書物でめぐる武蔵野 第31回 PFAS続報と武蔵野線

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年7月27日

 2カ月も休んでいたのに、またも横田基地の写真からのスタート。まずはPFAS(有機フッ素化合物の総称)汚染問題の続きを述べたいので、お付き合いいただきたい。

 

横田基地の管制塔

横田基地の管制塔(2011年)

 

PFAS問題はどうなっているのか

 

 前回4月、この連載で、『消された水汚染―「永遠の化学物質」PFOS・PFOAの死角』(諸永裕司、平凡社新書)と東京新聞の記事を参照して
 ① PFASは健康への悪影響が指摘される化学物質であり、国際的に問題になっている。
 ② PFASによる環境汚染は、日本ではまず沖縄で問題になったが、多摩地域の地下水からもPFASが検出され、都水道局が取水を中止した多摩地域の水道用の井戸がある。
 ③ 日本にはPFASを規制する明確な基準がなく、それを理由に都は地域住民の血液検査を実施していない。市民グループがそれを実施したところ、高い比率で血中PFAS濃度の高い住民が検出された。健康被害が出る前に対策が急務である。
 ④ 対策と同時に原因の究明も急がれる。米軍の横田基地でPFASを含んだ泡消火剤の漏出が明らかになり、汚染源は横田基地である可能性が高いにもかかわらず、役人の及び腰と日米地位協定の壁もあり、追及は進んでいない。

などについて触れた。これだけ報道されているので、おそらくはそれを意識したのだろう、都水道局のホームページには、「多摩地区の住民の血中濃度が高くなって健康影響のおそれがあると聞いていますが本当ですか」というQ&Aがある。

 以下はその回答:

 《国では、PFOS(注:PFASのひとつ)に関する健康被害の発生は、現状において明確には確認されていないとしています。(注:被害が出てからでは遅い、とは考えないようだ)
 また、現状、有機フッ素化合物が人体にどの程度の量や濃度でどのような影響を及ぼすかについて必ずしも明らかでないとしており(注:「しておる」のは国、都は判断できないようだ)、水道水が主な原因となって血中濃度が高くなっているかどうかは明らかになっていません(注:一連の報道を否定)。
 現在、国において、有機フッ素化合物に関する専門家会議を設置し、最新の科学的知見や検出状況の収集・評価を行い、科学的根拠に基づく総合的な対応を検討しています。》(東京都水道局「水道水の安全性について」)

 「水道局としては国の検討状況を注視していきます」という回答もあり、要するに都は何もしない、ということなのだ。PFASについて安全性を評価する国際的な統一基準がないことも、何もしない〝免罪符〟のように語っている。

 

市民による検査結果と汚染源

 

 ということで、その後の動きは東京新聞を参照して整理しておきたい。

 まずは、多摩地域の市民グループによる調査について、6月8日に最終報告があった。西東京市を含む27自治体、650人の住民の血液検査の結果、米国基準で「健康被害の恐れ」がある数値が出た人が51.5%にものぼることがわかった。50%を超えた自治体を高い順に並べると、国分寺>立川>武蔵野>国立>府中>小平>あきるの>調布となる。

 調査したのは、市民団体「多摩地区のPFAS汚染を明らかにする会」で、国分寺市の医師が自腹を切って検査を実施したという(6.14記事)。

 当然のことながら、都や国による大規模な調査が求められるが、現在のところそういう報道はないし、都の水道局の対応は見たとおりだ。ただ、こうした動きをうけて、国分寺市は立川、国立、府中、小平などの自治体とともに、PFAS問題を検討する新たな会議を設置する考えを表明した(6.10記事)。政治もさすがに無視できなくなってきたのだろう。

 また、汚染の原因について動きがあった。
 在日米軍は、2010~12年の間に横田基地で泡消火剤の漏出が3回あったことを認め防衛省に伝えていた、ただし米軍は消火剤が基地外に流出したとは認めていない。これらのことが明らかになった(7.6記事)。さらに、防衛省が漏出を知ったのは2019年9月だったが、それを公表したのは今年の6月、4年半も放置していたことも報道された(7.22記事)。

 やっと情報の一部が小出しにされ、汚染源が横田基地である疑惑がますます強くなったが、米軍はそれを認めていない。当然、都や国は本格的な調査に動くべきだが、都の担当者は「国がまず方向性を示してくれないと、都としても動きようがない」と責任を国に押し付けた。上記の態度と同じである。また、これらの報道を受けて浜田靖一防衛相は、基地内への立ち入り調査を求めるのかと聞かれると、「詳細を承知していないこともあり、お答えは差し控えたい」と述べたという(7.8記事)。要するに現時点で、都も国も「やる気ゼロ」にしかみえない。

