書物でめぐる武蔵野 第35回
東久留米の水辺に古代人 身近に潜む意外な「物語」

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年11月23日

 前回、東久留米市にある旧石器、縄文、江戸にまたがる「川岸 (かわぎし) 遺跡」についてレポートしてあらためて感じたのは、この地にある古代遺跡の多さである。東久留米市は都内で唯一「平成の名水百選」に選ばれたこともあり「水のまち」を謳っているが、その自慢の川沿いには、ことごとく遺跡があるといっても過言ではないだろう。

 

南沢湧水

東久留米市の湧水。これを求め、多くの古代人が居を構えた

 

東久留米「観光」の核に

 

 下の図は前回も引用した、東久留米市内の「縄文時代前期遺跡」の分布図である。これだけでもけっこうなものだと思うが、この時代より前の「旧石器時代遺跡」や、市内では一番数が多い「縄文時代中期」を加えると、さらに川沿いは遺跡〝だらけ〟になる。

 

東久留米市の遺跡

『川岸遺跡 東京都東久留米市川岸遺跡発掘調査報告書』(東久留米市教育委員会 2003)より 番号は市が設定したもので、いくつかについては後述する。7番=下里本邑遺跡 8番=神明山南遺跡 14番=自由学園南遺跡 18番=三角山遺跡 44番=新橋南遺跡 3番=新山遺跡

 

 どれだけ本気なのかよくわからないが、東久留米市は「観光」に力を入れているらしい。ホームページをのぞいて「観光」で検索すると、「東京はしっこ☆チョコっと東久留米」というキャッチフレーズが出てきて、苦笑というか、でもこれはなかなかいいセンスではないかと思った。

 要は東京の〝田舎〟なのだから「きれいな水」は当然として、HPにある通りそこに生息する生き物はウリになるだろう。ならば、その周辺の遺跡はかなりの〝お宝〟だと思うがどうだろう。なにしろ旧石器時代 (3万年から1万年くらい前、とふり幅がある*) からこの川のそばで人びとが住み、生活を営んでいたわけである。これは「水」の観光的価値を高めるのに十分すぎるほどの要素だろう。
 *『東久留米のあけぼの 考古学にみる東久留米市の原始・古代』(東久留米市教育委員会、1999年)

 

 観光学*の知見を借用すると、「観光地」にはそれを構成する必須な要素が3つあるという。

 ① 観光資源
 ② 観光施設
 ③ 人的要素(ガイド等のもてなし体制)

 これらが揃い、アクセスの便利さが整うと、観光は総合産業として成り立ち、経済効果が上がるという。しかし、このうちの1つでも欠けていると「観光地」は成り立たない。たとえば温泉地だったら、温泉旅館だけが繁盛するのではなく、それをとりまくタクシーや土産店までが活性化しなければ、その観光地は持続できないということだ。
 *澤渡貞男『観光を再生する【実践講座】課題と手引き』(2021年、言視舎)

 これを東久留米市に当てはめてみると、アクセスはまあまあとして、②川周辺が「観光」用に整備されているとはいいがたいし、③はなきに等しいだろう。インバウンド需要を考えるなら、なおさらだ。ということは、現状の東久留米は「観光地」たりえていないのである。当然といえば当然だが。

 ただし、前述のとおり①は意外に充実しているのではないか。

 昨今の消費行動の特徴は「コト消費」にあるといわれている。つまり単にモノを買うのではなく、そのモノにまつわる状況や物語を「買う」ということだ。そうした「物語」がさらなる消費を誘う。東久留米には豊かな湧き水 (=モノ) に加え、旧石器時代から縄文時代の前期・中期にまたがり、数万年にわたる壮大な歴史が潜んでいる。多くの社会変動があっただろうし、謎も多い。いろいろな「物語」(=コト) が描けそうだ。この物語は観光資源といっていいと思う。

「水辺に立つと、何千年も前の古代人たちの息遣いが聞こえてきそう」なんちって。

 

旧石器時代の社会変動

 

『東久留米のあけぼの』

『東久留米のあけぼの』の書影

 では、具体的にどういう「物語」なのか。先に参照した『東久留米のあけぼの』は、旧石器時代から縄文時代中期までの解説にほとんどのページを割き、各時代の概論、それに対応する市内の遺跡について詳しく解説している。専門性もあるが、筆者のような素人でも理解できるありがたい本だ (川岸遺跡の調査が終わったら改定版を出してほしい)

