北多摩戦後クロニクル 第17回
1960年 皇太子夫妻がひばりが丘団地を視察 新時代の団地生活にお墨付き
1960(昭和35)年9月6日、当時の皇太子夫妻が「ひばりが丘団地」を視察に訪れた。これはこの地域にとっても、日本の戦後史においても象徴的な出来事だった。「ひばりが丘」の名を知らない人にこの地を説明するとき、「いまの上皇が皇太子時代、美智子さんと訪問した団地があったでしょ、その団地があるところです」と言うと、ある年齢以上の人なら、だいたい「ああ、あそこ」ということになる。それくらいのインパクトがあったということだ。
■ 「ひばりが丘団地」の誕生
戦後の復興と経済成長にともなう住宅不足を解消するため、1955年に日本住宅公団が発足した。公団は東京や大阪の郊外に次々とコンクリート製の大規模な集合住宅を建設していった。58年には団地に住む人が100万人を突破し、「団地族」という言葉が流行語となっている。
東京から埼玉にいたる郊外を走る西武鉄道沿線には、50年代末に集中的に公団の団地が建てられた。「東伏見団地」(558戸)、「柳沢団地」(512戸)、「久米川団地」(986戸)、「新所沢団地」(2455戸)で、その代表が「ひばりが丘団地」(2714戸)である。
ひばりが丘団地は、当時の北多摩郡保谷町、田無町(どちらも現西東京市)、久留米町(現東久留米市)にまたがっている。中島航空金属田無製造所の一部を跡地を利用して、58年6月から建設が始まり、59~60年にかけて2714世帯が入居、1万人を超す人が住むこととなった。当時日本最大の規模と最高の環境と内容を誇ると喧伝され、外国人の関心も集め、多くの大使などが訪れたようだ。
団地の誕生と時を同じくして、「ひばりヶ丘」という名前の駅が誕生した。それまで保谷町にあるのに、田無の有力者らによる要請で「田無町」という名前だったこの駅は、59年5月に「ひばりヶ丘」と改称されている。
■ 憧れの団地生活と理想の家族
住宅難の解消ための団地とはいっても、初期の団地に入居できたのは経済的に恵まれた人だったという。高学歴、ホワイトカラー、「新中間階級」と呼ばれた人びとが多数だった。テレビなど家電の普及率も高い。ダイニングキッチンや浴室があり、トイレも水洗。
こうした近代的な住居に、核家族が住む。団地は、それまでのアパートや貸家とは違った、新しい時代の暮らしを提供する場所であり、時代の先端をいく憧れの対象だったということができる。
そうした場所を、これまた憧れの対象、あるいは理想の夫婦像のような皇太子夫妻が「見学」する。皇太子夫妻のひばりが丘団地訪問は、新時代の生活に〝お墨付き〟を与える象徴的な役割を果たしたといえるだろう。
(杉山尚次)
【主な参考資料】
・『朝日クロニクル週刊20世紀 1958』(朝日新聞社)
・原武史著『レッドアローとスターハウス』(新潮社)
・細田正和・片岡義博著『明日がわかるキーワード年表』(彩流社)
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