書物でめぐる武蔵野 第32回 東京を「輪切り」にしてみる

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年8月24日

 東京には環状になった交通路がたくさんある。たとえば環状8号線。しばしば渋滞している印象があり、あまりいいイメージはないが、これはどこまで続いているのか? と考えてみると、ちょっと謎めいてこないだろうか。前回の「武蔵野線」「16号線」に続いて、都心から武蔵野地域にかけて南北に縦断する交通路について考えてみたい。

 

府中街道

府中街道。すぐ先が八坂の新田義貞伝説のある「多叉路」

 

東京の環状道路

 

「東京人」表紙

(クリックで拡大)

 同じような趣味(?)をもつ人がいるらしく、ちょっと前に出た雑誌『東京人』の特集は「東京の環状道路」 (2022年3月号) だった。

 そこで取り上げられているのは環状1号線から同8号線。表紙の図でだいたいの感じがわかるが、環状1号線とはどの道を指すのか、ご存じだろうか。「環7カンナナ」「環8カンパチ」があるのだから、「カンイチ」もあるのだろうが、それは知らなかった、というより、考えたことがなかった。

 なんのことはない環状1号線は「内堀通り」で、同2号線は「外堀通り」である。言われてみると、これは納得しやすい。

 それに比べ、環状3号線、4号線が、それぞれ「外苑東通り」と「外苑西通り」というのは意外というか、この「通り」の名自体、それほど知られていないのではないか。いま再開発による環境破壊で揺れる神宮外苑の東側(信濃町駅あたり)と西側(千駄ヶ谷駅あたり)を平行して南北に走っている。「環状」というほど「環」ではないが、そうする計画だったようだ。

 関東大震災からの復興のため、環状6号線~8号線は、1927(昭和2)年に東京市の特別都市計画委員会によって計画された道路だった。このとき環状1号線~5号線も計画されたというより命名されたようだ。1~5号線の実態は「既存の道路をいわば無理やりつなぎ合わせ」たものだったという(内田宗治「都心の環状ネットワークの成り立ち。」前掲の『東京人』)。

 

曙橋は後から架けられた

 

 「外苑東通り」についてうんちくを少し。この通りを信濃町から北上すると曙橋に出る。曙橋は谷間のような靖国通りを跨ぐなんでもない陸橋なのだが、「跨ぐ」にはかなりの時間を要した。架橋計画は、前述の環状道路計画と連動していて戦前からあったが、戦争のために頓挫し、開通したのは戦後の1957年のことだった。ということは、曙橋のところで道路は北と南に分断されていたということだ。

 この陸橋周辺は、東京特有の凸凹地形が感じられる構造をしている。四谷三丁目の交差点から外苑東通りを北へ、花街である荒木町の横を通って坂になっている車道を下っていくと「曙橋」である。橋の向こうの右手には陸軍士官学校(現在防衛庁)があったわけだが、この道が曙橋のところで途切れているとなると、ほとんど役立たたずの道路だったろうと想像できる。

 ということを、野坂昭如が『東京十二契』(85年、文藝春秋)という東京をめぐるエッセイ集で書いていたはずで、それをいつものように引用しようと思っていたのだが、どうしても同書が見つからない。やむやく割愛。

 

「牛込柳町」を有名にしたのは……

 

 外苑東通りをさらに北に行くと、大久保通との交差点「牛込柳町」に出る。この地は、現在大江戸線の駅にもなっているが、70年代、あまりありがたくないことで有名になった。東京ではモータリゼーションが進み、いたるところで交通渋滞が発生していた(現在もそうだが)。牛込柳町でも渋滞が頻繁に発生、交通量に比べて道が狭く、窪地にあるため自動車排気ガスがたまりやすく、汚染の深刻化が指摘された。70年に民間の調査で付近の住民の血中から高濃度の鉛が検出され、「柳町鉛害事件」といわれた。また住人からは呼吸器系疾病が見られ、「柳町ぜんそく」とも呼ばれるなど、この公害報道によって、牛込柳町の名は全国区になったと記憶している。

