北多摩戦後クロニクル 第15回
1958年 地域紙「週刊東興通信」の創刊 ローカルメディアの草分け

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年4月11日

 西東京市を中心とする周辺地域の話題やニュースを伝える地域紙「週刊東興通信」が1958(昭和33)年10月に創刊された。地域情報誌、タウン紙、コミュニティー・ペーパーなど呼び方はさまざまだが、東興通信は戦後におけるローカルメディアの草分け的な存在といえる。創刊から半世紀にわたって地域に密着した情報を伝え続け、地元に親しまれた。

 

週刊東興通信

週刊東興通信の第一面。(西東京市図書館所蔵)

 

出発は上映映画の案内

 

 発行したのは田無町(現西東京市)にあった映画館「田無銀映」「田無東映」「田無文化」の館主、酒井平太郎さんだった。創刊した1958年、映画産業は観客動員数でピークを迎えていた。映画館の上映作品を効果的に宣伝する媒体として、タブロイド判2ページの無料地域紙を毎週水曜に発行した。

 1面には「田無町で国民健康保険を実施」「ひばりが丘団地で入居者募集」といった地元情報、2面には3つの映画館の上映作品の案内を載せた。「東興通信」という名称は奥多摩出身の酒井さんが「東で興す」との意味を込めたとされるが、定かではない。

 ひばりが丘団地が1959年に建設されるなど、近隣は都心のベッドタウンとして人口流入が急速に進んだ。東興通信は地元情報を求める新住民と、集客を求める商店街双方の需要に応えたが、テレビの普及による映画産業の斜陽化に伴って映画館は相次ぎ閉館を余儀なくされる。

 71年に経営を引き継いだのが、同紙で記事を書いていた産経新聞記者の菊地洋一さんだった。菊池さんは記者経験を生かして、4ページで地元の話題やニュースを伝える紙面作りの基礎を築いた。しかし80年代に入ると、バブル景気によって広告市場が拡大し、とりわけ求人向けの広告媒体が次々に参入したことで経営不振に陥った。

 87年、倒産寸前の経営を託されたのは、ライターとして東興通信や他の活字媒体で執筆していた小林史明さんだった。3代目社長として取材、執筆、営業に日夜奔走して、配布エリアを西東京全域と東久留米、小平、新座の一部に拡大し、4万3000部だった部数を10万部にまで増やすことに成功した。

 

小林史明さん

東海ラジオ「東海ものづくり大学」に出演中の小林史明さん(2020年12月、東海ラジオ提供)

 

虫の視点で市井を見る

 

 編集方針は、崩れゆく家族や地域共同体の再生に向けて▽つなぐ(地域の人と人を結ぶ)▽伝える(過去を見直し次世代に伝える)▽進める(街づくりの諸課題に取り組む)の三本柱。例えば2003年8月6日の1面には「西東京歴史学会が発足 『歴史共有し、市民間に共通意識を』」「戦争を語り継ぐ 平和イベント各所で」という見出しの記事が並ぶ。

「市民記者の発言」欄は読者参加による双方向の紙面作りを狙い、市民の立場から町の話題や身近な社会問題を継続的に提供してもらった。一つのテーマの賛成派に反対派の質問をぶつける討論型のインタビュー欄も設けた。

 読者からはさまざまな相談や問い合わせが寄せられた。「おいしいレストランを知らないか」「現在の文部大臣の名前を教えて」「セブンイレブンはなぜセブンイレブンというのか」。行方不明になった飼い犬を紙上で探してくれと主婦が頼みに来たり、散歩途中の老人が雑談のため立ち寄ったり。お嫁さん探しを頼まれたこともあった。さながら街のよろず相談所だ。

「市井の多種多様な人々が出入りし、日々いろいろなことが起こる。これはテレビドラマになると思った」と小林さんは振り返る。そんな取材の裏話、身辺雑事、時事問題の論評をつづった小林さんのコラム「きのう・きょう・あす」は読者の人気を得て、のちに書籍化された。

 

小林さんの著作

週刊東興通信のコラムをまとめた小林さんの著作

 

 小林さんは「街を空高くから俯瞰する鳥の視点だけでは、個々の多様性を捨てて複眼的な見方を失っていく危険性がある」と話す。「地面を這って草々を掻き分ける虫の視点で市井の人々の営みを丁寧に観察する。そこから問題の本質や普遍性を探っていくことが地域紙の役割だと思う」

 

歴史を記録し伝えていく

 

 90年代に入って小林さんは名古屋の家業の経営を引き継がざるを得なくなり、製造業と地域紙の経営を兼任して東京と名古屋を行き来する日々が続いた。長引く不況で求人広告が激減。大手量販店やチェーン店の参入によって東興通信を支える広告主の個人商店は力を奪われていく。

 紙媒体からの読者離れが進み、新聞折り込みで発行する東興通信も経営的に追い込まれた。電子編集システムの導入や紙面のカラー化、イベント情報の有料化など経営改善に努めたが、編集部員の辞職が引き金となり、2008年9月24日号を最終号として休刊した。それに伴って併設の不動産業も廃業した。

 

週刊東興通信

週刊東興通信の最終号(2008年9月24日号)=西東京市図書館所蔵

 

 同紙で編集部員を7年務めた谷隆一さんが同年10月に創刊したのが週刊「タウン通信」だ。印刷所や広告主、配布先も東興通信を踏襲する形での出発だった。東興通信の休刊には手紙や電話で多くの読者から感謝や惜しむ声、お叱りの声が寄せられた。

 驚いたのは「町の問題点をちゃんと伝える媒体がなくてはいけない」という声の大きさだった。「市政を始めとした堅苦しい内容は疎まれているのかと思っていましたが、実際には多くの方がまじめに地域のことを見つめ、知ろうとしていました」(「創刊のあいさつ」)。

 しかし紙媒体の衰退は著しく、とりわけ若い世代はインターネットから情報を得てSNSで情報を発信する。生き残りをかけた地域紙の模索は続く。

 東興通信の経験を通じて、小林さんは歴史を記録し、伝えていくことの大切さを学んだという。76歳になった現在もブログでコラム「きのう・きょう・あす」を書き継いでいる。風化が叫ばれる日本の被爆体験を後世に伝えるため、広島平和記念資料館でガイドのボランティアができないか、などと考えている。ブログにこう記した。

「生き証人が絶えても、残された記録を見よう、聞こうとする気持ちがあれば、後世の関心が絶えることはない。問題は、語る側でなく見る側、聞く側にある。(略)ちょっとしたきっかけさえあれば、人間の愚かな歴史に気づき、中には過ちを繰り返さない道を探し始めてくれる人もいるだろう」
(片岡義博)

 

【主な参考資料】
・小林史明著『一隅にも五分の魂』(東興通信社)
・小林史明著『虫瞰の風景』(東興通信社)
・「週刊東興通信」バックナンバー
・小林史明のメッセージ・ブログ「きのう・きょう・あす

 

片岡義博
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