書物でめぐる武蔵野 第34回
消える? 東久留米の川岸遺跡 旧石器・縄文・江戸期の遺跡

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年10月26日

「川岸《かわぎし》遺跡」というのは、東久留米市の旧石器時代、縄文時代、江戸時代にまたがる重層遺跡である。落合川が黒目川に合流する地点のすぐ右側に位置する。ヤオコー新座栗原店の真裏にあたり、落合川を挟んだ対岸には東久留米のスポーツセンターがある。

 

川岸遺跡

封鎖されたジョギング・ウォーキング用通路。橋のたもとから続くこの道をまっすぐ行った右手(木の向こう)に川岸遺跡はある。下谷橋は落合川が黒目川に合流する直前にある橋(2022年9月撮影)

 

 この遺跡については調査が続いているはずだった。しかし、2022年、つまり去年の秋突然、遺跡にあたる部分が「調整池」になるという掲示がなされ、周囲のジョギング・ウォーキング用道路は通行止めになり、現在に至っている。

 工事の掲示には調整池の説明はあるが、「川岸遺跡」については何も書かれていない。これはどういうことなのだろう。

 

川岸遺跡のプロフィール

 

 川岸遺跡が確認され、市の遺跡として登録されたのは、1979(昭和54)年のことだった。このときには縄文時代前期や中期の土器などが「表面採集」されている。76年頃から、川岸遺跡のそばを流れる落合川や黒目川(市の名前「久留米」がここに由来するともいわれる)が大々的に改修されているから、その過程での確認だったと想像される。

 90年代のなかば、これらの河川の改修・整備をおこなってきた東京都は、蛇行していた流れを現在のようにまっすぐにするだけではなく、増水による氾濫被害に対応するための調整池を計画し、黒目川と落合川の合流部分付近をその用地として買収した。そこがまさに川岸遺跡だったのである。

 95年、東京都と東久留米市は協議の結果、遺跡の状況を把握するために、市教育委員会がまず試掘、それをうけて「川岸遺跡調査団」(事務局は市教育委員会)を編成し、本格的な調査をおこない、遺跡の取り扱いについて調整することになった。その結果は『川岸遺跡 東京都東久留米市川岸遺跡発掘調査報告書』(東久留米市教育委員会 2003)としてまとめられている。

 この冊子によると、川岸遺跡は①旧石器時代の遺跡であること、②縄文時代前期の比較的規模の大きい集落遺跡が存在すること、③近世の屋敷跡が存在した可能性が高いことが確認された。そして、「予想以上に規模の大きい重要な遺跡である」という認識を示している。

 さらに、調査を担当した「川岸遺跡調査団」は、95年2月20日、「北多摩北部建設事務所に遺跡の全面保存と史跡公園などとして活用するよう要望書」を提出している。

 そして今後の遺跡の取り扱いについては、2005(平成17)年までは、調整池の工事をおこなわないことになった、とある。(p4-5)

 このレポートがまとめられた翌年、2004年には、95年の調査地の南側にあたる部分が調査され、『川岸遺跡Ⅱ 東京都東久留米市川岸遺跡第Ⅱ地点発掘調査報告書』(東久留米市教育委員会 2004)が刊行されている。

 この調査によって川岸遺跡の南端がはっきりし、遺跡の範囲も確定された。皮肉なことに「川岸遺跡の主体部」は、「東京都が調整池用地として取得した範囲にほぼ収まる」ことが明らかになった。東久留米市埋蔵文化財調査団の団長(戸沢充則)は、「川岸遺跡の全面保存と史跡公園としての整備・公開することを訴え」ている。(p21)

 史跡遺跡というのは、東久留米市でいうと「下里本邑遺跡」、あるいは隣町の西東京市にあり史跡公園として整備された「下野谷遺跡」のようなイメージなのだろう。しかし、この訴えはどこにも届かなかったようだ。

 その後、この遺跡についての正式なレポートは出ていない(後述するが、遺跡見学会の資料=簡単なパンフはある)。

 2つのレポートに提案のあった〝川岸史跡公園〟は実現されていないどころか、遺跡の多くは「調整池」に沈み、遺跡の痕跡すら消されようとしているように思えてならない。

 というのも、この川岸遺跡のすぐそばに、旧石器・縄文時代の「三角山遺跡」があり、発掘調査もされているのだが、その痕跡が見当たらないからだ。

 

