書物でめぐる武蔵野 第33回 歴史街道―スズキさんと極楽将軍

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年9月21日

 今回も東京を南北に走る2つの道について述べたい。2本立てになっていて、前半は国道16号線で1990年代、近過去が舞台。後半は鎌倉街道の続きで、『太平記』の世界を散歩する。

 

国道16号線

春日部市あたりの国道16号線 暑かった夏の記憶

 

国道16号線紀行

 

 前回も少しふれたが、国道16号線は横須賀から相模原、横田基地の横を通り、川越、春日部という埼玉ゾーンを経て、野田、千葉を抜け木更津に至る、大規模な環状道路である。この道を横須賀から木更津まで「アメ車」でドライブした紀行文が1冊の単行本になっている。

 

書影

『16号線ワゴントレイル あるいは幌を下げ東京湾を時計回りに』

 

 『16号線ワゴントレイル あるいは幌を下げ東京湾を時計回りに』という本で、書いたのは矢作俊彦。出たのは96年(二玄社)。矢作俊彦は探偵もののハードボイルド小説の作家として知られているが、90年刊(連載は88年から)の『スズキさんの休息と遍歴 またはかくも誇らかなドーシーボーの騎行』という一風変わった小説(新潮社)が評判になっていて、その流れの1冊ともいえる。

書影

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 『スズキさん…』はフィクションだが、ある種のモデル小説で、「スズキさん」はこの小説が連載されたクルマ雑誌『NAVI』(二玄社)の編集長がそれらしき人物と推定される。

 小説『スズキさん…』は、

、スズキさんはその日生れてはじめて有給をとった。》

 で始まる。「で」の文字は通常の本文の3倍ほどの大きさで、赤文字になっている。このとぼけたというか、どこまでがマジでどこからが冗談かわからない世界が、『スズキさん…』と『16号線…』を貫いていて、実際『16号線…』にも「スズキさん」は登場する。

 「スズキさん」的なるものは、社会主義崩壊以降も左翼的思考を、集団ではなくあくまでも個人として貫こうする姿勢=自己原則=倫理である、と解釈してみたい。それもセンス良くなければならないというシバリもある。

 この頃、実在する鈴木正文さんが編集する雑誌『NAVI』は元気で、「エンスー*」(熱狂者エンスージアストenthusiastの略)という概念を広めるなど、社会批評を内包したクルマ雑誌とみる向きもあった。いまから考えると、90年代には『NAVI』的なるカルチャーがあったということができるかもしれない。

 *「エンスー」という略形は、2007年に亡くなったイラストレーター・エッセイスト渡辺和博が『NAVI』の中で用いたことから使われるようになったといわれる。

 

〈郊外化〉する社会

 

 というわけだから、『16号線…』は矢作俊彦による、「スズキさん」的な社会批評を内包する紀行文といっていいだろう。第1章は横須賀から相模原まで、ルート16が米軍のための軍事道路であったこと、ただ日本のなかのアメリカについては、どうしても両義的になること(単純な対米従属批判にならない)が述べられる。なにしろ乗っているクルマは、アメ車の代表のようなオープンエアのカマロなのだから。

 第2章は相模原から川越まで、第3章は川越~春日部、第4章は春日部~木更津となっている。興味深いのは、刊行から30年近く経っているのに、〈郊外〉について語られていることが、いまも成り立っていると感じられることだ。

 《都会でもない、田舎でもない。人に何の感興も与えない、どうでもいい風景》p75
 《「…郊外こそ加速度的に画一化どころか均一化しつつあるんじゃないかな」「東京近郊の風景がこれ以上貧しくなることもないんじゃないか」「殺伐とした景色の集大成」》p90~92
 《「そういう風景が世界を侵犯してるだろ、まるで一頃のファミレスやコンビニのように」》p147

 日本中が〈郊外化〉していき、「安全・安心・便利・快適・コスパ」という価値観が社会を席捲してきた事態は、すでに90年代に始まっていたということだ。この本の随所に散らばっている「埼玉」や「千葉」への罵詈雑言は、郊外的なる価値観に対するものだと考えれば理解できなくはない(納得しているわけではないが)。

 ついでに、東京については、こういう発言がある。

 《「この国のどこに都会があるんだよ」「それは今に始まったことじゃない。九州の田舎侍が大挙して押しかけて、江戸が二百五十年かけて培った都会の素(もと)みたいなものを台無しにしてしまったんだ。…東京は…巨大な村なんだ》p148~149