 「住民の血中から」というと、前回でも述べたPFAS問題を彷彿される。公害被害については公の調査は不可欠である。牛込柳町の汚染について、その後の都による調査では、当初報道された水準の汚染は確認されなかったようだ。しかし、大気汚染と血中鉛濃度の関連は指摘されており、この事件は日本における有鉛ガソリンに対する規制強化のきっかけとなった。
 ※wikipediaを参照したが、その出典は朝日新聞 1970年5月22日 東京版朝刊 3面「排気ガスで広がる鉛中毒 新宿・牛込柳町交差点」である。

 

痕跡と伝説

 

 牛込柳町から外苑東通りを北に少し行くと、早稲田の鶴巻町でこの通りは一応「終点」である。ただし、環状3号線ということになると、「ここもそうなのか」という部分や構想の痕跡が存在する。「無理やりつなぎ合わせて」環状と呼ぼうとしたのだから仕方ないが、たとえば言問通りや三ツ目通りも環状3号線の一部なんだそうである。

 痕跡のほうはちょっと面白い。東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅近くに妙に広い坂道がある。桜の名所としても有名な「播磨坂」なのだが、これが掌編小説の舞台になっている。『坂の記憶』(岡康道、麻生哲朗著、スペースシャワーネットワーク、2013年)という東京の坂道を舞台にした小説集なのだが、冒頭の神楽坂の次にこの播磨坂が出てくる(次は狸穴坂で、都心の30の坂道が舞台、特別編で国立のたまらん坂も)。そのなかでこの道の紹介がいい感じなので引用する。

《この坂道は本来なら外苑東通りにつながる計画だったらしい。なぜか開通に至らず、結局は局地的に整備されてしまっただけという、もはや行き場のない坂道なのだそうだ。/ただその見切り発車がある種の奇跡を作ったというか、十数年前に道の真ん中が遊歩道に姿を変え、それはかつてから車道沿いに植えられていた桜の木々にとっては、恰好の観客席を作られた形になり、ここは今では都内でも随一の桜の名所と呼ばれている。》p11

 

書影(左)と播磨坂(右)同書p15

 

 先を急ぐと環状5号線と6号線は、明治通りと山手通りなので、これはわかりやすい。渋谷から池袋あたりまでは、山手線を内側と外側からはさんでぐるっと回っている感じになる。

 そして環状7号線は、大田区の平和島から江戸川区まで文字通りの環状なのに対し、環状8号線は大田区羽田空港から北区赤羽までで、環になっていない。

 ところで「環8雲」という言葉をご存じだろうか。環8の渋滞が激しく、その排ガスによって道路に沿うようにして雲が発生している、という話だ。テレビでそういう報道があった記憶がある。先の牛込柳町を想起させるが、どうもこれは都市伝説に近いらしい。排ガスだけでは雲はできないというのがその理由。東京湾と相模湾から吹く風が環8周辺でぶつかり合い、上昇すると雲になる、これが環8雲の正体のようだ。ただ環8雲は排ガス雲ではないものの、ぶつかった風が上昇するのには「ヒートアイランド現象」が関係している。環8雲は環境問題と無関係ではないらしい。
 ※「環8雲」については、東京新聞web2020.7.28布施谷航の記事によった。

 

現代版「朱引き」

 

 江戸時代の地図には、ここまでが「江戸」であることを示す「朱引き」という境界が描かれていた。その後も、境界を示すメルクマールは多数存在している。現在の「23区」もわかりやすい線引きだ。1871(明治4)年の廃藩置県で整備された「東京府」という区分にもそういう機能があり、そこに入らなかった多摩の村々は、しばらく神奈川県に属することになった。

 いつの時代でも都市には、その領域を示す区分が必要なのだろう。現在も行政は、災害時を想定して、東京の中に明確な線引きをおこなっている。その指標が環7である。

 「東京で震度六以上の地震が発生した際には、…環7から内側への流入は禁止という交通規制が行われる」(内田宗治「都心の環状ネットワークの成り立ち」。前掲の『東京人』)。警視庁による電光掲示もすでにされているようだ。環7は現代版「朱引き」という側面ももっている。