貴重な旧石器時代&縄文時代の三角山遺跡

 

 先の2003年のレポートには、「周囲の遺跡」という節があり、市内の旧石器時代と縄文時代前期の遺跡の分布図が掲載されている(下図)。どちらも立野川と落合川に集中しているように見える。そのなかで三角山遺跡は、「市内で初めて発見・発掘された旧石器時代の遺跡」(p10)で、ほかの遺跡も含めて考えるとこのあたりは「旧石器時代のムラ跡」ではないかという説も述べられている(p51)。

 

川岸遺跡

川岸遺跡

図中20番(市の遺跡番号)は「三角山遺跡」(『川岸遺跡 東京都東久留米市川岸遺跡発掘調査報告書』東久留米市教育委員会、2003)

 

 気になるので、三角山遺跡についてもう少し〝掘って〟みよう。以下は『三角山遺跡 東京都東久留米市三角山遺跡第1・2地点発掘調査報告書』(東久留米市教育委員会、2006)によっている。

 この遺跡を発見したのは、直良信夫という学者だった。彼は、日本列島に旧石器時代はなかったといわれていた戦前、旧石器時代の存在を主張した数少ない学者で、「明石原人」の発見者でもあった。三角山遺跡は旧石器時代の遺跡として1953年に発見され、翌年発掘調査され、報告文書も出ている。日本に旧石器時代があったことを証明したのは、1949年の群馬県岩宿遺跡だが、この三角山遺跡の発見はその傍証としても大きな意義をもったといわれている。

 その後、三角山遺跡がどのように扱われたのかは未詳だが、市の刊行物(『東久留米のあけぼの』1999年)などにはその名前は記載されていた。2005年、地権者の家屋建築の申し立てをきっかけに、発掘調査がおこなわれる。この遺跡の範囲はかなり広く、調査はその一部だったが、縄文時代前期の集落跡と考えられる竪穴住居跡や土器などが検出されている。

 縄文時代前期の集落跡は、武蔵野台地の内陸部ではきわめて数が限られている、という。たしかに市の遺跡地図を見ても主だった縄文遺跡は中期である。この意味でも、立野川・落合川周辺の縄文時代前期の遺跡群である三角山遺跡や川岸遺跡などは、重要だと思われるが、それに見合った処遇がされているとは思えない。

 ところで、最初に直良信夫が調査した地点と2005年に調査された場所は異なっている(写真参照)。

 ここからは、地元の人間として筆者の想像である。54年の発掘地点にはかつて防空壕があり、「三角山」と呼ばれていたことを小学校時代に担任から聞いた。道に囲まれ三角形の形状になっているのがその名の由来だと思うが、これが遺跡の名になったのは想像に難くない。防空壕を掘ったときに石器などが出たことがあり、その伝承が発掘者に伝わったのではないだろうか。

 想像の部分はともかく、この地が「三角山」で貴重な遺跡が眠っていることを知る人は市内の人間でも少ないと思われる。筆者も防空壕のことは知っていたが、旧石器時代の遺跡があることを知ったのは最近のことだ。遺跡のすぐ近くにある石塔「廻国供養塔」には説明看板が付いている。せめてこのような説明看板を立て、小学生や中学生にその歴史を伝えていくことが必要ではないだろうか。筆者のような子どもは少数かもしれないが、いないわけがないと思っている。

 以上のような経緯を考えると、川岸遺跡も三角山遺跡と同じ運命をたどるような気がしてならない。

 

三角山

「三角山」。かつて(60年代くらいまで?)ここには防空壕の痕跡があった。ここが、最初に旧石器時代の遺跡が発見されたポイントであることは、『三角山遺跡 東京都東久留米市三角山遺跡第1・2地点発掘調査報告書』(東久留米市教育委員会、2006)の地図で確認できた。2005年で調査された場所は、写真には写っていないが左奥にある民家の敷地だと思われる

 

川岸遺跡発掘調査の見学会で伝えられたこと

 

