北多摩戦後クロニクル 第19回
1962年 ひばりが丘団地に「ことぶき食品」開店 ファミレス「すかいらーく」の原点

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年5月9日

 1962(昭和37)年、保谷町(現西東京市)のひばりが丘団地に小さな食料品店「ことぶき食品」がオープンした。地域に根ざした乾物店は、やがて郊外型のファミリーレストランを興し、時代の波に乗って世界的な巨大外食チェーンに発展する。その名前は発祥地のひばりが丘団地にちなんで「すかいらーく」(ひばりの英語名)と名付けられた。

 

ことぶき食品

ひばりが丘団地の一角に開店したことぶき食品

 

消費者最優先という戦略

 

 ことぶき食品を創業したのは、長野県出身の横川家の4兄弟(横川端、茅野亮、横川竟、横川紀夫)。日本が敗戦から立ち上がっていく時代、4人は東京で一旗揚げることを夢見て、ひばりが丘団地に面する食品マーケットの一画に乾物を中心とした広さ約30平方メートルの食料品店をオープンした。

 築地市場で仕入れたアジやサンマの開き、干物、塩鮭、しらす干し、かまぼこ、佃煮、玉子、納豆のほか缶詰、香辛料も並べた。「いつも新鮮、いつも親切」をモットーに、清潔なユニフォームを着た青年が売る鮮度重視の食品はお客の心をたちまちつかみ、開店当初から活況を呈した。

 成功の背景には顧客のニーズを捉えた周到な戦略があった。当時、ひばりが丘団地には幼い子ども連れの若い夫婦が多かった。収入はまだ低く、冷蔵庫はさほど普及していなかった。必要なのは、その日に使う食材だけだ。

 ここに目を付けたのが食品の「小分け商法」だった。なかでもヒットしたのは、しらす干しの小分けパック。築地から仕入れた新鮮なしらすを通常100g単位で売るところ、1袋(10g)10円で売った。「育ち盛りの子供にカルシウムを」という売り文句で飛ぶように売れた。

 周りの店が午後6時~7時で閉店するところを、都心に出勤して夜遅くに帰る通勤客のため、夜の11時過ぎまで営業した。現代のコンビニエンスストアに通じる発想だった。消費者最優先の便利な食品店は68年までに東伏見、秋津、清瀬、西荻窪、国分寺と6店舗に広げ、年商3億円にまで成長した。

 

ことぶき食品店内

ことぶき食品で買い物をする主婦たち

 

常識を覆す経営モデル

 

 店舗の順調な発展に立ち塞がったのは、大手スーパーマーケットの台頭だった。60年代後半から次々に出店する大型スーパーは複雑な流通経路を簡素化し、圧倒的な価格差で小さな食料品店を駆逐していった。70年代にはダイエー小平店、イトーヨーカドー東村山店、西友久米川店など大手スーパーが相次ぎ出店計画を発表し、地元の商店主たちが激しい反対運動を展開した。

 大量生産、大量消費の時代、「流通革命」の波に乗り遅れたことぶき食品に決定打を与えたのは、68年の西友の国分寺駅前進出だった。

 転業を模索する4兄弟は借金をして米国視察に出た。カリフォルニアをバスで回った彼らの目に飛び込んできたのは、郊外のコーヒーショップ型レストランの盛況ぶりだった。広い道路に立ち並ぶマクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、ミスタードーナツ、デニーズ…。

 日本でも外食チェーンの時代が来ることを確信した4人は1970年、府中市と国立市の境にある国道20号線(甲州街道)沿いの麦畑を購入。「スカイラーク」1号店の国立店をオープンした。敷地面積260坪、駐車台数25台、客席数70席。のちに店名はイメージをソフトにするため平仮名の「すかいらーく」にした。

 それまで日本の飲食店は駅前立地が常識で、郊外に車で来店し、しかも午前11時から深夜2時まで開店という営業スタイルは画期的だった。商品は380円のハンバーグを主力に日替わり本日のランチ・コーヒー付きが480円。

 店前に高く掲げたサインポール、道路から丸見えの全面ガラス張りは夜にも人を呼び込む演出だった。柱がなく、天井が高い斬新なレストランの出現に客足は夜になっても途切れず、初年度の年商は7700万円、翌年には1億2000万円の売上を叩き出した。

 

1号店

1号店のスカイラーク国立店。現在は「ガスト国立店」

 

「家族で外食」というライフスタイル

 

 キャッチフレーズは「ホテルの味を半額で」。 サブで「ファミリーも安心してご利用頂けるレストラン」と謳い、「ファミリーレストラン」という呼び名が定着する。

 飲食業界では1970年を「外食元年」と呼ぶ。すかいらーくとケンタッキーフライドチキンの1号店、71年にはマクドナルド、ミスタードーナツがそれぞれ1号店を出すなどファミレス、ファストフードの大規模チェーンがこの時期、一気に開花した。

 可処分所得が増えたうえ車社会の到来によって、「家族で外食」という新たなライフスタイルが広まりつつあった。横川端氏は当時を振り返って語る。

「自動車で移動して食事というスタイルには幹線道路が多く、使える土地も多かった多摩地区は適していた。ことぶき食品が電車で簡単に移動でき、土地も少ない都心にあったら、すかいらーくの発想は生まれなかったと思います」(Foodist「食の仕事人」)

 すかいらーくグループは多摩地区から次々と店舗を広げ、93年には外食産業のうちテーブルサービスレストランとして初の1000店舗出店を達成した。

 

すかいらーく川口新郷店

最後のすかいらーく店舗となった川口新郷店

 

 バブル崩壊後の90年代は低価格路線へと舵を切り、徐々に「ガスト」に衣替えする。2009年、埼玉県・川口新郷店を最後に店舗としてのすかいらーくは姿を消した。すかいらーくグループは2023年3月現在、バーミヤン、ジョナサン、夢庵など総店舗数2979店の世界最大級レストランチェーンになっている。
(片岡義博)(写真は、すかいらーくホールディングス提供)

 

【主な参考資料】
・横川端著『エッセイで綴るわが不思議人生』(文藝春秋企画出版部)
・「外食産業を創った人びと」編集委員会編『外食産業を創った人びと』(日本フードサービス協会)
・「食の仕事人」(すかいらーく)連載1〜5回(Foodist

 

片岡義博
(Visited 1,199 times, 1 visits today)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA