北多摩戦後クロニクル 第26回
1970年 郡内最後の町が市となり「北多摩郡」が消滅 三多摩に潜む複雑な住民意識

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年6月27日

 1970(昭和45)年11月、北多摩郡最後の町である村山町が市制施行・改称し、武蔵村山市となった。この結果、属する町がなくなった「北多摩郡」は、1878(明治11)年以来の歴史を閉じた。「さよなら北多摩郡」というイベントがあったわけではないし、もう半世紀以上前の出来事である。そもそも「北多摩郡」という言葉にピンとくる人はどれくらいいるだろうか。しかし、「区じゃないほうの東京」の消滅から誕生へとさかのぼると、この地域の意外な歴史が見えてくる。

 

 

武蔵村山市制記念式典

武蔵村山市制記念式典の様子(1970年、提供:武蔵村山市)

 

北多摩郡最後の年

 

 60年代後半、高度経済成長の流れにのって〈東京〉は膨張を続け、姿を変えていた。それまで「都下」ともいわれ、「郡」に属していた二十三区以外の地域の「町」は次々に「市」となり、「郡」から離脱していった。

 戦後の時点で北多摩郡は22の町・村で構成されていた。それが62年には11の町になっている。つまり半減した。ちなみにこの年、市になったのは小平町だった。

 64年に東村山町、国分寺町、67年は国立町、田無町、保谷町がそれぞれ市となり、北多摩郡に残るのは5つの町だけとなった。

 そして70年10月、狛江町が狛江市、大和町が東大和市、清瀬町が清瀬市、久留米町が東久留米市となって北多摩郡を離脱した。残ったのは村山町だったが、前述のように翌11月3日には村山町も市制施行・即日改称して武蔵村山市となり、北多摩郡を離脱した。

 住んでおられる方には失礼な言い方になるが、この村山町は「東村山市」の村山ではない。北多摩郡には「東村山町」と「村山町」があったということだ。東村山町は一足先に64年に市制施行し、北多摩郡を離脱している。

 こうして同日、北多摩郡は消滅した。

 当時、「三多摩」という呼び方がされていた。そのひとつの南多摩郡も、八王子や町田が市となり、71年に消滅している。

 西多摩郡は現在も存在している。瑞穂町、日の出町、奥多摩町、桧原村の3町1村である。

 

要するに、どこも「市」になりたがっていた

 

 さて、北多摩が消滅したことで、何かが変わったのだろうか。当時の「郡」には「郡長」がいたわけでもなく、実質的には地理的な区分にすぎなかったから、行政的に市長が代わったときのような変化があったとは想像しにくい。では、市民レベルではどうか。

 

東久留米市市制の式典

東久留米市市制の式典の様子『光の交響詩』(東久留米市教育委員会、2000年、p182)

 

 北多摩郡が消滅した70年、久留米町の小学6年生だった筆者は、その変化を経験しているはずだが、そもそも「郡」がなくなったことを意識したことはなかった。

 とはいっても、町が市になったことで自分の住所を書く際、「北多摩郡」を省いていいことには気づいていたので、逆に「自分が住んでいるあたりは東京の田舎扱いだった」ことを少し自覚した気がする。

 東久留米市の市制の開始は、ちょっとした騒ぎだった。学校で、祝賀行事があることを知らされ、紅白餅が配られたのではなかったか。「餅」は記憶違いもありうるが、「久留米町を久留米市にすると、九州と同じになってしまうから、東久留米市なんだ」という説明があったのは確かだ。

 60年代、北多摩の町が次々に市となり郡を離脱していくなかで、久留米町は70年に日本一人口の多い「町」となっていた。言祝ぐべき「日本一」なのかはわからないが、この人口増もあって、久留米町は東久留米市になった。

 その原動力は団地である。久留米町には59年にひばりが丘団地ができ(ただし、この団地は田無町、保谷町にまたがる)、62年には東久留米団地が、さらに68~70年に滝山団地がつくられた。この3つの大型団地による人口増のおかげで、久留米町は市になることができた。

 

滝山団地

1969年、完成した頃の滝山団地、遠方に久留米西団地が見える。団地は東久留米市誕生に寄与した。『光の交響詩』(東久留米市教育委員会、2000年、p72)

 

 このことを調べていて面白いエピソードを見つけた(『保谷市史』)。54年頃、久留米村、田無町、保谷町が合併して「市」になるという構想があったようなのである。この構想に対して、保谷側から、久留米と一緒になっても規模的にあまりメリットはないから、田無、小金井、そして当時市になっていた武蔵野と一緒になってより大きい市になるのはどうか、という意見が出たようだ。しかし調整はつかず、合併話は流れた。結局、どの自治体もわが道を行って、単独で市になったというわけだ。

 この合併話のベースは、53年の「町村合併促進法」にある。「平成の大合併」のようなことがこの時代にも進められていたことになる。そしてその淵源はGHQの「シャウプ勧告」にあるようだから、「アメリカの影」がちらついている。ともあれ、田無と保谷はかなり昔から一緒になろうとしていたようである。

 

ひばりヶ丘駅ホーム(1971年)

通勤客であふれる朝の西武池袋線ひばりヶ丘駅ホーム(1971年、西東京市図書館所蔵)

 

「三多摩」という意識

 

 さて、北多摩郡の消滅とは、〈武蔵野〉の減少といってもいいだろう。武蔵野の雑木林や畑は切り拓かれ、都心で働く人のベッドタウンとなった。この「ベッドタウン」という言葉に微妙な反応をしたのは、テレビドラマ『孤独のグルメ』の原作者であり、三鷹市出身の久住昌之である。氏は、自伝的エッセイであり、自分が生まれ育った地域を散歩するその名も『東京都三多摩原人』(朝日新聞出版、2016年)という本の冒頭でこんなことを書いている。