 これに対して、われわれとしては、関心を高めていくしかないだろう。

 さきほどの都水道局のホームページを詳しく閲覧すると、自宅の水道水の水源や水質検査結果がわかるようになっている。PFASについてどの井戸を取水中止にしたかもわかる。まずは自宅周辺のチェックを始めることではないだろうか。近隣の自治体の対応にも注視したい。また、口コミも重要な手段だろう。何度も言うが、被害が出てからでは遅いのである。

 

7月6日の東京新聞

7月6日の東京新聞

 

巨大な環状線

 

 さて、いろいろ問題のある横田基地の位置を確認しておこう。西東京市からここにクルマで行く場合、田無の西原交差点から新青梅街道を西にひたすら進む。すると国道16号線に突き当たるので、これを左折すると左手に見えてくる。
この16号線は、巨大な環状道路であることを意識されたことはあるだろうか。

 環状線は、意外な地点を結び付けることがあって面白い。国道16号線は、三浦半島の観音崎から横須賀⇒横浜⇒町田⇒相模原⇒八王子⇒横田基地のある福生⇒川越⇒大宮⇒春日部⇒野田⇒八千代⇒千葉を経て、房総半島の木更津に至る(海上にも16号線は設定されていて、じつは本当に円環になっているらしい)。神奈川・東京・埼玉・千葉を大きくぐるりとまわっている。

 つまり、横田基地から16号線をずんずん南下すると、横須賀の米軍基地にいたるということであり、途中の相模原には、在日米軍の総合補給廠もある。Root16号線の半分は〝在日米軍街道〟ということもできそうだ。

 また、16号線は、これまで連載で取り上げてきた「郊外」の典型的地域をめぐっている。この「郊外」をつないでいるという意味で、16号線と似た土地イメージをもつのが今年開業50周年を迎えた「武蔵野線」だ。今回は16号線を云々する前に、講演会が開催された武蔵野線を取り上げてみたい。

 

武蔵野線はどこまで行くのか?

 

 武蔵野線の誕生の経緯や地域の歴史については、ひばりタイムス連載「北多摩戦後クロニクル」第27回「1973年 武蔵野線が運行開始 北多摩を南北に貫く鉄路の実現」で解説されているので、そちらを参照していただくとして、ここでは、利用者の視点から武蔵野線のあれこれについて述べる。なお、6月10日に開催された清瀬市の「武蔵野線開業50周年記念展示―清瀬を駆け抜ける武蔵野線」と記念講演「地域史の観点からみる武蔵野線」(鈴木勇一郎、中野光将)を参照した。

 武蔵野線の開業は1973年だが、開業前に路線近辺の住民に配布された資料を見ると「武蔵野西線」という表記になっている(図1 上記講演での配布された資料より。『町報清瀬』第99号、1968年)。これは建設当初、鶴見―西国分寺を「武蔵野南線」、西国分寺―南浦和を「武蔵野西線」、南浦和―西船橋を「武蔵野東線」 (図2 同資料より、『国鉄首都圏ニュースVOL.2』昭和46) としていた名残だと思われる。

 

清瀬市の資料

清瀬市の資料

武蔵野線建築当初の路線図

武蔵野線建設当初の路線図

 

 筆者の記憶では、開業してからしばらくの間は「武蔵野西線」と呼んでいたと思う。この区分がいつなくなったか、専門家に聞いてみたが、結局よくわからなかった。

 現在、JR東日本の武蔵野線は、鶴見から西船橋まで、神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県を結んでいる。ただし、鶴見―府中本町間は「武蔵野南線」と呼ばれ、ほぼ貨物専用線になっているので、乗客の立場でみると府中本町―西船橋間が武蔵野線ということになる。もっとも、西船橋の先は京葉線に乗り入れているので、たとえば新秋津で電車を待っていると、「東京行き」が来たりする。どこまでが武蔵野線かという区分は、乗客にとってはほとんど意味がなくなっている。素人目に武蔵野線は〝拡張〟しているようにみえるのだ。

 本数は少ないが、大宮から東北貨物線を経由して府中本町・八王子方面に乗り入れる「むさしの号」(たとえば新秋津から大宮や八王子に乗り換えなしで行ける)という電車がある。また、西船橋から新習志野方面にダイレクトに行くことができる「しもうさ号」も運行されている。

 さらには、「ほぼ貨物専用線」である武蔵野南線を経由して鎌倉に直行する「特急鎌倉」という列車まである。1日1往復。始発は武蔵野線の吉川美南7:48で、武蔵野線の西国分寺8:34までは各駅停まるが、次の駅は横浜9:12、北鎌倉9:32、鎌倉9:36となる。復路は鎌倉発16:23、吉川美南18:10となっている。

