第1回 東京ビッグサイトが揺れた

 


 松岡正人(会社員)


 

 その日は東京ビッグサイト(江東区有明3丁目)で開催されていたIT技術のカンファレンス・展示会の最終日。展示会が開かれたホールにはノートパソコンや40インチを超える大きなモニターが並び、壁一面を覆う巨大な広告用のモニターパネルなども設置されていた。それは近未来的な風景だった。

 午後2時を回ってブースの賑わいがピークを少し越えたころ、まだ多くの来場者が場内に溢れていた。私が責任者として運営していた自社の展示ブースにはパートナー十数社の説明員が30名強、ビラ配りなどを手伝ってくれているアルバイトの女性達が20名弱、ブース運営のための業者と自社社員など延べ70名あまりが居た。

 午後2時46分過ぎ、唐突にフロア全体が大きく揺れ始め、場内に悲鳴が響き渡った。強烈な横揺れで展示ブースも激しく揺れた。隣接するブースでは、蛍光灯で社名をかたどった大きな看板が間断なく揺れ、金属製の櫓の上からいまにも落ちそうだった。

 当時、私は最大手の米国のITソフトウェア会社に勤務していた。その社には生命に危険が及ぶ可能性のある状況でどのように対処すべきかについて基本的な方針があり、現場では各担当者が判断できる体制をとっていた。といっても、「上司に電話やメールをする」というような「やるべきことの一覧」が提供されているわけではなく「生命の危険に及ぶことを避ける」という一点。もちろん安否確認の仕組みなどはあるけれど、補助的なものでしかなく、生死を分ける局面でいかに生きるかが最も重要ということである。

 自宅にいながらメールや社内のサーバーにアクセスすることができる環境が用意されているので、災害時のみならず、インフルエンザなどで出社できないような場合でも自宅から仕事ができる。しかし、地震発生時点で必要なのは「生命の危機を遠ざけること」なのである。

 一回目の揺れが始まるとすぐ、お客様や、説明員、アルバイト、社員やスタッフにブースの外に出てもらうよう指示した。館内放送も流れていたように思うが、記憶が定かではない。揺れが収まると同時にホールの外の駐車場にスタッフを誘導した。ここで二回目の大きな揺れが来たように記憶している。移動の間に泣き出してしまうアルバイトの女の子もいた。何度かの大きな揺れが収束したところで、現場に残っていたスタッフやパートナーを集めてブースの終了を宣言した。人命を最優先するという会社の行動規範に基づき、状況が落ち着くまで安全なところに避難していただくようにお願いした。ブースの後片付けは、パートナー各社の判断に任せることとした。

 展示会の主催者に「人命に関わる災害が発生しているので速やかに展示会の終了を宣言してほしい」と何度も依頼した。しかしイベントの中止権限を持っていたのは展示会の主催者ではなく、会場の運営会社だった。またあのような大地震に遭遇したことがなかったため、結局イベントの終了が宣言されたのは、それから1時間以上経った後であった。

 その間、大小の揺れが続く中、派遣社員やパートナー、アルバイトなどのスタッフは避難した。残っていたのはわが社の正社員のみだった。余震が続く中、運営委託会社と自社社員の数名でブースの後片付けをした。避難していたパートナー各社の担当者たちがブースに戻ってきて、午後6時頃から機材の梱包をはじめていた。すべてのパートナーの機材の梱包と、自社機材の梱包など撤収の準備が整うのを確認して展示ホールを出たのは夜8時を回っていたと思う。

 あの時、隣の展示ホールで天井が剥離して落下したりする状況で、施工業者の方々が手際よくブースを解体、回収していったことは忘れられない。予期せぬ自然災害にもかかわらず、運送業者のみなさんが遅れてもなお自らの仕事を全うしようと働いていた。仕事に対する責任感の強さである。