 要するに「田舎」的なるものの完全否定なのだが、では単純に二項対立的な価値が定立されているのかというと、そんなに単純ではないのが、矢作俊彦なのである。

 《近頃、車は、人を高揚させる、言わば〈命に係わるほどの馬鹿馬鹿しさ〉を、完全に失ってしまったふうなのだ。/その点、まだまだ、このカマロなんかには、そうした〝馬鹿馬鹿しさ〟の残滓のようなものが漂っている。》p130

 この両義的な「馬鹿馬鹿しさ」の説明はこのように続く。

 《私の言う馬鹿馬鹿しさとは、雨の日に傘をさしてモーガンに乗るスズキさんの馬鹿馬鹿しさであって、雨の日にわざとびしょ濡れでカブリオから降りてみせる羽賀研二の馬鹿馬鹿しさではない》p131

 わかるような、わからないような……、羽賀の行為はこれ見よがしの「田舎者」のそれだが、スズキさんは自己原則(格率)としてそれをやっている、と解釈したらいいだろうか。「田舎者」の何が悪い、気障で鼻もちならない、という反論も成り立つが、「馬鹿馬鹿しさ」を幾重にも反転させていくような論理には惹きつけられる何かがある。

 ただし、スズキさんの思考やスタイルを真似しては意味がない。あくまでも自分の倫理であり、些末なことでも自分に課した原則を貫くことである。これはどこか村上春樹の主人公に通底している気がする。それは圧倒的な同調圧力に抗する、ひとつの方法かもしれない。

 ところで、馬鹿馬鹿しくも心躍らせるというような両義性を人物造型に使い、とことん馬鹿なんだけれど凄いというキャラクターが登場する作品に遭遇した。次節で紹介しよう。

 

合戦にうってつけの地

 

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 さて、ここからが後半である。
 前回、府中街道と重なる部分の鎌倉街道について、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした際この道を通ったことを少し述べた。それは『太平記』の時代にあたるわけだが、最近、この時代をめぐる話題の書が出た。今年の直木賞を受賞した垣根涼介『極楽征夷大将軍』(文藝春秋、2023年)である。中心に描かれるのは室町幕府を開いた足利尊氏とその弟・直義と足利家を執事として支えた高師直。この3人を軸に鎌倉幕府の滅亡から、建武の新政を経て室町幕府の成立までの動乱を〝シーソーゲーム〟あるいは〝オセロゲーム〟のようにたどる歴史エンターテインメントだ。

 読んでいて、本筋ではないが、気になっていたことがわかった。次のくだり。

 新田義貞が、幕府打倒のために挙兵すると、《近隣(注:上野の国や武蔵の国など)の源氏系御家人も即座に呼応した。新田軍はすぐに、二万以上の軍勢に膨れ上がった。その余勢を駆り、義貞は南下していった(注:その経路が鎌倉街道)。随所(注:小手指や久米川)で鎌倉から出張ってきた北条一門の軍と戦いを繰り広げながら……》(p167)とある。

 気になっていたのは、府中街道あたりで新田勢を迎えたのは、どういう勢力だったのか、ということだった。引いたのは小説だが、こういうところをフィクションにしても意味がないので、記述を信じると、鎌倉からわざわざ北条勢が出張ってきたことになる。家の存亡をかけているのだから、当然といえば当然だ。

 諸勢力から近い・遠いというよりも、この府中街道近くの小手指という場所は、合戦に向いた地(形)なのかもしれない。というのも、小手指ヶ原における合戦は、この1333年の1度だけではないからだ。

 

尊氏のイメージ

 

 それを述べる前に、この小説の最大の特徴についてふれておかなければならない。それは本作の主役中の主役である足利尊氏(高氏)のキャラクターである。

 足利尊氏といえば、どちらかといえば悪役イメージである。後醍醐天皇にしたがって鎌倉幕府を滅ぼしたが、やがて後醍醐帝と対立し、天皇親政から武家に政権を奪い返し、室町幕府を開いた。天皇を裏切ったから朝敵であり逆賊だというのは皇国史観的だが、楠木正成=善玉/尊氏=悪玉というのはわかりやすい図式だ。少なくとも尊氏には正義の人みたいなイメージはない。