 調整池の工事が再開される可能性があった2005年からはずいぶんと時間がたった2020年の1月、川岸遺跡の発掘調査についての見学会が開催された。2004年のレポートから見学会の20年まで、一見大きな動きはなかったように思われる。公の文書も出ていない。しかしこの時期、川岸遺跡の未来は決められていたようだ。

 20年の見学会の様子を、筆者は「ひばりタイムス」でレポートしたことがある(「東久留米市・川岸遺跡の発掘現場見学会 縄文時代の住居跡や墓地も」2020年1月26日掲載)。

 現地に立ってみると、思ったよりも広い印象を受けた。史跡公園にしたら、かなりのものができるのではないか。だが、いまから考えると、この見学会の時点で、そういう構想はなく、調査したら後は調整池に沈めることが決まっていたのだろう。

 ついでにいうと、調整池の入り口には「東久留米市 野草園」があった。落合川は、2008年「平成の名水百選」に選ばれ、その際作られた「落合川と南沢湧水群」という市発行のパンフレットには写真入りで野草園が掲載されている。この施設も、冒頭に示した「通行止め」と同時期に忽然と姿を消した。パンフの「東久留米・水の回廊」というキャッチコピーがむなしく響く。

 ともあれ、今回の調査で、2003年と2004年のレポートの内容がよりはっきりしたことになる。興味深いのは、縄文時代前期中葉(約5700年前)から中期後半(約4300年前)にかけて、1000年以上もの間、この地に集落が営まれていたことがわかったことだ。

 しかし、竪穴式住居で構成される縄文時代の集落が1000年間持続したということを、どうやって想像したらいいのだろうか。具体的にイメージしにくい。川岸遺跡とほぼ同時期、縄文時代前期中頃から中期末葉の遺跡である青森県の三内丸山遺跡について語られていることから類推すればいいのか。この意味でも持続的な調査研究は必要だろう。

 わからないことが多いが、いろいろ仮説はあるようだ。
 東久留米の縄文遺跡では、前期と中期で集落の立地条件が違っているという。それは「前期が狩猟活動を中心とする生業形態であったものが、中期になると植物採集活動を中心とする生業形態に変化した」ことを意味するという(前掲『三角山遺跡』「まとめ」より)。では、川岸遺跡のように同じ場所で推移した場合はどう考えたらいいのだろう、疑問はつきない。

 また、中期の「終わり」にはなにがあったのか。川岸遺跡の見学会で配布された資料に、中期の竪穴住居跡の縄文土器を埋め込んだ「埋甕炉《まいようろ》」が発見されたが、それが「いずれも意図的に壊された状態」だったことが記載されていた。

 これは何を意味するのだろうか。仮説を立てたくなる本を見つけたので、次回紹介したい。

 

川岸遺跡のゆくえ

 

 さて、川岸遺跡のゆくえである。20年の見学会の説明では、調査は2021年3月まで続き、その2年後、つまり23年に遺跡発掘・調査のレポートがでるとのことだった。しかしこの間、コロナ禍で調査は進んでいるようには思えなかった。どうなっているのかと思っていたら、22年秋にいきなり「調整池工事」で通行止めである。

 見学会の資料をよく見ると、「調査主体 東京都埋蔵文化財センター」とある。今回はそれまでとは違う「調査主体」に変わったようだ。電話で確認すると果たしてそのとおりだった。調整池をつくることを前提に調査しているとのこと。架道橋周辺の調査が残っていて、それは今年秋におこない、報告書は24年末に出る予定だという。

 

川口遺跡

上 20年の見学会で公開された縄文期等の遺構
下 遺構があったスペースの土はえぐり取られているように見えた

 

 23年10月現在、工事は着々と進んでいる。工事の状況が見えるようになると、各時代の遺構があったスペースは、土がえぐり取られているように見えた。

 

工事はこのように進んでいた。「通行止」写真から少し左に移動したところから(22年9月撮影)

(23年1月撮影)

 

 遺構のほとんどは消えたといっていいだろう。調整池の工事は来年5月まで続くようだ。

 

工事の説明パネル(22年9月撮影)

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杉山尚次
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