1962(昭和37)年12月、「東久留米団地」(2280戸、現在「グリーンヒルズ東久留米」)の入居が始まった。50年代末から西武線沿線には次々に団地が建設されていた。当時の久留米町にとっては、59年に入居を開始した「ひばりが丘団地」に続いて2番目となる日本住宅公団(現都市再生機構)による団地の建設となった。この建設地には、戦前から戦後にわたる日米の軍事施設をめぐる歴史が刻まれていることはあまり知られていない。
PFAS(ピーファス 有機フッ素化合物)をご存じだろうか。最近、新聞などで見かけることが多くなってきた。さる4月7日の東京新聞1面では、「PFASを追う」というシリーズのロゴとともに「多摩地域 273人血液検査 国分寺・立川で濃度高く」という文字が目につく。
1960(昭和35)年9月6日、当時の皇太子夫妻が「ひばりが丘団地」を視察に訪れた。これはこの地域にとっても、日本の戦後史においても象徴的な出来事だった。「ひばりが丘」の名を知らない人にこの地を説明するとき、「いまの上皇が皇太子時代、美智子さんと訪問した団地があったでしょ、その団地があるところです」と言うと、ある年齢以上の人なら、だいたい「ああ、あそこ」ということになる。それくらいのインパクトがあったということだ。
春である。例年より2週間くらい前倒しで花が咲き始めた感じがある。人間社会で凄惨な殺し合い=戦争が繰り広げられようと、季節はめぐり、花は咲く。こういう自然詠ははるか昔からあるが、これは日本独特のものだろうか。今回は、前回に続いて「米軍基地」から始まり、図らずも戦後「日本」の立ち位置を考えることになった。
東久留米団地は旧日本海軍の広大な通信基地跡に造られたことを前回書いた。そしてその通信基地の痕跡は、現在も新座市大和田の在日米軍基地として残っていることは、連載5「フェンスの向こうのアメリカ 北多摩編」で書いている。武蔵野地区には少なからぬ米軍の施設や基地があったし、いまもある。このことについて再び考えてみたい。
「ひばりが丘団地」「滝山団地」と団地巡りのようになってきたが、続けて「東久留米団地」(現在「グリーンヒルズ東久留米」)も「訪ねる」ことにする。この団地周辺は、少し前に日帰り温泉施設ができたりして、かなり様相が変わったが、ここにも固有の歴史がある。この団地が誕生した時の模様を描いた小説を紹介することから始めたい。
前回、1960年に当時の皇太子夫妻がひばりが丘団地を視察したことを述べ、団地生活の広告塔のような効果を果たしたことに触れた。ではなぜ、このとき皇太子夫妻は団地を訪れたのだろうか? もちろん当時、ひばりが丘団地が日本一大きい団地だったからだろうが、ちょっと違う側面について考えてみたい。(写真は、冬色の滝山団地。筆者撮影)
原武史著『レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史』(新潮社)の〝主役〟は「ひばりが丘」である、といいたい。16本ある章題のうち6箇所も「ひばりが丘」(1箇所は駅名の「ひばりヶ丘」だが)が出てくる。かつて、こんなボリュームで「ひばりが丘」を取り上げた本は、たぶんなかった。(写真は「ひばりヶ丘パークヒルズ管理サービス事務所」として残されたひばりが丘団地の「スターハウス」)
前回も述べたように、『孤独のグルメ』の原作者・久住昌之は三鷹市出身で、ついでに言うと筆者と同い年らしい。氏は『東京都三多摩原人』(朝日新聞出版、2016年)という本も出しているのだが、これが本連載と問題意識的に重なるところが多そうな自伝的エッセイなのである。世代論なんて信用できないという意見もあるが、この本で述べられた体験的なことになると、さすがにオッと思うことも多い。(写真は、東久留米市の浅間神社脇を流れる立野川。昭和の時代、この川は……)
恥ずかしながら、つい最近まで金木犀の香りというのがわからなかった。70年代末、堀内孝雄が「君のひとみは10000ボルト」という曲を歌い、そこで「金木犀」が出てくるのだが、それが秋の花だということすら知らなかった(作詞は谷村新司、もっともこの曲は秋という感じがしないのだが、それはおくとして)。
『孤独のグルメ』をご存知だろうか。松重豊主演、テレビ東京系のドラマで、10月7日から「ドラマ24」枠(つまり深夜枠)で Season10 が始まることが発表された。2012年スタートだから、長寿ドラマといえる。「おじさんがご飯を食べているだけの番組」(2018年、このドラマが韓国で最も人気のあるドラマとして表彰された際の松重豊の言葉)が、今年で10周年というのは興味深い現象だ。
酷暑である。夏といえばお盆とセットになって戦争のイメージがある。今年はいつ終わるともしれないウクライナ戦争やコロナ禍で、よけいに戦争が意識される。戦争を知らない世代にとってもそうなのだから、マスメディアには山ほどの問題があるにしても、この夏の定番をつくったことについては評価したい。夏はこれでいいのだ、と思う。武蔵野の戦争ついてはこれまでも何度か述べてきたが、今回はその敗戦後について少しふれてみたい。
昔といっても、明治初期のこと。いわゆる三多摩地区は神奈川県に属していたことがあった。その後はずっと「東京」に帰属するが、この歴史は、多摩地区の微妙な位置をあらわしているのかもしれない。
(写真は、ひばりヶ丘駅に入線した東急東横線の車両。「神奈川県」は意外に近い)
まだ試したことはないのだが、西武線とあまり縁のない人に「石神井」という地名を見せると、どれくらいの人が「しゃくじい」と読むだろうか。案外難読地名かもしれない。今回はその「石神井」と、前回からふれている「石神井川」をめぐるあれこれについて探ってみたい。
(写真は石神井公園周辺。いわれてみると城跡の感じがある?)
さる4月下旬、テレビ東京の「出没!アド街ック天国」で「武蔵関」が取り上げられた。この街が特集されるのは「おそらくテレビ初」というのが、〝つかみ〟の文言のようになっていた。それくらいマイナーというか、地味な街ということなのだろう。(写真は、桐野夏生『OUT』に登場すると思しき小金井公園)