 同書によると、東久留米市では古いものでは約3万年前、旧石器時代の石器などが発掘されている (上図の7番下里本邑遺跡、同8番神明山南遺跡)。そして市内の「旧石器時代で最も栄えたのは、今から1万8000年前頃の時期で、自由学園南遺跡 (上図14番) などの大規模な遺跡」もみられるという。どの遺跡も川べりにあることは言うまでもない。大規模な遺跡ということは、そこに暮らしていた人びとは狩猟採集しながら定住していたのだろうか。疑問は尽きない。

《遺跡の規模の違いや、焼けた礫のまとまりが増えることからも、かなり多様な生活が展開されていたようです。》《ところが、旧石器時代の最終末の時期になると、遺跡数が減り、遺跡の規模も小さくなってしまいます。》《つぎの縄文時代に向けて大きな社会変化があったようです。》(前掲書p45)

 ここで挙げた3つの遺跡をはじめとして市内の旧石器時代の遺跡は、縄文時代前期の遺跡と重なっていることが多い。しかし、それは穏やかな移行というわけではなかったようだ。日本に旧石器時代があったことが証明されたのは、1949年に群馬県の岩宿遺跡が発見されてからだが、旧石器時代⇒縄文時代への移行には解くべき謎がたくさんある。これも観光地をめぐる「物語」といえるだろう。

 

縄文時代前期の交通ネットワーク

 

 次は縄文時代前期 (紀元前3000~5000年) をめぐる物語である。例として、落合川沿いの新橋南遺跡 (95年に発掘、上図44番) を取り上げよう。この遺跡は東久留米市立第二小学校南に隣接し、前回紹介した川岸遺跡、三角山遺跡 (上図18番) と〝ご近所さん〟である。遺跡が存在した時間が重なれば、きっと〝ムラ〟を形成していたに違いない。

 ここでは住居跡が2つ見つかっていて、そこには石器を製造した跡が残っていたという。石器は、黒耀石などの武蔵野近辺で取れない材料でできている。それらは「長野県の和田峠、静岡県の柏峠、東京都の神津島」という複数の産地からやってきたようだ (前掲書p127)。つまり何千年も前から、この地はそういう地域と交通があったということになる (新石器時代から遠隔地をつなぐネットワークはあったようだが)。

 

新橋南遺跡

この茶畑の名残の左奥に「新橋南遺跡」があったと思われる。この小学校の卒業生としては驚きの遺跡だが、現在その痕跡は見当たらない

 

 では、交通手段は? この時代も川がものを言ったのではないか。

 縄文前期は「縄文海進」の時期で、温暖化によって水位が上がり、関東地方の内陸でも現在より海がかなり近かったといわれている。東久留米市内を流れる黒目川は朝霞市で荒川に注ぐが、そのあたりは海 (古入間湾) で、朝霞市には貝塚が残っている (朝霞市のホームページ)。とすれば、東久留米から、川から海へという水路を通り、想像以上の遠隔地と交流していたことが考えられる。

 縄文後期がメインの遺跡だが、東村山市の下宅部(しもやけべ)遺跡からは6メートルを超える大きな船が発掘されている (ひばりタイムス「北多摩クロニクル第39回  東村山で下宅部遺跡発見」)。そういう船に乗って、武蔵野の縄文人たちは海に漕ぎ出して行ったのではないだろうか。

 このようにみると、古代史を考えるにあたっては、現在の行政区分を越えた広い視野をもたなければならないことがわかる。「北多摩クロニクル」には、東村山市の下宅部遺跡のほかにも、西東京市の下野谷(したのや)遺跡、小平市の鈴木遺跡が登場している。それらはどんな関係があるのか・ないのか、そういうことを調べることじたい、観光の資源になるに違いない。

 

新橋南遺跡近くの落合川

新橋南遺跡近くの落合川。この木は蛇行していた川の中州みたいなところにあった

 

ムラはこつ然と消えた

 

 そして縄文時代中期には、さらに興味深い「物語」がある。

 前出『東久留米のあけぼの』に、中期後半の遺跡のひとつとして「新山 (しんやま) 遺跡」が取り上げられていて、興味深い記述がある。この遺跡は「ムラ」を形成するような大型遺跡で、祭祀の場、共同調理の場、墓域などムラの構造が4期に分かれ変遷している。
そして――、

《居住域が分散したのと同様に祭祀の場と共同利用の場もそれまでとは全く別の所に変わり、墓域も…移動しています。そして、新山ムラでは、この時期を最後に人びとの活動の痕跡がぱったりとみられなくなります。》(前掲書p150)

