北多摩戦後クロニクル 第30回
1979年 西武ライオンズが所沢にやってきた 球団と西武グループ、沿線住民をめぐるミニストーリー

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年7月25日

 西武鉄道グループが、低迷していた福岡のクラウンライターライオンズを買収、「西武ライオンズ」(現埼玉西武ライオンズ)とし、本拠地も埼玉県所沢市に移すことを発表したのが1978年10月のこと。そして翌79年4月14日、新球団の新たなホームグラウンド「西武球場」(現ベルーナドーム)のこけら落としゲームが開催された。これは日本のプロ野球にとって大きな意味をもつ出来事だった。同時に、西武線沿線にプロ野球のチームがやってきたことは、その住民にとって野球にとどまらない文化的意味があったといえる。それから40数年、西武ライオンズをめぐるあれこれの事象を記してみた。

 

西武球場

屋根がなかった時代の西武球場。1993年10月23日、日本シリーズ第1戦(西武-ヤクルト)。外野スタンドは芝生席(天然芝)だった

 

開幕12連敗

 

 初年度の〝西武〟は弱かった。新球団編成にあたり、阪神から田淵幸一、ロッテから野村克也と山崎裕之を獲得するなど話題性は抜群。監督は、後にチームの編成に辣腕を振るい「球界の寝業師」の異名をとることになる根本陸夫だったが、名前だけで勝てるほど野球は甘くないということだろう。近鉄を相手にした4月7日の初ゲームはエース東尾修を立てたが、0-3で落とした。その後も勝てない。5連敗という状態で、本拠地初となるゲームを迎えなければならなかった。

 西武ライオンズ球場は3月31日に完成したばかり。4月14日、球場初ゲームの始球式は福田赳夫元首相である。球団オーナーである国土計画(現コクド)の堤義明社長(当時)と福田元首相はひじょうに近しい間柄だったらしく、そのへんでの〝起用〟かと思われる。

 対戦相手は日本ハムだったが、この日も1対7で完敗。さらに連敗のトンネルは続く。結局2つの引き分けを挟んで12連敗を喫した後、4月24日の西武球場。南海を相手に4-2、やっとのことで球団初の勝利を挙げた。本拠地での初勝利でもあった。勝ち投手はルーキーの松沼博久(弟も同時入団したため「アニヤン」と呼ばれた)。しかし、次の日は敗れ、この4月は3勝15敗2分に終わっている。

 という滑り出しだったため、西武ライオンズの初年度はリーグ最下位に沈んだ。翌年、翌々年はどちらも4位だった。

 

西武線沿線に根付く

 

 にもかかわらず、西武ライオンズは西武鉄道沿線に浸透していった。ベースには西武グループの企業戦略があっただろうし、この球団のイメージは斬新だったともいえる。

 西武が属する当時のパ・リーグは、人気の上でセ・リーグにかなりの差をつけられていた。在京パ・リーグの日本ハムは後楽園球場をフランチャイズとするものの、巨人の〝ウラ〟的イメージがつきまとっていた。ロッテも人気があるとはいえなかった。同球団が本拠地とする川崎球場では、閑古鳥が鳴く外野席でカップルが試合を無視していちゃつく姿がテレビ(「好・珍プレー集」など)で何度も放映されたりして、散々な扱いをされていた。

 そんな状況を、正面から変えようとする本気度が見えるような球団の誕生だった、と今はいえる。

 当然のことながら、球場へのアクセスが整備された。西武線沿線の小学生が遠足で行ったある種のテーマパーク「ユネスコ村」や狭山湖の入り口だった「狭山湖駅」は「西武球場前駅」となり、利便性が増した。

 広報にも力が入っていた。駅など鉄道関連施設のいたるところに球団のポスターが貼られた。とくに印象深かったのは、勝ちゲームの翌日、スポーツ紙の1面のような中吊りが電車内に掲示されたことだ。テレビもスポーツ紙も巨人中心、パ・リーグの試合の〝動画〟は「プロ野球ニュース」くらいしか見られなかった時代に、ライオンズが勝つと西武線では毎回〝1面〟扱いだったのだ。

 ファンクラブの組織化も大々的におこなわれていたようだ。ライオンズ誕生の79年、東村山市で小学5年生だった友人は、その前の年からファンクラブの募集が始まったこと、年会費(記憶によると中学生までの子どもは2000円、現在も小学生以下は税込2200円)を払うと、西武球場の試合は全試合無料でグッズもついたこと、そしてそれまでクラスのほとんどが、巨人の黒いGYマークのキャップをかぶっていたのが、ライオンズのブルーのキャップに替わったことを教えてくれた。なるほど子どもを〝味方〟につければ、親が引率せざるをえないから、効果も大きいというわけだ。

 ユニフォームも印象深かった。『プロ野球ユニフォーム物語』(文・綱島理友、絵・綿谷寛、ベースボールマガジン社、2005年)によると、ホーム用は、白地に赤と緑のライン、ブルーのチームロゴ、アンダーシャツというデザイン。帽子には手塚治虫の「ジャングル大帝」のレオのペットマーク。白地に赤と緑というラインは、西武の新交通システムやバス等にも採用されていたから、この配色はいたるところで目についた。これで印象が刷り込まれた可能性もある。

