北多摩戦後クロニクル 第21回
1962年 保谷町が全国一斉学力調査を中止 新住民が支えた革新首長

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年5月23日

 1950年代後半から60年代前半にかけて文部省が強行した教員の「勤務評定制度」(勤評)と「全国中学校一斉学力調査」(学テ)は「教育行政の中央集権化」として全国で激しい反対運動が巻き起こった。戦後早くに革新町長を生んだ保谷町(現西東京市)は激しい抵抗の末に勤評を見送り、1962(昭和37)年には学テを実施しない全国唯一の町となり注目を集めた。隣の田無町(現西東京市)でも同年、町政史上初の革新町長が誕生した。60年代後半から全国で革新自治体が相次ぎ誕生するブームに先駆けた町政の転換だった。以後両町では長く革新町政・市政が続き、立ち遅れたインフラ整備を進めていった。

 

学力テスト反対集会

旧保谷町の学力テスト反対集会(1963年、小林つね子家所蔵、西東京市図書館提供)

 

教育行政で先鋭化する反対運動

 

 保谷町では1957年、社会党の山本浅雄町長の跡を継いで初当選した原田彰俊氏が就任早々、原水爆禁止に関する議決を行い、59年の原水爆禁止世界大会に議会選出の町代表派遣を決めた。この頃から町議会も革新的傾向を示し、62年の町議会選挙で革新系議員は15人となって議会定数26人の過半数を制するに至った。

 革新町長を支える政治意識が先鋭的に表れたのは教育行政だった。57年ごろから日本教職員組合が主導した「勤評闘争」で、保谷町は町教組をはじめ町議会、住民団体が町ぐるみの激しい反対運動を繰り広げ、58年に都の規則に定める勤評の実施を見送った。実施を推進すべき町教育委員会が抵抗を示したことで保谷町の名は全国に知れ渡ることになる。町教委を動かしたのは住民運動、とりわけ勉強会や署名運動を重ね、議会に勤評反対の請願書を提出した「保谷母親連絡会」だった。

 61年から本格化した「学テ闘争」でも保谷町は文部省、都教委、町教委を巻き込む反対派・賛成派の激しい攻防の末、62年に中止を決めた。翌年、町議会は中止の請願を採択し、学テ反対は保谷町の公的方針となったが、対立が深まる中で実施された学テでは、生徒が白紙の答案を出したり、生徒集会を開いたり、学校に警察車両が集結したりと現場は混乱を極めた。教育行政をめぐる保谷の激しい反対運動は近隣自治体にも波及して田無町教委は66年、学テ中止に至った。

 

団地主婦の自治会が主導

 

 北多摩地域で革新的な政治意識が醸成された背景には、戦後の人口急増に伴う地域の構造的変化がある。都心のベッドタウンとして急速に進む宅地開発は新住民の大量流入を招いた。例えば田無町では1962年に早くも新住民の数が旧住民を上回っている。人口急増は住民の生活上の窮状を次々に招いた。ゴミ処理、し尿処理、水不足、保育所・学校不足、交通渋滞、水害……生活上不可欠なインフラ整備が人口に追いつかず、不満を募らせた新住民は、地縁・血縁に縛られることなく身近な生活の改善を革新系の首長や議員に託した。

 

給水車

田無町の「水飢饉」で出動した給水車(1962年頃、西東京市図書館所蔵)

 

 政治学者の原武史氏は高度経済成長期に慢性的な住宅不足を解消すべく西武鉄道沿線に次々建設された公営、公団、公社の大規模団地が革新政党、とりわけ共産党の支持基盤になったことを指摘する。久米川団地、ひばりが丘団地、東久留米団地、滝山団地など西武沿線は中小の団地も含めて首都圏で最も団地が密集する地域になった。

 こうした団地に移り住んだ新住民は20代から30代の核家族で戦後民主主義教育の第一世代。多くは「新中間層」と呼ばれる中堅サラリーマン家庭だった。新設団地には通勤、教育、環境面などで政治の貧困を示す要因が山積していた。主婦層が中心になって組織した自治会、学習会には革新勢力が浸透し、その活動は西武鉄道運賃値上げ反対運動などにつながっていく。

 北多摩北部の団地の増加に伴って革新政党の得票率は選挙のたびに増えていった。反体制の政治意識は60年安保闘争という時勢と共振し、さらに「東京23区との歴然たる格差に対する不満とコンプレックスが反中央、反保守政権の意識を醸成した」と指摘する元住民もいる。

 

経済成長のひずみ解消へ

 

 67年に社会、共産両党が推す美濃部亮吉氏が東京都知事に当選した統一地方選以後、都市を中心に革新自治体が次々誕生した。北多摩地区では三鷹市、保谷町、田無町に続き60、70年代に武蔵野、調布、昭島、小金井、国分寺、国立、立川、東久留米各市で革新市長が生まれた。背景にあるのは高度成長に伴う公害発生や社会資本の未整備、社会福祉の貧困であり、革新首長はその解消を政策課題にして取り組んだ。

 田無町で言えば、革新町政下で保健衛生費と福祉事業費の歳出が急増した。具体的にはごみ対策、し尿対策だ。50年代までごみやし尿は自家処理か畑・山林に投棄されていた。切迫する処理問題に60年、清瀬町(現清瀬市)、久留米町(現東久留米市)、保谷町、田無町のごみを共同で処理する「柳泉園組合」が発足し、久留米町にごみ焼却場とし尿処理場を建設した。さらに上下水道の整備に着手し、63年には5%だった田無町の上水道の普及率は2年後には40%、6年後には80%に達した。

 

都丸哲也元保谷市長

「茨木のり子没後15年の集い」で詩の朗読に参加した都丸哲也 元保谷市長(2021年9月、西東京市・保谷こもれびホール。撮影= ノースアイランド舎)

 

 革新自治体は70年代後半から急速に姿を消していくが、保谷は保守系市長2期を挟んで93年まで、田無は共産を除く保革相乗りで当選した社会党出身の市長を含めれば2001年まで続いた。

 その中で1947年に革新系の保谷町長に就いた山本一司氏はそれから市議を8期務め、1995年に90歳の最高齢市議(当時)を記録した。さらに1977年から保谷市長を4期務めた都丸哲也氏は、2023年5月現在102歳。100歳を超えてなお積極的に護憲運動や平和活動を続けてきたことを記しておく。
(片岡義博)

 

【主な参考資料】
・『保谷市史 通史編3 近現代』
・『田無市史 第三巻 通史編』
・原武史著『レッドアローとスターハウス』(新潮社)
・多摩文化資料室『多摩のあゆみ』173号「多摩の団地」(たましん地域文化財団)
・岡田一郎著『革新自治体』(中公新書)
・『資料 革新自治体』(日本評論社)
・原田彰俊著『はじめは青空だけだった』(合同出版)

 

片岡義博
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