 

環7

写真は前掲「東京人」p31から引用

 戦前、環8周辺は〈郊外〉ととらえられていた。たとえば井伏鱒二の『荻窪風土記』にも荻窪あたりの糞尿譚が出てくる。環8周辺はそれくらい田舎だったということだ。だから、東京の都市部とそれ以外を区分する環7という指標は、それなりの理由があることになる。

 ただ、東京は膨張を続け、〈郊外〉は西進した。かつて環8は東京の〈郊外〉を走っていただろうが、現在ここを〈郊外〉というのは無理がある。東京の〈郊外〉を南北に貫く象徴的な道路というと、前回取り上げた国道16号線になるだろう。もっともこの道は、東京圏の西の限界ではないか。そこで環8とルート16の間に、もう1本〈郊外〉の道を指摘してみたい。

 

府中街道は鎌倉街道である

 

 それは「府中街道」である。東村山から新青梅街道を南に越え、小平、国分寺を経て府中、そして川崎に至る。東村山から府中にいたる経路では、JR武蔵野線と平行して走っている。この道は〈郊外〉を走っているといえるだろう。

 

概念図

東京を輪切りにする概念図

 

 同時にこのあたりの府中街道は、鎌倉街道と重なっている。鎌倉街道というのは少なくとも鎌倉時代からの古道で、鎌倉に事があると「いざ鎌倉」ということで、御家人がはせ参じるための道だった。なので鎌倉街道は複数ある。その中で、この府中街道と重なるルートは、高崎から鎌倉を結ぶ「鎌倉街道上道」にあたると思われる。

 その根拠と思しき伝承が東村山市の八坂に残っている。
 『東京「多叉路」散歩 交差点に古道の名残をさぐる』(荻窪圭、淡交社、2020年)という本があり、府中街道の東村山市・八坂にある「多叉路」が紹介されている。

 《伝承によると、この交差点に「迷いの桜」があった。鎌倉幕府最後の年になった1333年、新田義貞が上野国から鎌倉を攻めるために通過する際、この辻でどれが鎌倉への道か迷ったので、道しるべとして桜を植えさせた》(p12)。

 

 もう少し説明すると、1333年、新田義貞は打倒北条高時のため地元である上野の国で挙兵した。そののち鎌倉へ攻め入り、鎌倉幕府を滅ぼすことになる。このときの経路がまさに鎌倉街道で、鎌倉街道は鎌倉を滅ぼす道となった。そのため、鎌倉街道の一部をなす府中街道の周辺には、このときの古戦場跡がある。

 

書影と八坂の多叉路の図

書影(左)と八坂の多叉路の図(右)同書p13

 

 まず新田勢は鎌倉街道を南下して「小手指原の戦い」で幕府方を破る。この「小手指」は埼玉県所沢市にあり、西武池袋線にもその名がある。次に「久米川の戦い」、そしてさらに南下して「分倍河原の戦い」でも幕府勢を倒して多摩川を越え、鎌倉に至る。

 「久米川」は東村山市にあり、西武新宿線にもその名の駅がある。この駅は、先の八坂の交差点の近くだ(八坂にも西武多摩湖線の駅があるが、この位置関係の説明は煩瑣になるので省略)。しかし久米川の戦いの古戦場跡は、八坂より少し北にあるから、新田の伝説はこの戦いの後のものと考えていいだろう。

 考えてみると、迷った話と桜を植えた話がどう結びつくのかよくわからないが、新田勢がこのあたりを通った伝承と解釈すれば問題ない。

 一方の幕府方は府中街道あたりで防衛線を何度も破られ、最大の防衛線である多摩川も越えられてしまったのだが、新田勢と戦ったのは、このあたりの豪族なのだろうか。それとも鎌倉から防衛隊が出張ってきた勢力なのか……、興味は尽きない。

 このように〈郊外〉の道は、意外な地域と時代を結び付けているのである。

 

江戸街道から八坂の交差点に向かう

(杉山尚次)(写真・画像は筆者提供)

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杉山尚次
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