 「小学校の低学年の時『わたしたちのみたか』という授業で、『三鷹は東京のベッドタウンのひとつです』と先生が言ったのが、強く心に残っている。三鷹は『東京』ではない、という言い方だ。(略)東京というのは、新宿の向こうの二十三区のようなイメージがあった。ごくたまに両親とデパートに行くところだ。おでかけでするところだ。」

 氏は1958年生まれだから、小学校低学年は60年代半ばのこと。三鷹は50年に市になっていて「北多摩郡」は〝卒業〟しているのに、「自分たちは東京都の三多摩に属しているという意識が植えつけられていた」とも述べている。

 三鷹が市になったのは、東久留米に比べ20年も早い。にもかかわらずこういう意識があるということは、旧北多摩の住民には「東京なのに東京でない」という意識が長い間共有されていたということではないだろうか。

 

『東京都三多摩原人』のカバー

『東京都三多摩原人』のカバー。三多摩のだいたいのエリアがわかるようになっている

 

 こうした屈折した意識はかなり根深いと思われる。作家の三浦朱門の作品に『武蔵野インディアン』(81年刊、河出書房新社)という小説がある。この小説でいう「武蔵野インディアン」とは、東京以前から「先祖代々」この多摩地区に住み続けている人びとのことを指す。つまり「ネイティブ」な多摩住民のことで、屈折の度合いは高度経済成長に大量にやってきた新参者どころではない。小説の中でネイティブのひとりはこんな発言をしている。

 「おい、日清戦争の前の年まで、今の東京都下は神奈川県だったのを知っているか。都内に対して都外というならわかる。都の外だから、なら、多摩県でもいい、神奈川県でもいい。しかし、都下という言い方、いかにも東京白人の発想だ。植民地扱いじゃないか」

 というわけで、自分たちは「東京白人」に侵略された「武蔵野インディアン」だと主張する。多摩地域の「東京」コンプレックスは、明治時代までさかのぼるといえそうだ。

 そもそも「三多摩は神奈川県だった」というエピソードは、先の『東京都三多摩原人』にも登場する。それが「三多摩格差」や三多摩の屈折した意識に直接つながっているかは疑問だが、この地域の古層には一筋縄ではいかない歴史が潜んでいる。

 

かつて三多摩は神奈川県だった

 

 江戸時代から多摩地区にあった村々は、維新後、品川県に属した。1871(明治4)年に廃藩置県で品川県が廃止されると、多摩の村々は一時入間県の管轄となったが、翌年神奈川県に編入された。さきほどのネイティブ氏の言っていたことはこれである。

 そして1878(明治11)年「郡区町村編制法」が施行され、多摩郡は四分割された。北・南・西の三つの多摩郡は神奈川県に、東多摩郡(中野など)は東京府に属するようになった。つまり北多摩郡は、誕生したときは神奈川県に属していたということである。この郡には郡役所も設置されていた(1926年に郡役所は廃止)。

 東京府としては、江戸時代から東京の「水がめ」である三多摩が神奈川県に属しているのはおもしろくないわけで、東京に編入しようと画策していたようだ。しかし、これは神奈川県に反対されて、実現しなかった。

 局面が変わったのは、1889(明治22)年、甲武鉄道(現在のJR中央線)が新宿から八王子まで開通したときだった。これをきっかけにして、1893(明治26)年、三多摩を東京府に編入する法律案が帝国議会に提出され、僅差で可決成立、同年4月1日、三多摩地区は東京府に編入されたのである。

 こうした動きのなかで意外なのは、保谷村が神奈川県の北多摩郡に入っていないことだ。保谷村は神奈川県ではなく埼玉県に属し、北多摩が東京府に移管した後、1907(明治40)年に東京府北多摩郡に編入されている。

 

地域内の「競争」?

 

 最後に北多摩内の村⇒町⇒市の変遷についてふれておこう。

 田無が町になったのは1889(明治22)年で、三鷹が1940(昭和15)年だったのと比べても北多摩地区のなかでとびぬけて早い。これは鉄道網が発達するまで交通の要衝だった田無のポジションをあらわしていると思われる。

 これが市制開始となると、三鷹は前述のとおり50(昭和25)年、田無は67(昭和42)年で圧倒的に差がついている。田無が町になった年に開業した中央線が田無を通らなかった影響は、こんなところにもあらわれているといえるだろう。

 北多摩北部の自治体が「町」になった順番を挙げる。
 田無(1889)⇒武蔵野(1928)⇒保谷、三鷹(40)⇒東村山(42)⇒小平(44)⇒清瀬(54)⇒久留米(56)

  次は「市」になった順。
 武蔵野(47)⇒三鷹(50)⇒小平(62)⇒東村山(64)⇒田無、保谷(67)⇒清瀬、東久留米(70)
(杉山尚次)

*連載企画「北多摩戦後クロニクル」の >> 目次ページへ 

 

【主な参考文献】
・サイト「変貌―江戸から帝都そして首都へ」(国立公文書館
・『田無市史 第三巻 通史編』
・『保谷市史 通史編 3 近現代』
・各自治体のホームページ

 

杉山尚次
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1970年 郡内最後の町が市となり「北多摩郡」が消滅 三多摩に潜む複雑な住民意識
」への1件のフィードバック

  1. 増田弘邦
    1

    多摩六都科学館のように、多摩六都が北多摩市となるのがいいと思います。保谷と田無学合併する時、西東京でなく、北多摩市とすべき時考えていましたか。

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