2022年11月、多摩都市モノレールの上北台(東大和市)から西多摩郡瑞穂町・箱根ケ崎まで約7キロの延伸計画が発表された。新青梅街道沿いに高架軌道を設置し、7つの駅を設ける。旧北多摩郡内で唯一鉄道を持たなかった武蔵村山市地域にも5つの駅ができるという意義に加えて、戦後を通じての課題だった北多摩を東西に貫く交通インフラ整備の1つの到達点という意味でも画期的な出来事だ。

 2002年7月、早稲田大学ラグビー蹴球部が西東京市から杉並区上井草に移転、74年間にわたる「東伏見」での歴史に幕を閉じた。同ラグビー部は1918(大正7)年創設、幾多の名選手を生み、大学日本一16回、社会人を含めた日本選手権でも4回優勝するなど大学ラグビー・ナンバーワンの戦績を誇る。ラグビーのほかにもサッカー、野球、馬術などさまざまな施設を持っていた早大東伏見キャンパスは今も学生スポーツの聖地として活気を維持し、周辺の住民にとっても憩いと交流の場になっている。

 1995(平成7)年、東村山市の狭山丘陵南側の谷を流れる北川(荒川水系柳瀬川の支流)左岸に約2万平方メートルの規模で広がる「下宅部(しもやけべ)遺跡」が発見された。約13000平方メートルの調査で出た総数20万点以上の遺物のうち、縄文時代後期の特に木製品などの有機物が大量に出土した上、鮮やかな朱の漆塗り製品が目を引く全国的にも貴重な遺跡であることが分かり、2020年国の重要文化財に指定された。

 1992(平成4)年2月14日未明、清瀬市旭が丘、東村山署旭が丘派出所で1人勤務中だった大越晴美巡査長=当時(42)、殉職で警部補に特進=が何者かに刃物で襲われて殺害され、実弾入りの拳銃が奪われた。その後の懸命な捜査にも関わらず事件は未解決のまま2007年時効となった。郊外の静かな団地で起きた惨劇に社会的不安が高まり、派出所勤務の危険性や銃器管理の在り方もあらためて論議を呼んだ。

 1987(昭和62)年6月6日深夜、東村山市青葉町の特別養護老人ホーム「松寿園」から出火、3階建ての施設に収容されていたお年寄り74人のうち17人が死亡、25人が負傷した。老人ホームの火災としては戦後2番目に多くの犠牲者を出す惨事だった。老人福祉施設の安全管理に大きな教訓となるとともに、医療を含めた福祉の在り方に論議を呼ぶきっかけとなった。

 1986(昭和61)年3月23日午後零時10分ごろ、田無市(現西東京市)本町の西武新宿線田無駅1番ホームで、停車中の上り準急電車に急行電車が追突し、乗客計204人が重軽傷を負った。

 1981(昭和56)年11月、清瀬市で東京都下水道局の下水道処理施設「清瀬水再生センター」が運転開始した。清瀬、西東京、東久留米、小平、東村山、東大和、武蔵村山、小金井、武蔵野9市にまたがる地域の下水を集めて浄化し、荒川水系の柳瀬川に放流する。遅れていた北多摩地域の流域下水道事業はこれにより近代化が完成し、その後世界初といわれる下水汚泥ガス化炉施設も稼働した。施設上部はスポーツセンターとして市民の交流の場にもなっており、95年開館の「小平市ふれあい下水道館」とともに地元にさまざまなサービスを提供している。

 1977(昭和52)年4月、清瀬市にある気象通信所が廃止され、新たに静止気象衛星運用を目的とした気象衛星センターが発足した。現在の職員数は84人。さまざまな技術革新を経て精密な気象観測、予報になくてはならない中心施設となっている一方、地元との結びつきも強まっている。

 1974(昭和49)年、小平市立鈴木小学校の建設現場から後期旧石器時代の大遺跡が見つかった。戦前まで日本には旧石器遺跡はないと考えられていたが1946年、群馬県で岩宿遺跡が発見されて以来全国で発掘が相次ぎ、そのうち鈴木遺跡は総面積23万平方メートルに及ぶ規模の大きさ、遺跡が示す年代の長さ、石器の豊富さなどで有数とされる。

 1973(昭和48)年4月1日、JR武蔵野線が府中本町駅(東京都府中市)―新松戸駅(千葉県松戸市)間で運行開始された。東京・多摩地域と埼玉県へ南北に貫く鉄道はそれまでに無く、以前からの夢が実現した形だった。しかし当初は貨物輸送が主で、北多摩沿線住民からすれば西武鉄道との接続が不便な上、旅客用電車の本数も少なく恩恵は今一つだった。その後、首都圏の拡大に伴って鉄道インフラとしての重要性は急速に増し、本数や駅数の増加、他線との直通運転など利用客向けのサービスも徐々に向上して、今では地域にとってなくてはならぬ生活路線となった。

 東京都内最大級といわれるひまわり畑をめぐってその美しさを満喫できるイベント「ひまわりフェスティバル」が清瀬市で開かれる。新型コロナウイルス感染症の影響で3年間中止になっていたのがことし復活。7月22日から30日までの期間中に10万人が訪れると予想して準備が進み、7月1日からインターネットでの予約受付が始まる。主催者はボランティアで運営する無料のイベントを支えるためのクラウドファンディングへの協力を呼び掛けている。

 1966(昭和41)年3月、東村山市恩多町の建売団地「久米川文化村」で集団赤痢が発生、患者・保菌者は400人以上に上った。団地の開発業者が殺菌装置の壊れた井戸水を供給し続けたのが原因だった。

 1962(昭和37)年、東村山町(現東村山市)に廃棄物処理施設「秋水園」が完成した。急速な人口増加に伴うごみ、し尿などの収集、処理という大問題に対する先進的取り組みだったが、その後も社会情勢の変化に従ってさまざまな対応と改良を迫られた。“迷惑施設”とのイメージを克服し、環境保護最前線の役割を担う縁の下の力持ちのチャレンジが続いている。

 1953(昭和28)年6月18日、米軍の輸送機C124グローブマスターが小平町(現小平市)小川のスイカや麦を栽培していた農地に墜落、炎上し、乗っていた乗員と米兵計129人全員が死亡した。当時としては史上最悪の航空機事故となった。米空軍立川基地(現自衛隊立川飛行場)を午後4時31分に離陸した直後で、墜落現場は基地の北東数キロの地点だった。朝鮮戦争に従軍し、休暇中の日本から前線に戻る途中の陸軍と空軍の兵士が多く含まれていた。左側エンジンの故障が原因とされた。(写真は、上空から見た米軍輸送機の墜落現場。小平市立図書館所蔵)

 1950(昭和25)年、現在の「西武園ゆうえんち」の前身「東村山文化園」がオープンした。西武鉄道による観光、娯楽の一大拠点として、その後の時代の変化の波にもまれつつ進化を続けている。