 なにしろ鎌倉幕府をともに倒したいわば同志であり、源氏の一族でもある新田義貞と袂を分かつだけでなく、最終的にはこれを武力で潰している。幕府が成立した後も、自分の参謀であった高師直と実の弟・直義の内ゲバ(観応の擾乱)があり、尊氏は直義を毒殺したという説まである。結果的に悪者になってもおかしくない履歴だと思う。

 さらに尊氏の肖像とされていた京都国立博物館蔵の騎馬武者像がその「悪い」イメージを助長していた。しかし近年、歴史教科書の肖像画の定説が崩れている。源頼朝のそれがかなりあやしいという話もよく聞くが、同様に上記の尊氏の像は、高師直であるという説が「最有力」のようである(『極楽征夷大将軍』p288)。

 

尊氏のイメージ

足利尊氏とされてきた像

 

能天気な将軍

 

 このいわば武骨な尊氏像とはまったく違ったキャラクーをつくり上げたのが『極楽征夷大将軍』である。尊氏は子ども時代から、覇気も、野心も、自信もなく、能天気な人物として描かれる。万事いい加減で、文武にも励まず、だいたいのことにおいて無能。大切な実務も優れた弟である直義に押し付ける始末。〝極楽とんぼの殿〟と周りは評価しているし、自己評価も同様。自分が〝軽い神輿〟であることも自覚している。しかし、何事にもこだわりがなく徹底的に〝無私〟であるがゆえに、その姿勢に人びとは心服する。そしてなにより、いくさには猛烈に強い。いざというとき、その力が十全に発揮され、ますます人望が上がる……。

 ふだんはヘタレ男だが、実は特異な潜在能力があり、それがときおり噴出して物語が展開する。ダメダメなのにすごい男の物語としてこの〝太平記〟は構成されている。まずキャラクターがあり、そこからストーリーが派生するという構造は、マンガやテレビドラマなどエンターテインメントの創作においては基本らしい。キャラクターがストーリーに先行するのである

 歴史小説の作者である垣根涼介が、最初にそのようなキャラクターを思いつき、史実にあてはめたといいたいわけではない。ただ、あたかもキャラクターから流れ出る物語のように尊氏たちの歴史が語られているのは面白い。

 *大石賢一『マンガ原作バイブル』、浅田直亮『ちょいプラ!  シナリオ創作術』参照。ついでにいうと、キャラが立った存在は、それらしい行動を生むし、彼(彼女)ならではのセリフを吐く。前半に挙げた「スズキさん」にもこれがあてはまる、といえる。

 

小手指ヶ原の合戦は1回だけではなかった

 

 この作品で尊氏は2回だけ「自らの明確な意思で動いたことがあった」とされている(p543)。どちらも連戦連敗の弟・直義を救うための行動だった。1回目は建武の新政後、北条家の残党が乱を起こしたとき、2回目は直義が新田義貞に東海道筋で負け続けたときのことだった。足利軍が逆転にいたるくだりは、なかなかの感動をもたらしてくれるのだが、この1回目の負け戦において、「小手指ヶ原の戦い」つまり府中街道近辺が登場する。今度は足利が鎌倉を守る立場である。ずいぶん寄り道したが、ここでやっと小手指ヶ原の戦場にたどりついた。

 

書影

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(1335年7月)二十二日の未明には、今河範満の軍が入間郡小手指ヶ原にて、さらには正午には小山秀朝の援軍が武蔵の国府のある多摩郡は府中にて、立て続けに敗れた》(今河、小山とも足利方、p236)

 実は、小手指ヶ原は少なくともあと1回、戦場になっている。しかし、それは師直や直義の死後なので『極楽征夷大将軍』には載っていない。

 そこで『マンガ日本の古典 太平記』(さいとうたかを、中央公論社)をみると、ほとんど最後のページにあった。

 足利家の内ゲバである観応の擾乱がひと段落つきそうになっても、南朝勢との争いは続いていて、そこで3回目の小手指ヶ原の戦場が登場するのである。

 1353年、尊氏は南朝方である新田義貞の子らと「小手差原」(原文のまま)で戦い、これを一掃したということだ。やはり尊氏が強かったのは間違いないようだ。

 それにしても、小手指といい、鎌倉街道といい、思わぬ歴史がねむっている。それらをもう少し意識するだけで、〈郊外〉とひとくくりにされる場所が、ちがってみえてくる、というのが今回の結論。

 

太平記

『マンガ日本の古典 太平記 下』p266 ここではいかつい尊氏

(杉山尚次)

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杉山尚次
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