北多摩戦後クロニクル 第45回
2008年 落合川と南沢湧水群が「平成の名水百選」入り 東久留米市の「里川」再生物語

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年11月14日

 2008(平成20)年6月、東久留米市の落合川と南沢湧水群が「平成の名水百選」に入った。この「名水百選」入りがあって、いまでこそ東久留米市は〝川のまち〟とか〝水のまち〟と言って違和感がないが、ここにいたるにはかなりの紆余曲折があった。ものごころがついたときから東久留米市(当時は久留米町だったが)に半世紀以上住んでいる者として、川の「死と再生」に関する話を記しておきたい。

 

南沢湧水

清流をたたえる南沢湧水群

 

周辺住民による努力を評価

 

 「平成の名水百選」は環境省によって選定されている。1985(昭和60)年、全国に存在する清澄な水を再発見し、広く紹介することを目的として、まず「名水百選」が選定された(昭和の名水百選)。このとき東京都からは「青梅市 御岳渓流」と「国分寺市西元町 お鷹の道・真姿の池湧水群」が選ばれている。それから20年以上たち、社会情勢も変化したので、新たに「名水」を選ぼうということで「平成の名水百選」が新設された。ここに都内で唯一「落合川と南沢湧水群」が選ばれた。

 選定の基準として、「地域住民等による主体的かつ持続的な水環境の保全活動」が特記されているので、川周辺の住民による努力が評価されたかたちだ。

 環境省としては、昭和の100に“加え”平成の100を合わせ「名水200」としているが、「平成の」というと昭和に“代わっての”選出のように見える。東久留米市のパンフなどは「都内で唯一」を強調しているが、もちろん都内の名水はここだけではない。

 東久留米市には、北から黒目川、落合川、立野川という比較的大きな川が3本流れている。「名水」に選ばれた落合川は、市内で完結する一級河川(国が管理する河川、大きさの問題ではない)。市内八幡町付近の湧水を水源にし、南沢湧水群や竹林公園の湧水などを加え、黒目川と合流するまでわずか3.4キロ程度だが、流域には湧水が多く、縄文時代の遺跡も多く確認されている。文化的価値が高い川、ということができそうだ。

 黒目川は、「久留米」の名はここに由来するという説もある一級河川で、小平霊園近辺を水源に埼玉県朝霞市で荒川に注いでいる。この川の周辺にも縄文遺跡があり、アニメ映画『河童とクゥの夏休み』(原恵一監督、2007年)の舞台になったりしている。

 この黒目川に落合川と立野川が合流する地点が「落合」で、明治以前このあたりは落合村と呼ばれていた。江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』には「前沢村より涌出る流れ二条あり、村内にて久留目川(注:黒目川)と合し一条となり」とある(東久留米教育委員会『東久留米の江戸時代』より孫引き)。「落合川」は名無し川だったようで、川の名は村の名に由来すると思われる。

 

川は一度〝死んだ〟

 

 もともと東久留米市(久留米町)は「水」のまちであることを自覚していたと思われる。筆者が通っていた東久留米市立第二小学校の校歌には、「遠い祖先が拓いた久留米」には「きれいな水」があることが謳われ、校章が水車であることが盛り込まれていた。水車は小麦をひくためのもので、水田が少なく、主力穀物が小麦であるこの地の特徴的農業機械だったといわれている。

 二小は1960(昭和35)年開校である。とても東京にある学校の校歌とは思えない内容だが、この土地の人びとはこの学校の(あるいはこの地域の)何を「価値」と考えていたかがうかがえる。

 実際、筆者が小学校低学年の60年代半ばまではのどかなものだった。校庭のすぐ向こうには茶畑があり、その先には土の土手があって、土手を下ると落合川沿いに湿地帯や畑、小さな水田(陸稲と聞いた記憶もある)があった。近くには小さな牛小屋があり、その肥溜めもあった記憶がある。

 経済成長とともにその環境が一気に悪化していった。住宅の増加に下水道の整備が追い付かず、川には生活排水が流れ込んだ。川は灰色に濁り、悪臭を発していた。73年、黒目川と落合川が合流するポイント近くに筆者が所属する中学野球部のグラウンドが一時的にあり、ファウルボールが川にしばしば飛び込んだ。それを拾いに川の合流地点に行き、網でボールをすくうのだが、そこは水量も多くとにかく臭かった。黒目川に比べて落合川は湧水量が多いせいか、少しだけ灰色が薄かったのを覚えている。しかし、どぶ川であることに変わりはなかった。

 「きれいな水」という歌詞は絵空事になっていた。東京中の河川が損なわれていたといえる。行政は川を排水路として扱い、多くの人は気持ちのなかで川を見捨てていたのだろう。しかし、見捨てなかった人もいたということだ。

 

黒目川(上)と落合川の合流地点。かつてこの川がどぶ川だったころは、近づくのが憚られるほどの汚れ具合だった

 

川を蘇らせるには

 

 もちろん市民だけの力で川がきれいになるわけがない。70年代のさまざまな公害による環境汚染に対して、行政も企業も改善に取り組んだ。下水道の整備、川の改修、湧水による川の自浄作用、市民による清掃や改良活動が相まって、市内の川は息を吹き返していったに違いない。