 つまり、ムラが消えてしまったというのである。現在から考えると、その前兆らしきものもある。このムラ「最後の住居」は、祭祀的要素がきわめて強い「柄鏡形 (えかがみがた) 住居」だという。縄文時代の遺跡に祭祀的な要素があるのは不思議ではないが、この形式の住居はそれまでには存在していない。何かを強く祈っていたのではないか、とこの本は想像している。では、何を祈っていたのか。

《柄鏡形住居がつくられた縄文時代中期の終わり頃は、自然環境が悪化して、それまでのように植物質食料が採れなくなった時期だと考えられています。…縄文時代の人びとは、自分たちの生活を支えてきた道具を祭り、再び豊穣な実りがあることを願ったのでしょう。》

 が、その願いもむなしく、ムラはこつ然と消え、「新しい場所で新しい生活スタイル」を求めた。(以上同p154 ~p155 )

 

新山遺跡の柄鏡形住居

新山遺跡の柄鏡形住居(前掲書p154)

 

 同書は、縄文期におけるムラの消滅など社会変動の原因を、食料事情と考えているようだ。

《縄文社会は、生産の発達にともなう人口の増加→自然物のとりすぎ→人口の減少(ほかの地域への移動)を、…何回かくりかえすことにな》った。(同p79)

 つまり、定住していた人びとが、自分たちの食料を支える自然物が周囲になくなったため、食べていくことができず家を捨てる、そういうことがくりかえされたという考えだ。

 

さらなる仮説

 

 とするなら、次のエピソードはどう考えたらいいだろうか。これは新山遺跡と同じ縄文時代中期後半 (紀元前2300年頃*) の川岸遺跡について前回も紹介した話だ。竪穴住居跡から縄文土器を埋め込んだ「埋甕炉 (まいようろ)」が発見されたが、それがすべて「意図的に壊された状態」だったというのである。
 *新山遺跡のこの時期について具体的な年代は記されていないので、川岸遺跡のものを流用する。

 ちなみにこの住居は、祭祀がからむ「柄鏡形住居」ではなかったようだ。そこでの生活を放棄するから壊したのだろうが、それはなぜ? と思ってしまう。破壊が「意図的」ということが気になる。弥生時代は「敵」に備えてムラの周囲を堀で囲った環濠集落が有名だが、縄文時代であっても、ここではそういう対立があったのだろうか? 政治的・軍事的理由でムラを放棄したのだろうか? などと妄想を膨らましていたところ、次の文章を目にした。

『反穀物の人類史』

『反穀物の人類史』の書影

《記録のない時期に人口密集地が放棄されたうちの相当多くは、政治ではなく病気 (引用者注:伝染病) が理由だったと考えてまず間違いないと思う。》(ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』p94、2019年、みすず書房)

 つまり、伝染病の壊滅的な流行があって、ひとびとはムラを放棄せざるをえなかったのではないか、ということである。だから、伝染をふせぐ「意図」をもって生活の場を破壊した、こう考えることはできないだろうか。

 ただこの仮説にはいろいろ問題がある。そもそも『反穀物の人類史』は、メソポタミア文明を主な対象として (注には日本の縄文時代についての言及はあるが)、国家の成立と農業、定住などの関係について詳しく研究した本だ。これまで、定住と農業が国家の形成につながったと考えられていたが、じつはそれらに因果関係はなく、定住や作物栽培は、初期の国家が生まれる4000年も前だったという「常識破り」や、初期の国家は伝染病に悩まされたことが何度も述べられている。

 まず、メソポタミアについて考えられたことを、日本列島にどこまであてはめられるかという問題がある。また先の「伝染病説」は、紀元前3000年代半ば、メソポタミアに初期の国家ができたかできないかの頃の話なので、縄文中期末の遺跡放棄とは時代的に1000年ほど離れている。

 にもかかわらず、「意図的な」破壊の原因は伝染病の蔓延ではないか、という仮説は捨てがたい。

 食料か、あるいは戦争か、伝染病か、なにやら現在のことみたいだが、日常的に目にする川にも、これだけの「物語」が潜んでいるのである。

 

川岸遺跡

川岸遺跡があったあたり (フェンスの向こう、かつては高台だった) は「意図的に」壊され、調整池となる(2023年11月撮影)

※連載のバックナンバーはこちら⇒  

 

杉山尚次
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書物でめぐる武蔵野 第35回
東久留米の水辺に古代人 身近に潜む意外な「物語」
」への2件のフィードバック

  1. 1

    「東久留米のあけぼの」を取り上げていただき感謝します。20年以上経つので訂正しなければならない点やその後の調査成果を載せて改訂したいのですが!

  2. 2

    またまた、コメントをありがとうございます。
    改訂版はぜひ読みたいですね。編集でしたらお手伝いします。

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