北多摩戦後クロニクル 第24回
1966年 東村山の住宅地で集団赤痢 ずさんな水道設備から感染400人超

投稿者: カテゴリー: 連載・特集・企画 オン 2023年6月13日

 1966(昭和41)年3月、東村山市恩多町の建売団地「久米川文化村」で集団赤痢が発生、患者・保菌者は400人以上に上った。団地の開発業者が殺菌装置の壊れた井戸水を供給し続けたのが原因だった。

 

久米川文化村

集団赤痢発生当時の久米川文化村(『東村山市史 2 通史編 下巻』より)

 

簡易水道に汚水混入?

 

 久米川文化村は東村山市の西武新宿線東村山駅の東約1.5キロ、南から北へ流れる空堀川の右岸に東京の建設会社木下工務店が造成し64年から売り出した約3万3000平方メートルの建売団地で、急速なベッドタウン化に伴う住宅需要を背景とした開発だった。

 3月18日に住民から田無保健所に赤痢を疑われる患者発生の連絡があったのがきっかけで20人以上の患者が判明し、245世帯の全住民約600人の検査の結果、287人の保菌者がいることが分かった。驚いた東村山市は団地内にテントを張って市長を本部長とする対策本部を設置し、全戸消毒や住民の要望聴取、対応に当たった。

 しかし事態は悪化を続けた。患者らは5つの病院に収容され、住民の約半数が事実上強制的に隔離、市が用意した避難施設などに移った。文化村は一転「ゴーストタウン」とも呼ばれたという。

 団地の児童約30人が当分登校停止となり、通う小学校も消毒されたが、児童同士の感染から別の都営団地にも赤痢が飛び火した。合計の患者・保菌者は拡大し400人を超えた。市、保健所、自治会などの必死の対応の結果、4月に入ってようやく収束した。

 文化村への水道供給は団地内に掘った深さ50メートルと150メートルの2本の井戸。しかし貯水タンクに塩素を加えて殺菌する装置が約1カ月前から動いていなかったことが分かった。

 当時の郊外での住宅開発では、公設水道が間に合わず深井戸を掘って水源とする簡易水道が多かった。久米川文化村の井戸も無届けで、衛生管理もずさん。井戸の構造検査では浅い地下水が混入していたことも分かった。東村山市内の下水道は十分整備されておらず、近くを流れる空堀川は悪臭を放ち下水路同様の状態だったため、汚水が混入していた疑いが浮上した。

 警視庁は7月、施工業者の関係者を業務上過失傷害や水道法違反の容疑で書類送検した。

 

空堀川河道跡

改修前の空堀川河道跡(東村山市栄町)

空堀川

改修された空堀川(東村山市恩多町)

 

無秩序開発に追いつかぬ行政

 

 やっと手に入れたマイホームの水道が汚染されていたという事実に住民の怒りが爆発した。ずさんな施工をした上に、苦情の訴えを当初軽視した施工業者に対してはもちろん、市や保健所の対応にも批判の声が上がった。文化村で4月3日開かれた住民大会では「住民の6割余も患者を出したのは、専用水道の管理に手抜かりがあった。保菌者が全員隔離されたため、家庭が収入減となったのは市の責任である」と補償を要求する方針が決まった。

 文化村での集団赤痢騒ぎの前に予兆は十分あった。61年5月から6月にかけて、東村山に発生した赤痢が周辺の小平町(現小平市)、久留米町(現東久留米市)に広がり感染者が800人に及んでいた。

 戦後いったんは収まっていた東村山の赤痢感染は60年代に入って再び拡大した。人口急増に伴って進められた民間業者による住宅開発では、上水道には井戸、下水道には下水管を通じて地中にしみ込ませる「吸い込み式」が多く、下水が上水に混入する危険性が高かったとされる。行政の側にも無秩序に進む住宅開発に規制と監視が行き届かない実情があった。

 全国の赤痢患者は戦後しばらくの間年間10万人を超え、死者も2万人近くを出したが、衛生環境や意識の改善もあって60年代後半からは激減し74年には2000人を割った。しかし施設等での集団赤痢は今も十分な警戒が必要とされる。

 

災い転じて住民結束

 

 集団赤痢騒ぎを機に、住民の結束は強まった。市への陳情、開発業者や保険会社への要求、医療・衛生分野では互いに力を合わせる場面が多く見られ、強力な自治会も生まれた。文化村は周囲に比べて低い土地に開発されたため、空堀川が大雨のたびにあふれて浸水する被害にも悩まされていた。住民らは河川改修を訴え続け、大規模な拡幅・改修が完成すると川沿いにある「文化村公園」をはじめ地域の美化に力を合わせた。

 

久米川文化村

現在の久米川文化村(東村山市恩多町)

 

 開発当時、久米川文化村には木造平屋建て住宅が立ち並んでいたが、現在はほとんどが2階建ての住宅に建て替わり、真新しい家も目立つ。

 集団赤痢騒ぎがあった後、中古住宅を購入して文化村に住み始めたという男性は「行政もこの騒ぎを重大にとらえたと思います。住民の結束力もあってインフラ整備などは割と早く進んだ気がする。“災い転じて福となす”かもしれないですね」と話した。
(飯岡志郎)

*連載企画「北多摩戦後クロニクル」の >> 目次ページへ 

 

【主な参考資料】
・『東村山市史 2 通史編 下巻』
・「日本伝染病学会雑誌」第43巻8号(1969年)

 

飯岡 志郎
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