IHI田無工場の歴史を記した銘板(西東京市新町・おおぞら公園)

 

 狭山・境緑道(多摩湖自転車歩行者道)沿いの跡地に整備された「おおぞら公園」には、IHI有志によってエンジンのブレード(羽根)をかたどった「ジェットエンジンのふる里」記念碑が建てられた。記念碑の周りを田無工場開設当初から事務所に使われていた赤レンガで囲い、そこにはめ込まれた銘板20枚には田無工場とジェットエンジンの歴史が詳しく記されている。
(片岡義博)

*連載目次は>>次のページ  

 

【主な参考資料】
・『石川島重工業株式会社108年史』
・『石川播磨重工業社史 沿革・資料編』
・空本史編纂プロジェクト編『IHI航空宇宙30年の歩み』(石川播磨重工業株式会社航空宇宙事業本部)
・前尾孝則著『ジェットエンジンに取り憑かれた男』(講談社文庫)
・川崎俊章「石川播磨重工業における航空宇宙技術」(「多摩のあゆみ」109)
・『田無市史 第三巻 通史編』

 

 

片岡義博
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