北多摩戦後クロニクル 第23回
1962年 「東久留米団地」入居開始 建設地に秘められた戦争の歴史

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年6月6日

 1962(昭和37)年12月、「東久留米団地」(2280戸、現在「グリーンヒルズ東久留米」)の入居が始まった。50年代末から西武線沿線には次々に団地が建設されていた。当時の久留米町にとっては、59年に入居を開始した「ひばりが丘団地」に続いて2番目となる日本住宅公団(現都市再生機構)による団地の建設となった。この建設地には、戦前から戦後にわたる日米の軍事施設をめぐる歴史が刻まれていることはあまり知られていない。

 

東久留米団地

1974年頃の東久留米団地。左方に「航空信号塔」がある(「東久留米市立東中学校卒業アルバム」1974年より)

 

団地誕生の様子を描いた小説

 

 公式の記録には出てこないが、この入居当時の様子を伝える小説がある。干刈あがたの「月曜日の兄弟たち」という短編小説である。

 干刈は1943年生まれの60年安保世代。作家デビューした80年代、離婚やシングルマザーを扱った私小説を書き、フェミニズム作家のさきがけという位置づけをされていた。本作は84年に彼女の代表作で芥川賞候補にもなった『ウホッホ探検隊』とカップリングで刊行されている(福武書店刊、本作はこれが初出。福武文庫では『ゆっくり東京女子マラソン』に収載された)。

 作者が95年に若くして病没したこともあり、この小説が東久留米団地を描いたことどころか、作品の存在すら忘れられようとしている。それくらい地味な作品ではあるが、団地というひとつの街がまさにできようとしていく過程をリアルに描いていて、貴重な作品だといえよう(この小説の内容については、ひばりタイムス連載「書物でめぐる武蔵野」27回の拙文を参照)。

 小説には62年12月からの数カ月間が描かれている。「クリスマスの十二月二十五日からのぞみが丘団地(注:東久留米団地のこと)の第一次入居が始まる」という記述がある。この作品はフィクションだとしても、年末の慌ただしい頃、「正月を新居で迎えようとする家族が大挙して」団地に引っ越してきたことは事実だっただろうと推察される。

 また冒頭の引っ越しシーンに、当時のまちの姿を描いた興味深い記述がある。

 《一九六二年十二月二十四日、午前零時過ぎ、まだ片側が造成工事中の新青梅街道を、中古のライトバンは…杉並区内から西へ向って走っていた。…欅の巨木を敷地内に抱き込んだ武蔵野の古い民家が黒々と蹲っている。…やがて所沢街道へと入る岐点で車は右に流れ込み、少し先の田無市内の六角地蔵脇からさらに右の道へ入った。…ライトバンは二年前に完成したばかりの、ひばりが丘団地に沿った道を通過した。ヘッドライトの中に次々に出現する同じ形の四角い建物は、ベランダ側を見せていた。…コンクリートの建物には生活の匂いがしみつき始めていた。》

 半世紀以上経って、団地はがらっと様相を変えたが、ここに描かれている経路はいまも変わっていない。道は記憶装置としても機能することがある。

 

S字の坂道

東久留米団地の入り口のS字の坂道。この坂を上ると団地が広がる

 

 車は団地に近づく。

 《やがて前方に、点滅する赤い灯が見えてきた。丘の上に立つ、航空信号塔。》

 この「航空信号塔」は長い間、高台にある東久留米団地のランドマークだった。そして、団地ができる前、ここはどういう場所だったかを物語るものだった。

 

ポツダム宣言を受信した通信秘密基地

 

 太平洋戦争中、団地周辺とその北部、現在の新座市、清瀬市にまたがるかなり広い地域に、旧日本海軍の「大和田通信隊」が置かれていた。その通信施設は、外交や軍事の外国無線の傍受を専門とする、いわば海軍の通信秘密基地の役割を担っていた。日本軍の真珠湾攻撃の際、米海軍の有名な第一電(「これは演習ではない」)を受信し、さらには「ポツダム宣言」も受信している。

 施設の関係者は3000人に上ったというから、小さな団地レベルだ。中心的な施設は、現在の新座市大和田にあり、いまは在日米軍基地となっている。東久留米団地一帯はすっぽりこの施設の範囲に入っていて(推定地域は下の地図を参照)、多くのアンテナが存在していたことが1943(昭和18)年の地図に記されている。

 

地図

海軍大和田通信隊の地図(1945年)。「久留米村」という文字辺りが団地に当たる(『東久留米の戦争遺跡』p60)

 

 敗戦後すぐ、日本の中央気象台が大和田の施設を接収した。ところが1950年7月、つまり朝鮮戦争勃発の翌月、米国陸軍第71通信隊が大和田の中央施設を使用することになった。状況が変わったのである。64年には米空軍の管理下となり、現在に至っている。

 そして東久留米の範囲は国有地となり、ここが東久留米団地の用地になった。この地区の通信施設は、50年に米空軍の管理下に置かれたものの、63年、それまで入間の米軍基地にあった運輸省航空管制本部が移転してきて、民間機の航行管制を行なうようになった(この施設は77年に所沢に移転。巨大なアンテナは団地の再開発もあって現在は存在しない)。東久留米団地とその地の航空信号塔の背景には、こういう軍事絡みの歴史があったのである。

 

航空管制用のアンテナ

1962年の東久留米団地と航空管制用のアンテナ(『光の交響詩』東久留米市教育委員会、2000年、p70)

 

 大和田通信隊については、東久留米市教育委員会による『東久留米の戦争遺跡』(2019年)が詳しく解説している。また阿川弘之の『暗い波濤』(新潮文庫)という作品にも登場するが、もっと知られていい歴史ではないだろうか。(ひばりタイムス連載「書物でめぐる武蔵野」5回も参照されたい)
(杉山尚次)

*連載企画「北多摩戦後クロニクル」の >> 目次一覧ページへ  

 

 

【主な参考資料】
・『ゆっくり東京女子マラソン』(福武文庫)
・東久留米市歴史ライブラリー1『東久留米の戦争遺跡』を刊行しました。(東久留米市教育委員会
・連載「書物でめぐる武蔵野」(ひばりタイムス

 

杉山尚次
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