米軍輸送機の墜落現場

北多摩戦後クロニクル 第12回
1953年 米軍輸送機、小平に墜落 戦場に向かう米兵129人犠牲

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年3月21日

 1953(昭和28)年6月18日、米軍の輸送機C124グローブマスターが小平町(現小平市)小川のスイカや麦を栽培していた農地に墜落、炎上し、乗っていた乗員と米兵計129人全員が死亡した。当時としては史上最悪の航空機事故となった。米空軍立川基地(現自衛隊立川飛行場)を午後4時31分に離陸した直後で、墜落現場は基地の北東数キロの地点だった。朝鮮戦争に従軍し、休暇中の日本から前線に戻る途中の陸軍と空軍の兵士が多く含まれていた。左側エンジンの故障が原因とされた。(写真は、上空から見た米軍輸送機の墜落現場。小平市立図書館所蔵)

 

C124グローブマスターの同型機

墜落したC124グローブマスターの同型機(Fly Team提供)

 

住民、メディアを排除

 

 農地で作業していた35歳の男性1人がやけどを負ったほか、農作業小屋が壊れたり、その後農地がしばらくの期間使えなくなったりの被害が出た。墜落現場には警察、消防、地元の関係者らが駆け付けたが、立川基地、横田基地から来た武装米兵が現場を封鎖して処理に当たり、遺体や機体の破片は立川基地に搬送された。米軍は周囲2キロにわたり立ち入り禁止とし、住民を追い払い、メディアの取材も強圧的に排除した。

 

墜落したC124

墜落した米軍輸送機(小平市立図書館所蔵)

 

 米軍の処理作業で地元の民家や敷地、施設のほか、農作物にも被害が生じた。小川地区の住民は損害賠償を要求したが、約229万円の請求に対し、政府が応えたのは3分の1ほどの85万円だった。53年8月4日、住民によって事故現場で米兵の慰霊祭が営まれた。また一時、「犠牲者追悼之標」が建てられたという。

 

基地反対運動に火

 

 この事故は米軍基地反対の運動に火をつけた。現場に近い津田塾大学の学生自治会は「平和の危機と朝鮮戦争の残酷さ、そしてその朝鮮戦争とこの三多摩が直結していることが、この事件によって正に自分達のものとして身近に痛いほど感じられたのです。日夜夜毎爆音に悩まされ、あのような惨事の恐怖に晒されている私達三多摩の学生として今こそ手をとり合って平和を守る運動に立ち上がろうではありませんか」とのアピールを発表した。

 この時期の米軍機による事故はこれだけではなかった。1950年、朝鮮戦争が始まって間もなく、昭和町(現昭島市)の住宅付近に小型機が墜落、同じ年の8月にはB29が南多摩郡日野町(現日野市)の山中に墜落した。51年11月には立川基地離陸に失敗したB29が住宅地に墜落し民家を全焼したほか100戸以上に被害を与えた。さらに52年2月、横田基地のB29が埼玉県入間郡金子村(現入間市)に墜落し17人が死亡、民家13棟が全焼した。

 3年後の55年5月には立川基地拡張に反対する、いわゆる砂川闘争が起きる。「心に杭は打たれない」が合言葉となったことに表される、土地を死守しようとする住民運動と革新勢力の平和運動が結びつき、学生を先頭とした実力闘争が盛り上がり、全国を代表する反基地の闘いとなった。小平町内でも米軍関係の交通事故などが相次いだこともあって、反基地・反戦の声が高まった。小平町議会は61年9月、米ソに対する核実験禁止要望案を決議し、両国首脳に送付した。

 

墜落現場跡

現在の墜落現場跡

平和の碑

墜落現場跡に建つ「平和の碑」

 

薄れる記憶

 

 小平市の墜落現場跡は現在、自動車教習所、住宅地、小公園、わずかに残る畑としてきれいに整備され当時の面影はない。事故を記憶している住民も数少なくなっていることだろう。小公園の一角に2021年3月「平和の碑」が建てられ、悲惨な事故の現場であることを示している。

 

砂川学習館

立川市・砂川学習館の展示

 

 元米軍立川基地北側で、滑走路の延長上にある立川市砂川町の「砂川学習館」には砂川闘争の資料が展示されている。展示を見に来た近くに住む80代の女性に話を聴いた。「小平に米軍機が落ちた大惨事? 昭和28年といえば18歳ぐらいだったけど覚えてないなあ。当時は昼となく夜となく飛行機がブンブン飛んで、うるさいし怖かった。砂川闘争? それはもちろんはっきり覚えてますよ」
(飯岡志郎)

 

【主な参考資料】
・小平市史編さん委員会編『小平市史 近現代編』
・三田鶴吉『立川飛行場物語』(けやき出版)

 

飯岡 志郎
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