 東久留米市教育委員会発行の資料(『光の交響詩 写真でつづるふるさと東久留米』2000年)によると、1976年頃には落合川の改修工事が進み、蛇行していた川がまっすぐになっている。83年には工事が最終段階に入ったという写真もあり、ほぼ現在の形となっているようだ。ただし、これは落合川下流(ここでは西武池袋線の東側とする)の改修についてのことだと思われる。

 というのも「東久留米ほとけどじょうを守る会」発行の「東久留米 水と緑の散歩道」(2007年)の年表によると、「落合川最上流部の河川改修工事始まる」は1992年3月~11月となっているからだ。

 

南沢湧水

落合川鉄橋 73年(上)と78年の対比(『光の交響詩』p27)

南沢湧水

83年、最終段階の落合川改修工事(『光の交響詩』p26)と現在の姿(右)。不動橋から西を臨む。現在、川沿いは少年野球のグラウンドになっている。改修前、川は正面に見える住宅の下を流れていた。いまもかすかにその痕跡がある

 

 いずれにしてもこの一連の改修が、落合川の水質にプラスに作用したことは確かなように思える。

 それに加えて市民が親しむことができる川を実現するには、市民団体の地道な活動があったようだ。

 落合川の中流、多聞寺近くの毘沙門橋(夏場は子どもたちの〝プール〟のようになる)と老松橋の間に「いこいの水辺」がある。ここにはフェンスがなく、川辺は緑地になっていて、だれでも直接川に入ることができる。このスペースをめぐって、市民と行政がかなりのやりとりをしたことが記録に残っている。

 都の改修案は川に対してフェンスを設ける治水優先のもので、ほとんど親水性がない。これに対して、市民からはフェンスを設置しない対案を提示して交渉した様子がうかがえる(東久留米ほとけどじょうを守る会発行「湧水のある街」1992年)。その結果として、96~97年に親水化工事がなされ、97年5月に「いこいの水辺」が完成した。「平成の名水百選」の選定要件に「親水性・近づきやすさ」もあるから、この点は市民の力によるといえるだろう。

 

南沢湧水

毘沙門橋近くの落合川で遊ぶ子どもたち

 

「成功事例」への懸念

 

 このようにしてどぶ川だった落合川は、名水と呼ばれるまでに蘇った。ひとまずは環境保護の成功事例といえるのではないだろうか。

 しかし懸念がないわけではない。この川の最下流には「川岸遺跡」という縄文時代と江戸時代の遺構があった。またそのすぐそばには「野草園」があったのだが、それらは災害に備える調整池に沈むことになっていて、現在工事中である。下の2枚の写真はほぼ同じところを撮ったものだが、83年と2023年、同じような工事をやっているように見える。行政はその経緯を丁寧に説明しているとはとはいいがたい。

 

川岸遺跡

83年の工事(『光の交響詩』p26)と2023年1月、落合川最下流の川岸遺跡近辺の工事(右)。左手にはスポーツセンターがある

 

 また、落合川は全流域にわたって親水性や生態系に配慮しているのか、親水性は部分的なのではないかという疑問が残る。

 川は、ただの水路ではない。多くの市民が川を自分たちの生活に不可欠な共通財として認識し、行政なり企業に勝手なことをやらせない姿勢が必要だろう。

 これは東久留米に限ったことではない。
 たとえば、西武池袋線の石神井公園から所沢までの駅は、すべて「水」に関係している。石神「井」公園、大「泉」学園、保「谷」、ひばりヶ丘=開設時は「田」無町、東「久留米」(黒目川)、清「瀬」、秋「津」、所「沢」である。

 「持続可能な社会」をいうなら、地域と川のつながりや身近な「水」について、もっと関心がもたれるべきではないだろうか。
(杉山尚次)

 

【参考資料】
・平成の名水百選(環境省
・くるめの文化財(東久留米市教育委員会
・「東久留米 水と緑の散歩道」(東久留米ほとけどじょうを守る会)
・「湧水のある街」(東久留米ほとけどじょうを守る会)
・『光の交響詩 写真でつづるふるさと東久留米』(東久留米市教育委員会)

 

杉山尚次
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2008年 落合川と南沢湧水群が「平成の名水百選」入り 東久留米市の「里川」再生物語
」への2件のフィードバック

  1. 1

    素晴らしい記事ですね。
    黒目川水系は河床礫そのものが湧水帯であることから、両面護岸にして、川そのものは流れを自由に遊ばせる河川改修であったことが今の景観となるのに役立ったと思います。上流部が汚れていたころから調査で見ていますが隔世の感です。おっしゃる通り、市民、社会、企業、行政が問題意識をもって取り組んだ結果として、今の状況があるのだと思います。少し心配なのは有名になりすぎて本来の良さが失われてしまわないかです。

    「光の交響詩」などを編集執筆をしたものです。

  2. 2

    ありがとうございます。山崎先生には以前もコメントいただきましたが、また拙稿をお読みいただき光栄です。ご執筆の東久留米市の書物や報告書は何冊も拝読し、勉強しております。素人ゆえ、勘違いや読み違いがあるかもしれません。ご指摘いただけたら幸甚に存じます。

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