1962(昭和37)年、保谷町(現西東京市)にあった「民族学博物館」が閉館した。生活の中に息づく民具の紹介と研究を夢見た学者たちが私財を投じて1939(昭和14)年に開館。野外で民家などを展示する日本初の博物館だった。時を経て地元でもほとんど忘れ去られつつあったが、近年、その業績と軌跡を記録し、後世に伝える市民活動が展開している。

 広々としたはらっぱで1日を楽しく過ごそう――。親子で造形ワークショップや土遊びを楽しめるイベント「はらっぱワンデイトリップ」が5月28日、都立小金井公園のつつじ山広場で開かれた。晴れた日の日曜日、小金井公園はコロナ前の活気を完全に取り戻し、家族連れでにぎわった。

 1950年代後半から60年代前半にかけて文部省が強行した教員の「勤務評定制度」(勤評)と「全国中学校一斉学力調査」(学テ)は「教育行政の中央集権化」として全国で激しい反対運動が巻き起こった。戦後早くに革新町長を生んだ保谷町(現西東京市)は激しい抵抗の末に勤評を見送り、1962(昭和37)年には学テを実施しない全国唯一の町となり注目を集めた。隣の田無町(現西東京市)でも同年、町政史上初の革新町長が誕生した。60年代後半から全国で革新自治体が相次ぎ誕生するブームに先駆けた町政の転換だった。以後両町では長く革新町政・市政が続き、立ち遅れたインフラ整備を進めていった。

 小平市は5月22日、計画策定や条例制定の市民意見公募手続き(パブリックコメント)で市ホームページに寄せられた意見の把握に漏れがあったと発表した。確認ができた2018年度以降、意見を公募した案件で計23件の把握漏れがあった。

 1962(昭和37)年、保谷町(現西東京市)のひばりが丘団地に小さな食料品店「ことぶき食品」がオープンした。地域に根ざした乾物店は、やがて郊外型のファミリーレストランを興し、時代の波に乗って世界的な巨大外食チェーンに発展する。その名前は発祥地のひばりが丘団地にちなんで「すかいらーく」(ひばりの英語名)と名付けられた。

 1950年代半ばからの高度経済成長期、財政難に苦しむ自治体は自己財源の確保のため積極的に工場誘致に乗り出した。小平町(現小平市)の「ブリヂストンタイヤ東京工場」建設は、それを象徴する事例だった。小平町は元陸軍兵器補給廠跡を中心とする農地への工場誘致を図り、ブリヂストンは最大のマーケットである東京に国内2番目となる新工場の建設を模索していた。用地の買収交渉は難航したが、1960(昭和35)年、小川東町の57万3525平方メートル(東京ドーム12個分)に建設した工場で操業が始まり、62年には研究開発の拠点となる技術センターが完成した。

 1958(昭和33)年9月に神奈川県から上陸した台風22号は東京周辺で気象庁の観測始まって以来の豪雨を記録し、静岡県伊豆地方と関東地方に甚大な被害をもたらした。伊豆半島の狩野川流域の水害が甚大だったため「狩野川台風」と名付けられたこの台風は、小平を水源にして田無を貫通する石神井川流域にも豪雨をもたらした。水が乏しい武蔵野台地における水害は以後増え続け、“暴れ川”は流域住民を苦しめるようになる。

 小平市と東大和市は4月12日、図書館の相互利用に関する協定を締結した。5月24日からそれぞれの市民が双方の図書館で本を借りることができるようになる。小平市は3月に小金井市とも同様の協定を結んでおり、今回の協定で隣接するすべての市の図書館との相互利用が可能になった。

 西東京市を中心とする周辺地域の話題やニュースを伝える地域紙「週刊東興通信」が1958(昭和33)年10月に創刊された。地域情報誌、タウン紙、コミュニティー・ペーパーなど呼び方はさまざまだが、東興通信は戦後におけるローカルメディアの草分け的な存在といえる。創刊から半世紀にわたって地域に密着した情報を伝え続け、地元に親しまれた。

 4月16日告示、23日投開票の小平市議会選挙(議員定数28人)を前に、各市民団体が立候補予定者の演説会の動画配信や公開アンケートを実施し、有権者に対して投票の参考になる情報の提供を試みている。選挙公報やポスター、候補者のチラシでは十分わからない候補者の人となりや政治信条、政策目標などを手作りの方法で伝える試みだ。

 1955(昭和30)年、田無町(現西東京市)の東京大学農学部付属農場の一角に日本初の原子核研究施設「東京大学原子核研究所」(核研)が開設された。以後、40年以上にわたり全国の研究者たちに開かれた原子核物理学の拠点として、ノーベル賞受賞者をはじめ数々の才能を輩出することになる。現在、素粒子実験の最先端を担っている日本の研究組織の源流には、この核研がある。

 1954(昭和29)年、都立小金井公園が開園した。小金井市を中心に一部が小平市、西東京市、武蔵野市にまたがる面積約80ヘクタール(日比谷公園の4.8倍)に及ぶ都内最大の都立公園だ。公園の北側にはゴルフ場「小金井カントリー倶楽部」が広がり、南には東西2キロ近くにわたって玉川上水が流れる。園内は広々とした草地を雑木林が取り囲み、各種スポーツ施設やレクリエーション施設が設けられ、長く市民の憩いの場となっている。だがその歴史には先の大戦の跡が深く刻まれている。

 薄曇りの「春分の日」、小金井公園北側の小平口にある「ふたつ池」にシラサギがたたずんでいるのを見つけた。水底が見える浅く澄んだ池に凛とした姿で立つ水鳥に、3羽のカルガモが水紋を描きながら近づいて旋回する。シラサギは気に留めない。

 生涯に800体以上のロボットを作り「ロボット博士」と呼ばれた相澤次郎さん(1903〜1996年)が1952(昭和27)年、保谷町(現西東京市)に財団法人日本児童文化研究所を設立した。研究所から生み出された四角顔に丸い目の“相澤ロボット”は、1970年の大阪万博をはじめ科学展やイベントで人気を集め、草創期のロボットのイメージを決定づけるとともに昭和の子どもたちに未来への夢を与えた。

 1949(昭和24)年、田無町(現西東京市)で盆踊りに伴う仮装大会が始まった。意匠を凝らした大掛かりな山車(だし)とさまざまなキャラクターに扮した住民が青梅街道をねり歩くイベントは「関東一の仮装大会」として新聞、ラジオ、テレビで大きく報じられた。大会は年を追って盛大になり、毎年、関東一円から見物客が押し寄せる真夏の風物詩になった。