 先に避難していた派遣社員の皆さんが、我々のために避難スペースを確保してくれていたことにも大いに感謝した。彼女たちの夕食を確保するため、近くのモールまで同僚と買い出しに出かけた。数件あるファストフードの店は店内在庫をすべて提供してくれた。ある店は午後9時すぎになっても長蛇の列。我々はそれを横目で眺めながらカップ麺やスナック、飲み物、アルコール類をコンビニなどで手に入れて避難場所に戻った。

 

有明ワシントンホテル

【ホテルの避難所でテレビを食い入るように見入る人たち。筆者提供】

【ホテルのイスを並べて仮眠する同僚。筆者提供】

【ホテルのイスを並べて仮眠する同僚。筆者提供】

 

 避難場所は会場そばの有明ワシントンホテルの一階のレストランだった。店側は店内を開放し、テレビは点けっぱなし。三陸の津波の様子が何度も繰り返し放送されていた。水やお湯なども提供していただいた。自宅や会社と電話連絡はとれなかった。会社とは別の同僚がPHSでインターネットに繋いでやりとりしていたのでおおよその状況は分かった。会社は多くのお客様に社内食堂から夕食を提供するなどしていた。

 自宅が無事だったと分かったのは夜遅くなって、新潟の実家と電話が通じたからだった。自宅と直接会話したわけではないが、実家の母を介して、自宅のことは妻に任せた。あとから聞いたら妻は、緊急時や災害時に学校に子供を迎えに行かなければならないことをすっかり忘れていた。子供たちは迎えを待たずに帰ってきたということだった。

 翌早朝、6時前にはりんかい線が動き出すという情報を得て、まだ暗い道を他の避難者とともに最寄りの国際展示場駅に向かって歩いて行った。女子のアルバイトは私のブース以外にもホール中にいた。ホールの運営会社は会議室などを開放して彼女たちの安全に気を配ったことも触れておこうと思う。彼女たちの多くも同じ頃自宅に向けて移動を開始した。それより前に自家用車で迎えが来た人もいて、遅々として進まぬ車列に混じって帰路に着いた。

 私と同僚たちはりんかい線で新木場に、新木場から有楽町線に乗り換え、私は飯田橋で東西線に乗り換え、高田馬場から西武新宿線に乗ることができた。いつもなら5分もあれば電車が来るのに、この日は10分、20分と電車に乗るまで混雑するプラットホームで待ったが、大きな混乱もなく粛々と乗ることができるまで、皆が待ち続けていた。ふと高田馬場駅のプラットホームで見上げた空は青く晴れていた。

 

駅に向かう女性たち高田馬場駅
【早朝、駅に向かって歩く女性たちと、エスカレーターが止まった高田馬場駅。筆者提供】

 

 さて、実はまだこのあとの話がある。
 社員のほぼ全員の安否は震災のあった金曜日の夜の間に確認できていた。翌土曜日に全社員に「出社の可否は自らの判断で」とのメールが会社からあった。

 私は月曜日に自転車で会社に出勤した。鉄道が止まっても自宅に帰り着くための選択だったが、驚いたことに非常に多くの人々が自転車で移動していた。

 会社に着くと本社のディレクターが来ていて、関西空港経由で来日したとのことだった。彼は翌日にはとんぼ返りしたが、同じく地震の多いチリ出身の彼は、我々を励ますために飛んできてくれたのだ。月曜の昼食のあと、皆帰宅した。私は自宅から日本の状況を本社に伝え続けた。本格的に仕事を再開するのは一週間後のことであった。

 

【筆者略歴】
 松岡正人(まつおか・まさと)
 新潟県出身、結婚を機に妻の実家がある田無市(当時)に引っ越して20年、現在は小金井公園まで徒歩圏の芝久保町二丁目在住。三人子供がいるが一緒に遊んでくれる年齢でもなくなり、週末の天気が良ければ飯能・秩父方面にサイクリングに出かけるのを趣味にしている。エンジニアを経てマーケティングを生業とし、外資系のIT企業で文化のギャップに苦しみながら格闘中。

 

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