北多摩戦後クロニクル 第8回
1949年 田無の仮装大会始まる 数万人の観客を集めた真夏のイベント

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年2月21日

 1949(昭和24)年、田無町(現西東京市)で盆踊りに伴う仮装大会が始まった。意匠を凝らした大掛かりな山車(だし)とさまざまなキャラクターに扮した住民が青梅街道をねり歩くイベントは「関東一の仮装大会」として新聞、ラジオ、テレビで大きく報じられた。大会は年を追って盛大になり、毎年、関東一円から見物客が押し寄せる真夏の風物詩になった。

 

ゴジラとシンデレラ

 

仮装大会

巨大ゴジラの登場に盛り上がる仮装大会(1955年8月)

 

 戦後、田無は人口の急増に伴って宅地開発が進み、工場も次々と進出して商店街の発展も目覚ましかった。田無町本町商店会は商店の売り上げを伸ばすため、中元大売り出しや年末福引大会など近隣町村からお客を呼び寄せるさまざまなイベントを企画した。

 戦前から総持寺の境内で続いてきた盆踊りは戦後、総持寺の花まつり稚児行列とともに田無名物になった。なかでも1949年に個人コンクールから始まった仮装大会は盆踊り最終日の8月上旬の夜に催され、賞金や商品を狙って参加者がアイデアと演出を競った。

 当時の様子は商店会役員の前沢晋さんが記した小冊子「田無町 関東一の仮装大会」に詳しい。それによると、52年の大会で「境新道の八百屋の繁ちゃん」なる人物が桃太郎に扮し、犬、猿、キジ、鬼に仮装した子どもとともにハリボテの金銀財宝を車に積んで総持寺に乗り込んできた。青梅街道は、蓄音機で「桃太郎」を流すこの出し物をひと目見ようと集まった人々であふれた。

 これに発奮したのが商店会の役員たちだった。「おれたちも負けていられない」。緊急会議を開き、翌年から88軒の商店を5班に分けて、班ごとに仮装の山車を2台以上出すことを決めた。パレードのコースは本町の青果市場から田無小学校までの約2キロ。

 翌53年、青梅街道に色とりどり電飾に彩られた山車が並び、夜空に花火が打ち上げられた。ボーイスカウトのブラスバンド、田無音頭を踊る浴衣姿の女性陣に続く個人の仮装行列はピエロの玉乗り、四谷怪談のお岩さん、一寸法師、鞍馬天狗など20組余り。続く商店各班の山車は童謡やおとぎ話がモチーフで、「浦島太郎」はセロハンの海藻で車の荷台を海中の竜宮城に仕立て、玉手箱を手に亀に乗る浦島太郎と魚に扮した子どもたちが見物人に手を振った。

 

山車

「京都五条橋」がテーマの山車

 

 近隣から3万人が押し寄せた町は大変な騒ぎだった。沿道の店は大入り満員。店舗2階に観覧席を作り、報道関係者は屋根に上って取材した。NHKの人気ラジオ番組「話の泉」に出演中の石黒敬七・審査委員長が「これは関東一の仮装大会だ!」と感嘆の声を上げたことから、以後この仮装大会を「関東一」と称するようになる。ほかの商店会からの参加が増え、審査員には東映、日活、大映の俳優陣が並んだ。漫談家の徳川夢声や詩人のサトウハチローら著名人も無報酬で駆けつけた。

 54年の最優秀賞は「シンデレラ姫」だった。とんがり屋根の白い城をしつらえたトラック荷台には2頭の白馬がひく金色の馬車と、シンデレラと天使ら10人の少女。翌日の新聞でその写真を見た西多摩郡瑞穂町から「舞台と衣装一式を貸してほしい」との申し入れがあり、瑞穂町の盆踊りを大いに盛り上げた。

 映画「ゴジラ」人気にあやかって、体長12メートルの巨大ゴジラが登場した時は見物人の度肝を抜いた。歯車仕掛けで腕と脚を動かして、雄叫びとともに口から赤い煙を吐く。翌日の新聞見出しは「ゴジラ 田無に現れる」。こちらは町田市からお呼びがかかった。

 

新旧の住民をつなげる行事

 

 仮装大会はなぜ異様なまでの盛り上がりを見せたのか。前沢氏は「何も楽しみもなかった戦後のことだった。人々の娯楽を求める姿は異常だった。長い間の軍国時代には心から楽しめる娯楽は皆無であったから、その喜びは庶民の心を爆発させたのだろう」と記す。

 戦時中は歌舞音曲の自粛が求められ、敗戦後、人々はまだ貧しく娯楽という娯楽もなかった。仮装大会は地域の人々にとって日常から解放されて自由を満喫する絶好のイベントだったに違いない。

 また大石始著『盆踊りの戦後史』は、人口が急増する振興地域で盆踊りや夏祭りが旧住民と新住民との間の分断を埋める役割を担ったと指摘する。盆踊りは「地域の祭りに参加することができない新住民たちと古くからの旧住民が共同で運営する、あまりにもささやかな自分たちの祭りだった」。

 とくに田無には東京都心のベッドタウンとして新住民の流入が続いた。総持寺の小峰立丸住職は「うちは“盆踊りのお寺さん”と言われるほど盆踊りは戦前から地域に根付いた催しでした。新しく移り住んできた人たちが地元の人たちとつながり、地域に親しみを持つ行事だったのでしょう」と話す。この指摘は盆踊りに伴って催された仮装大会にも当てはまるだろう。

 

自来也

ガマの妖術を使う盗賊「自来也」が登場

 

お店がつぶれてしまう

 

 仮装大会の山車は年々大掛かりになっていった。大会翌日から翌年の構想を練り、ひと月前から商売そっちのけで深夜まで製作に没頭する。本番前日は店や勤めを休んで最後の仕上げ。もはや素人の道楽では見物人は満足してくれない。各班は映画撮影所の大道具部屋に駆け込み、美術専門の看板屋に頼み込むなどして奮闘した。経費はかさばり、前沢氏の妻は「本当にお店がつぶれてしまうかと思った」という。

 大会を後援した毎日新聞社は大会当日、自社機を町上空に飛ばし、祝賀のチラシ5万枚をばらまいて前景気をあおった。数万人の人出に対して西武新宿線田無駅には臨時改札口が設けられ、警察、消防など約200人が警備に当たった。当初、青梅街道は通行止めにしていたが、苦情が増えて1956年には一方通行になった。

 急成長する日本経済と自動車の普及で青梅街道は、一時的にせよ交通規制が難しくなるほど交通量が激しくなった。ついに通行止めの許可が下りなくなり、仮装大会は8万人を集めた1960年の第12回大会を最後に幕を閉じた。

 1980年代や2000年に入ってからも仮装大会を復活させる試みがあったが、かつての盛り上がりには及ばなかった。「関東一の仮装大会」は戦後から高度成長期という時代の熱気が生み出した地域イベントだった。
(片岡義博)(写真は、田無商業協同組合提供)

 

【主な参考資料】
・『田無市史』
・前沢晋『田無町 関東一の仮装大会』
・大石始著『盆踊りの戦後史』(2020年、筑摩選書)

 

片岡義博
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