北多摩戦後クロニクル 第13回
1954年 小金井公園が開園 刻まれた戦争の歴史

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年3月28日

 1954(昭和29)年、都立小金井公園が開園した。小金井市を中心に一部が小平市、西東京市、武蔵野市にまたがる面積約80ヘクタール(日比谷公園の4.8倍)に及ぶ都内最大の都立公園だ。公園の北側にはゴルフ場「小金井カントリー倶楽部」が広がり、南には東西2キロ近くにわたって玉川上水が流れる。園内は広々とした草地を雑木林が取り囲み、各種スポーツ施設やレクリエーション施設が設けられ、長く市民の憩いの場となっている。だがその歴史には先の大戦の跡が深く刻まれている。

 

小金井公園

「日本さくら名所100選」にも選定された小金井公園

 

「防空緑地」としての役割

 

 前身は「小金井大緑地」と呼ばれ、史上最大の都市計画「東京緑地計画」を基に紀元二千六百年記念事業の一環として1940(昭和15)年に計画された。日中戦争のさなかにあった当時、大緑地は戦争による空襲に備える「防空緑地」としての役割を担うことになった。

 計画区域の多くは農地で、「挙国一致」のスローガンのもと、土地所有者は東京府による買収に応じることを余儀なくされ、学徒動員による勤労報国隊が整地・造成作業を担った。

 緑地西側には、皇居前広場で開催された紀元二千六百年記念式典の式場として設営された寝殿造りの「光華殿」が移築され、それを中核として約30ヘクタールの敷地は、文部省直轄の養成機関「国民錬成所」として教員たちの思想と精神の統制が図られた。戦局の悪化に伴い食糧事情がひっ迫すると、緑地東側は再び農地に転用され、近隣農家などが食糧増産に尽くすことになった。

 

江戸東京たてもの園ビジターセンター(旧光華殿)

江戸東京たてもの園ビジターセンター(旧光華殿)。左右には樹齢100年のキンモクセイ

 

皇太子の学問所に

 

 敗戦後の1946年、空襲により焼失した学習院中等科の分校が移転し、光華殿と周辺の建築物が校舎や学生寮に転用された。皇太子(現・上皇陛下)が住まう予定だった東宮仮御所も焼失したため、中等科のそばに御仮寓所(ごかぐうしょ)が設けられた。

 12歳だった皇太子はここで3年半を過ごし、勉学にいそしむとともに乗馬やテニス、弓などに親しんだ。このとき着任した米国人家庭教師のヴァイニング夫人は光華殿の一室に住み、皇太子に英語の個人授業を行った。しかし御仮寓所は49年、失火によって焼失した。

 一方、農地転用された耕作地は連合国軍総司令部(GHQ)による農地改革の対象になって耕作者たちに払い下げられ、その結果、緑地の4割以上が失われることになった。農耕地は上野動物園の動物飼料や戦災復興の苗木を栽培する農場に切り替えられた。小金井公園開園当初の敷地面積は8.6ヘクタールと現在の9分の1ほど。東京都は1957年から失った土地の再買収にかかり、公園整備計画を長く続けていくことになる。

 

「江戸東京たてもの園」開園

 

 1954年の開園時、井の頭恩賜公園にあった武蔵野博物館を光華殿に移し、古代から近世の文化財を展示する「武蔵野郷土館」として開館した。93年には都立江戸東京博物館の分館として、武蔵野郷土館を拡充する形で「江戸東京たてもの園」が開園した。

 江戸時代の藁ぶき農家、宇和島藩伊達家の屋敷門、大正時代のモダン建築、二・二六事件の現場になった高橋是清邸のほか、昭和初期の商店街など30棟の建造物を移築・復元・展示している。光華殿はビジターセンターとして利用することになった。

 たてもの園内には「皇太子殿下御仮寓所跡」と「皇太子殿下御勉学の地」と記された石碑がある。後者の碑にはスイカをかたどった石がはめ込まれている。当時、皇太子が栽培した小金井産の新種スイカ「新都」だ。採れたての野菜を持参したという地元農民とのふれあいを伝える記念碑でもある。

 

皇太子殿下御勉学の地

スイカをかたどった石がはめ込まれた記念碑「皇太子殿下御勉学の地」

 

 2016年5月、当時の天皇、皇后両陛下(現・上皇陛下、上皇后陛下)が小金井公園を訪問した。御仮寓所に移り住んでから70年が経ち、両陛下が「久しぶりに訪ねたい」と望んだという。御仮寓所跡地に寄ったのち、2人は武蔵野の面影を残す新緑の雑木林を散策された。

 クヌギ、コナラ、アカマツ、ヒノキ、ユリノキ、ハクウンボク、シマサルスベリ……1万5千本もの多種多様な木々が四季折々の姿を見せる。開園時には玉川上水の名勝「小金井桜」(ヤマザクラ)に代わる名所となるよう緑地全体に桜が植樹された。春には梅林の白梅・紅梅に続いて約50種、千数百本の桜が咲き誇る。

 公園の広場は大雨の際、雨水が石神井川に大量に流れ込まないよう水を貯めて池のようになる。雨が止むと、水は少しずつ石神井川に流れ込んで池はなくなる。公園は「見えない貯水池」というわけだ。かつての「防空緑地」は現在、「防災緑地」として住民の安全を守っている。

 

小金井公園「いこいの広場」

小金井公園「いこいの広場」

(片岡義博)

 

【主な参考資料】
・北村信正ほか著『小金井公園』(東京都公園協会)
・細岡晃「都立小金井公園の今と昔」(たましん歴史美術館『多摩のあゆみ』第149号)

 

片岡義博
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