 このユニフォームは2003年まで20年以上使われ、「日本球界では最も長寿のユニフォーム」(前掲書)であるそうだ。80年代、90年代のライオンズ黄金期は、まさにこのユニフォームだったから、強く記憶に残っているのは、そのせいなのかもしれない。

 

ユニフォーム

『プロ野球ユニフォーム物語』の書影(左)と西武ライオンズ初代ユニフォームを紹介したページ(p270)

 

黄金期を迎える

 

 初めの3年はパッとしなかったライオンズだが、4年目の82年、根本陸夫は監督から管理部長に転ずると、その本領を発揮する。管理部長は実質的に今日のゼネラルマネージャー(GM)であり、監督を含むチーム編成全体を統括した。長い間低迷していたヤクルトを初の日本一に導き〝管理野球〟でその名を馳せた広岡達朗を監督に招へいし、森祗晶をヘッドコーチに据えた。その結果は日本一。

 このときから〝常勝西武〟は始まった。85年までの広岡監督時代と後を継いだ森監督時代(94年まで)の13年間で、日本一8回、リーグ優勝を逃したのは2年しかない。巨人のV9に匹敵する長期の黄金期といっていいだろう。

 毎年のように秋になると、西武沿線の駅周辺では松崎しげるが歌うチーム応援歌が流れ、「西武優勝セール」がおこなわれていた。西武グループという企業にとって、ライオンズという〝広告塔〟の効果は絶大だっただろう。

 西武は、球団買収時の思惑どおり球界の盟主を争う存在になり、日本社会をリードするような企業になっていった。

 西武線沿線の住人は、西武鉄道や西武バスに乗って都心の会社に通い、日々の買い物は地元の西友ストア、休日は池袋の西武デパートやパルコ、あるいは豊島園や西武園にでかけ、遠足は飯能や秩父。ここに西武球場での野球観戦が加わる。……西武という企業にはそんな目論見があったのかもしれない。しかし、経済成長期の昭和の世ならいざしらず、現在ではこれは戯画にしかなっていない。消費者はもっと多様な生活スタイルだし、プロ野球球団は企業のたんなる〝広告塔〟ではない。

 

ラッピング電車

ライオンズの選手をラッピングした電車(2023年、西武池袋線ひばりヶ丘駅)

 

球団は誰のものか

 

 西武の黄金期にはすでに、日本のプロ野球は球団を所有する親会社の意向が強く、球団としての自立性に欠ける、つまり球団=広告塔への批判があった。Jリーグは、フランチャイズ制の徹底、チーム名にスポンサー企業名を入れないなど、プロ野球を反面教師にして誕生した、ともいわれた。それでもプロ野球の盟主たちは、球界は自分たちの思い通りに運営できると考えていたに違いない。

 それが顕著になったのは、2004年の球界再編騒動のときだった。球界のオーナーたちは、自分たちにとって都合のいい日本球界にすべく、合併によってチームを整理し、1リーグ制による球界再編を強行しようとした。これに選手は猛反発し、労働組合でもある日本プロ野球選手会はストライキを決行、ファンやほとんどのマスコミもこれを支持し、2リーグ制は維持された。

 このとき、「球団はだれのものか」という議論があった。無知な大衆に正解を教えてやるという態度で「球団は株主のものである」とうそぶいた弁護士がいた。これはオーナーたちの意向を代弁するだけの意見にすぎないのだが、こうした新自由主義的発想はこのころから幅をきかせてきたともいえる。たしかに球団は株主のものでもあるが、選手やスタッフなどそこで働く人のものでもあるし、社会的な文化財としてファンのものでもある。それぞれの球団は、オーナーの〝私物〟ではないし、〝広告塔〟以上の存在であることが示された出来事だったと思う。

 オーナーたちは、このことを理解せざるをえなかったのではないか。球団は自分たちの思惑以上に社会的な存在であり、それを支える人々にそっぽを向かれることは、ひいては自分たちの本業そのものを危うくしかねない。広告塔は諸刃の剣なのだ。ごり押しは引っ込められた。

 かくして、プロ野球球団も地域密着を標榜するようになり、西武ライオンズは2008年から、埼玉西武ライオンズと改称された。

 企業に栄枯盛衰はつきもの。西武グループは〝総帥〟が失脚したこともあり、かつての勢いはないようにみえる。ライオンズは常勝とはいかないものの、そこそこの強さのチームになって現在にいたる、といえよう。

 それにしてもストから約20年、権力者たちの横暴に声を挙げて抗議し、それを撤回させた記憶は、すっかり遠くなってしまったように思うのは筆者だけだろうか。

 

西武ドーム

西武ドームの遠景。西武球場は1998年に屋根がつけられて西武ドームと改称され、2020年からはベルーナドームとなっている

(杉山尚次)

*連載企画「北多摩戦後クロニクル」の >> 目次ページ

 

【主な参考資料】
・埼玉西武ライオンズ(公式サイト
・『プロ野球「毎日が名勝負」読本』(2001年、彩流社)

 

杉山尚次
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