 少し前に「鎌倉への初詣列車」という広告を見た記憶があるが、この列車のことだろう。2023年の運行予定は、8月5・6・19・20・26・27日、9月16~18、23・24日(7月時点で9月までのもの。さいたま市ファミリーのためのWEBメディア「さいファミ!」を参照した)。

 

思惑ちがいはあれど……

 

 と、いろいろと多彩な展開を見せている武蔵野線だが、開業した70年代は本当に〝使えない〟電車だった。たしか75年のこと、三鷹に用事ができた。ふだんひばりヶ丘から三鷹にはバスで行くのだが、できたばかりの「武蔵野西線」に乗ってみようと、電車だけで行って、うんざりした記憶がある。まず、西武池袋線の秋津から武蔵野線の新秋津の駅に徒歩で乗り換えるのに時間がかかった。いま調べると6分と出てくるが、乗り換えに街を歩く時間としては短くはない。そして、新秋津の駅で次の電車がくるまで30分ほど待ったと思う。ラッシュ時で15~20分に1本、日中は40分に1本だったらしいので、ほとんど〝ド田舎〟の電車である。

 もともと武蔵野線は貨物線として構想されていたわけで、人間より貨物が優先(?)だったのは当時としては無理からぬことだったかもしれない。それでも、西武池袋線の住民としては、中央線に乗り換えて立川や八王子へ、京浜東北線に乗り換え浦和や大宮に行ったり、あるいはそのまま千葉の松戸にも行けるということで、待ち時間は覚悟しても武蔵野線を使ったのだった。

 ところが、開業した70年代中頃は鉄道貨物が物流の主流からすべり落ちた時代に当たっていた。高度成長期、石炭輸送などで力を発揮した貨物輸送は国鉄赤字のひとつの原因とされ、整理の対象となっていった。旧来の貨物配送システムで力を発揮した武蔵野線の新鶴見操車場や武蔵野操車場も廃止された(上記講演による)。

 しかし、同時に武蔵野線沿線では人口が急上昇していた。通勤通学など乗客の移動手段としての武蔵野線の需要は当然アップした。87年の国鉄民営化以降には、ほぼ現在と同じダイヤ編成になっていたようで、ホームで30分待たされることもなくなった。

 このように武蔵野線は、当初の目論見とは違った方向性に発展してきた、といっていいだろう。「新小平」「東所沢」「武蔵浦和」「南越谷」「新松戸」といったように、元の地名に何かがついた、いかにも新興の住宅地を結んでいる。

 この電車に乗っていると、ほかの郊外を走る路線と何か違う感じがすると思っていたのだが、思い当たった。武蔵野線は高架部が多く、高いところを走っているのだ。車窓には〝武蔵野〟の風景が広がっているわけだが、それは風光明媚でも、のどかでもない。合法なのか違法なのかわからないが、大きなゴミが投げ捨てられているのがしばしば目につくせいだろうか、どちらかというと〝都市の果て〟という感じがしてしまう。それは日本中で進むまちの「郊外化=画一化」のあり方を象徴しているのかもしれない。

 しかし、武蔵野線は高所を走っているせいで、夜景がきれいだ。また大回りであるがゆえに意外な土地同士を結び付けたりする〝意外性〟のある路線ともいえる。SDGsがいわれる昨今、鉄道貨物の可能性もまた見直されるかもしれない。

 もうひとつ、まちの画一化からはみ出すような現象があった。武蔵野線には「ギャンブル電車」という異名がある。この路線には府中競馬場(府中本町)と中山競馬場(船橋法典)があるからだ。それで思ったのだが、昨今新秋津と秋津を結ぶ街は、安い飲み屋街の様相を呈している。その活気ある雰囲気はギャンブル場近辺のそれに近いと思った。これは誉め言葉である。

 

現在の清柳園(ゴミ処理場跡)と武蔵野線の高架

現在の清柳園(ゴミ処理場跡)と武蔵野線の高架(2023年)(清瀬市「武蔵野線開業50周年記念展示―清瀬を駆け抜ける武蔵野線」より)

武蔵野線の車窓から

武蔵野線の車窓から

※連載のバックナンバーはこちら⇒ 

 

【主な参考資料】
・第30回テーマ展示「武蔵野線開業50周年-清瀬を駆け抜ける武蔵野線-」(清瀬市郷土博物館
・枝久保達也「JR東「武蔵野線」はなぜ生まれた?  首都圏の〝人と貨物〟輸送を支えた50年史」(「ダイヤモンド・オンライン 2023.4.17」)

 

 

杉山尚次
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