田無に住んでいたプロ野球「記録の神様」 数字とともに生きた山内以九士の70年
今年の夏も高校野球にプロ野球、都市対抗野球と、野球のトピックは途切れません。野球の話で盛り上がる時、あるいは往年の選手のすごさを想像する時に、「記録」を切り口にすることは結構あるのではないでしょうか。
没後に殿堂入り
例えばプロ野球では昨2022年、ヤクルト・村上宗隆選手やロッテ・佐々木朗希投手などが大記録を打ち立てました。メディアはその際、「三冠王は史上最年少」「1試合19奪三振は最多タイ記録」というように報じました。こう言い切れるのは、プロ野球が始まった1936年以降の全試合・全プレーに不明な個所がないからです。
そこに決定的な役割を果たしたのが、元パ・リーグ記録部長の山内以九士(やまのうち・いくじ=1902~72)です。プロ野球の世界で「記録の神様」と呼ばれるうちの一人で、没後の1985年には野球殿堂入りを果たしました。最晩年の10年間を田無で過ごした山内は、私にとって母方の祖父にあたります。
記録・規則面でプロ野球の土台築く
山内が野球のとりこになったのは、旧制松江中学(島根県)の時でした。以来、プレーはせずマネジャーとして、スコアのつけ方やルールを研究するようになります。慶応義塾大学に進むと野球熱はますます高まり、研究成果は日本プロ野球に次々に採用されていきました。
例えば、山内の全面協力で1936年に刊行された『最新野球規則』は、日本プロ野球のルールのもとになりました。現在でも使われているプロ野球のスコアは「慶応式」と呼ばれ、山内が慶大時代の師・直木松太郎とともに作り上げたものです。
日米開戦直後には松江を離れ、関西の試合を担当する公式記録員になりました。戦後の1950年、プロ野球がセ・パ両リーグに分かれるとパ・リーグ記録部に属し、第2代の記録部長に。選手の生涯記録をまとめたり、打撃や守備などの記録を分析したりする「パ・リーグ年報」を毎年刊行し、記録を切り口にした野球の醍醐味をファンに提供し続けました。
「奇人・変人」と呼ばれた
1954年には幾多の困難を乗り越えて、「ベースボール・レディ・レコナー」を出版しました。ポケット版辞書ほどの大きさで、どのページも数字がびっしり。打数・安打数から打率をすぐに出せる「打率早見表」です。電卓もパソコンもない時代、記者や実況アナウンサーなど野球関係者から大いに喜ばれました。
1963年にパ・リーグを定年退職。その後は、コミッショナーからの求めに応じ、1リーグ時代のスコアカードを見直し、不明部分を埋める作業を続けました。清書したスコアは5000試合にのぼります。
ここまで書くと、生真面目で実直な人物を思い浮かべる方がいるかもしれません。実際は「奇人・変人」と呼ばれ、世間の常識とはかなり離れたところに生きていました。今風に言えば「キャラが立つ」タイプですね。
重要会議…でも編み棒の手は止めず
最大の非常識は、裕福な商家の長男に生まれながら、野球の道に進むため家業を畳んだことでしょう。趣味も編み物にお茶、昆虫採集など多彩で、これらを仕事の場にも持ち込みました。「ルール改正の重要な会議の席で、編み棒の手を止めずに議論を続けた」「地方遠征には茶道具も編み物道具も肌身離さず持ち歩いた」――。型破りなエピソードが残っています。
草創期のプロ野球は、損得抜きで、野球がひたすら好きという、山内のような人物を必要としたのかもしれません。なぜなら戦前・戦中、そして戦後もしばらくは、プロ野球は「職業野球」とさげすまれて社会的地位が低く、設備もスタッフも、あらゆるものが不足していたからです。
野球の記録と規則の整備に捧げた山内の生涯を、昨年、本にまとめました。選手の華々しいエピソードとは無縁の、とても地味な内容ですが、何人もの方から反響をいただきました。昔のプロ野球の記録エピソードを中心に、インスタグラムも日々更新中です(@yasuji_muro)。多摩六都地域にお住まいの野球ファンの方にも、山内のことを知っていただけたらうれしいです。
【筆者略歴】
室 靖治(むろ・やすじ)
1967年、兵庫県西宮市生まれ。5歳の時、田無市(現西東京市)へ。90年、読売新聞社 (現読売新聞東京本社)に入り、富山支局、生活情報部、福島支局、人事部、読者センターなどを経て現在は編集局デジタル編集部所属。趣味は鉄道と古書店巡り。山内以九士の孫。
【書誌情報】
書 名:「記録の神様」山内以九士と野球の青春
出版社:道和書院(HP)
出版年:2022年6月
定 価:2,000円+税