第4回 震災から4年~相馬市への派遣を思い出して~

 


 宮島美貴(保健師)


 

 震災当日、地震発生時、私は保谷保健福祉総合センターで会議をしている最中だった。4階だったので揺れも大きく感じたが、地震と気付くまで少し時間がかかった。繰り返す余震の中、会議を終えた。

 その日は勤務時間後も、職員は庁内で待機するよう指示があった。市の災害対策本部で帰宅困難者のための待避所を設置することが決まり、私自身は保健師として、柳沢公民館に設置された待避所の救護班を担当することになった。

 公民館には、西武新宿線が運休のため帰宅できない方、新宿から自転車でさらに西へ向かう必要があるが休ませて欲しいという方、余震が怖くて家族が帰宅するまでいさせてほしいという方々が、人数は記憶が定かではないが、10数人程度はいただろうか。幸い、体調を崩す方はいなかった。毛布の配布などの合間、公民館のテレビから流れる、震災のニュース音声を聞いて、初めて津波の大きさ、甚大な被害状況を実感し、鳥肌が立った。西武線は運行を再開し、館内にいた方も何名かを残し帰宅した。救護班も帰宅するよう指示があり、その日は帰宅した。

 3月末か4月の初めに、組合からの情報で、全国自治労が相馬市へボランティアを派遣することが決まり、募集することを知った。保健師は医療班として避難所の体調不良者の対応にあたるボランティアで現地に行くことができると知り、参加を希望した。

 西東京市からは、医療班としての参加は保健師4名(うち1人は3月末で退職した保健師を含む)であった。1人は1次派遣、2次派遣で高齢者支援課より1人、当時健康課に所属だった私は、同じく健康課に所属していた保健師と合わせて2名で4次派遣として現地に行くこととなった。

 4次派遣は、5月の連休手前から9日間の派遣だった。医療班として、他の自治体からも保健師の派遣があり、私は荒川区の保健師と2人1組で相馬市内の避難所の内3ヶ所を巡回し、体調不良者の確認や必要であれば医師の受診、ボランティアで来ている医師グループ・精神科医グループにつなげるなどの活動を行なった。

相馬市保健センター

【写真は、当初の活動拠点となった相馬市保健センター。筆者提供】

 

 隔日で交代しながらの活動で、早朝に宿泊した福島市内のホテルを出発し、相馬市保健センターで医療チームでの打ち合わせ、避難所に出かけて活動し、保健センターに宿泊し、翌日ホテルから来たチームと交代する形を取っていた。

 4次派遣当時は、避難されている方が日中は行方不明の家族を捜したり、自宅の片付けに出ており、避難所に残っているのは高齢者の方が少数という時期だった。そのため、話合いにより派遣期間途中から、夕方~夜も避難所の様子を確認できるよう、保健センターの代わりに避難所の一室に泊まって活動できるようになり、夕方帰ってきた人の健康状態についても確認できるようになった。

 避難所での活動中、避難者の方からお話を聞く機会があった。これについて紹介してみたい。

 ある日、避難所入り口で出かけようとする男性に挨拶し、声をかけた。
 「今日は風が冷たい日ですね。」
 「あと1人、あがらねえ。4人、流された。母ちゃんと1人、残っただけ」
 男性はそう答えて出かけて行った。

 避難所内を巡回して、血圧測定を希望した漁師の男性から話を聞いた。
 「地震が来てすぐ、沖へ船を出した。全速力で沖へ出した。黒い壁のように津波が来た。夢中で、過ぎてから全身が震えた」

 同じく、漁師の方から聞いた。
 「200メートル後から来た船が見えなくなるくらい、津波が大きかった。すぐに船を出せれば、沖の方が波が崩れないから助かることができる」
 昔からの漁師の知恵として、とっさに船を沖に出したと語ってくれた。

 また、漁師の妻の話。
 「一時は流されて死んだ方がよったと思った。2年半前に建てたばかりの家の借金はあるし、仕事はできないし。」
 話してくださる人は淡々と静かに語ってくれた。

 ある夜、救援物資の衣類を並べてある場所で一人の女性が服を捜していた。荒川区の保健師と2人で話しかけると、その方は幸い家族は無事で避難所で過ごせることに感謝していると話し、涙を流された。
 「家族の前では涙は見せることができなかった。あの日から初めて泣きました」

 避難所で、何とか前を向いていこうという現地の方の声を聴き、自分の状況より周囲を思いやる優しさと我慢強さを目の当たりにして心を打たれる思いがした。だが、一方で我慢して表出できない状況が長引くことで、心や体に影響が出るのではないかとも感じていた。これについては、ボランティアで短い期間来ただけの自分には何もできない無力感を感じつつ、縁あってこの地に来られたことに感謝し、派遣期間を終えた。

 

津波で家屋が流された

【写真は、津波で家屋が流された被災地。筆者提供】

 

 その後も、縁あって数名の相馬市の方とは手紙などで連絡を取り合っている。相馬漁協では原発事故の影響で以前のような漁業の復活の見通しは立たず、復興まではまだまだ道のりは遠い。私個人にできること、「忘れない」ということを心に刻み、被災地に心を寄せ続けていきたいと思う。

 

【筆者略歴】
宮島美貴(みやじま・みき)
 長野県出身。西東京市役所に勤務して9年目。杉並区在住。現在は職員課に所属し、保健師として市職員の健康管理・安全衛生に関する業務を担当。

 

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